清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督3 「RAISE UP」
2017年2月13日 更新

清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督3 「RAISE UP」

2002年度の全国大学選手権で、13年ぶりに優勝した早稲田大学ラグビー部は、新スローガン「RAISE UP(レイズアップ)」を掲げ、オールブラックス(ニュージーランド学生代表)に勝った。 しかしシーズン途中、イラク日本人外交官射殺事件が起こり、よき先輩であり、最強のスローガン「ULTIMATE CRASH」の生みの親でもある奥克彦が殉職され、「やはり俺たちには、アルティメットクラッシュしかない」と気づく。 そして社会人チームに勝利するという16年ぶりの快挙を成し遂げた。

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Raise Up

2002年度 ラグビー大学選手権「早稲田vs関東学院」優勝インタビュー

2003年1月11日、2002年度全国大学選手権決勝戦、早稲田大学 vs 関東学院大学は、27-22で早稲田が勝ち、13シーズンぶりに大学王座に返り咲いた。
大田尾竜彦

大田尾竜彦

2003年3月15日、2003年度のファーストミーティングが開かれた。
清宮克幸監督は、新キャプテンに、大田尾竜彦を指名した。
そして『Over The Top』、『Ultimate Crash』に続いて、新スローガンを「Raise Up(レイズアップ)」とした。
そこには「昇り詰めろ」「こじ開けろ」「突き抜けろ」「奪い取れ」「掴み取れ」という気持ちが込められていた。
しかしこのスローガンには裏があった。
先のシーズン終了後、清宮は奥克彦にスローガンづくりをメールで依頼していた。
「今の早稲田の選手は満たされ過ぎている。
チームが連覇するためには受身では絶対に勝てない。
選手には挑戦する気持ちを失ってほしくない。
奥先輩に自分の気持ちとそんな感じのスローガンをまた1つつくってほしい。」
奥は、清宮とやり取りをしながらイラクに赴任し、メールのやり取りが途絶えてしまった。
こうしてスローガンづくりは中途半端に「Raise Up」に決まってしまった。

また、これまで築き上げてきた『Victory Chain(ビクトリーチェーン)』の、『高速』『継続』『精確』『独自性』『激しさ』に、新たに『Strength(個々の強さと速さ)』を追加された。
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☆ミッション☆

・ラグビーを通じて世の中に夢と希望を与える
・創造と鍛錬による常勝集団となる
・大学選手権優勝
・ジャパンカップ(仮称)ベスト4

☆チームスローガン☆

・RaiseUp

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オールブラックスに勝ち、関東学院に負ける

2003年4月27日、早稲田大学ラグビー部はニュージーランド学生代表(NZU)と対戦した。
この直前、日本代表がNZUに90点差で負けていたが、早稲田は37対31で勝った。
その後も早稲田は春の練習マッチや定期戦を勝ち進んだ。
周囲は「今シーズンも早稲田が優勝」といった。
 (1811150)

しかし2003年6月28日、早稲田は関東学院に50点差以上の差をつけられ大敗した。
関東学院は前年度の大学選手権決勝で早稲田に敗れたから「6月の試合で絶対に勝つ」と明確に目標を定め、早稲田1本にしぼって練習を積み、対策を練り、仕上げていた。
早稲田の弱点を研究し、十分戦略を練っていた。
具体的には早稲田が攻める場所に必ず2人、3人と集中してディフェンスをつけた。
当時の早稲田はスタンドオフのキャプテン大田尾を中心とした半径10mくらいの範囲でムーブをつくっていた。
早稲田は大田尾が動く方向に8割方攻めるという傾向を関東学院は読み、早稲田の攻めをことごとく潰し、ターンオーバーさせた。
関東学院の春口廣監督の戦略は、春の試合で早稲田を倒し、早稲田の選手には関東学院復活のイメージを植えつけ、関東学院の選手には精神的な天井、すなわち早稲田最強というイメージを取り払い、彼らの伸びシロを大きく引き伸ばし、しかも精神的に優位に立ったまま夏合宿でも勝ち、翌年の1月の大学日本一を争うプレーでも、メンタル面で揺るぎないポジションをつかんでおこうというものだった。
1年という長丁場の中の小さな春先の練習試合だったが、春口監督はこの試合を重要視し非常に高い優先順位をつけていた。

イラク日本人外交官射殺事件 やはり俺たちにはアルティメットクラッシュしかない

関東大学対抗戦が始まった。
2003年10月19日、早稲田 vs 日体大、87-33。
2003年10月26日、早稲田 vs 筑波、50-17。
2003年11月8日、早稲田 vs 帝京、64-26 。
2003年11月23日、早稲田 vs 慶応、56-29。
と早稲田大学ラグビー部は勝ち続けた。
そして2003年11月29日、奥克彦が、イラクのティクリートでテロリストの襲撃を受けて死亡した。
奥は、食う、寝る、走る、を繰り返す菅平の夏合宿で、皆がひたすら眠る中、部屋の隅でイヤホンをあて英会話を勉強していたという。
卒業後、オックスフォード大学に留学。
1981年に外務省入省。
2003年4月から在イギリス大使館勤務のままイラクの復興支援業務のため長期出張していた。
「私と奥さんとは学生時代からの付き合いで、特に私が監督に就任してからは、公私に渡ってお付き合いをしていただきました。
私にとって奥さんは良き先輩であり、兄貴分であり、ブレーンであり、最も尊敬する熱い男でした。
色々なことを相談していましたが、最も思い出に残ることは昨年のスローガン・『ULTIMATE CRUSH』を一緒に創ったことです。
英国のホテルで、新年度のスローガンについて相談をし、私のイメージに対して命名してくださったのが奥さんでした。
外交官になるという自らの夢の実現のためにワセダラグビーでの活躍をあきらめざるを得なかった奥さん。
奥さんが命名した『ULTIMATE CRUSH』には、ワセダラグビーに永遠に受け継がれる言葉になりましたよ。
今シーズンもULTIMATE CRUSHすることを誓います。」
(清宮)
「やはり俺たちにはアルティメットクラッシュしかない。」
早稲田大学ラグビー部は、チームスローガンをULTIMATE CRUSH(アルティメットクラッシュ)に戻した。
以前からRaise Up(レイズアップ)は失敗だと感じていた。
アルティメットクラッシュに比べレイズアップは明確な目的、ハッキリした動きがイメージしづらい。
アルティメットクラッシュといえば何をすればいいか具体的にイメージがわくが、レイズアップではイメージが曖昧で選手に伝わらなかった。
前シーズンにはなかった停滞感がチームに漂い、おまけにキャプテン大田尾が怪我をするという不運にも見舞われ、チームは崩れていた。
レイズアップは3月から11月29日までという短い寿命となった。
スローガンを戻すとビックリするほど選手の練習の取り組み方が変化した。

惨敗

早稲田、同志社にギリギリの勝利

早稲田大学ラグビー部は勝ち続けた。
2003年12月7日、関東大学対抗戦 早稲田 vs 明治、29-17。
2003年12月14日、全国大学選手権、早稲田 vs 関西学院、85-15。
2003年12月21日、全国大学選手権、早稲田 vs 京産 67-12。
2003年12月28日、全国大学選手権、早稲田 vs 東海大、38-14。
2004年1月2日、全国大学選手権、早稲田 vs 法政、19-12。
2004年1月10日、全国大学選手権準決勝戦、早稲田 vs 同志社、38-33。
 (1811158)

そして2004年1月17日、全国大学選手権決勝戦、早稲田 vs 関東学院。
このカードの決勝戦は3年連続。
過去2年は1勝1敗。
前年は早稲田が勝ったが、下馬評では春と夏、2回行われた練習試合で圧勝した関東学院有利。
ここまで関東学院大はまったく危なげなくリーグ戦制覇、大学選手権も決勝まで、ほぼベストメンバーで駒を進めてきた。
一方、早稲田も危なげなく勝ちはしたが、怪我人が出てから強さがまったくみられなくなってしまった。
準決勝では同志社大にあわや負けというところで何とか勝ち上がった。
曽我部、首藤の1年生コンビは欠場。
キャプテン大田尾もケガで満足にプレイできる状態ではなかった。
同じ3年連続の決勝進出でも大きな差があった。
前半、圧倒的不利といわれたフォワード戦で早稲田は伊藤雄大を中心に互角に渡り合った。
バックスは、大田尾からのパスをトップスピードで受けて、相手ディフェンス陣の隙間からスピードでゲインするという意志統一が図られていた。
ディフェンスも網の目のように関東学院の突破を防いだ。
前半は0-0で折り返した。
後半、関東学院は前半から問題点を修復してきた。
ポイントは「バックス勝負」
フォワードで勝てないことがわかるとバックスで勝負に賭けた。
前半は耐えた早稲田ディフェンスの集中力が切れた一瞬の隙をついて突破、先制トライを奪って7-0。
続く早稲田の攻撃で大田尾のキックが相手の足に当たって不運にもボールを奪われ、そのまま独走トライを奪われ14-0。
ここから早稲田の歯車が狂ってきた。
攻撃も相手陣に攻め込んでからのハンドリングミスでチャンスを何度も潰した。
連続5トライ奪われ万事休す。
終了直前に1トライ返すも、7-33で関東学院に完敗した。
「お前ら泣くな。
上を向け。
関東の奴らの喜んでる姿を目に焼きつけろ。」
(清宮)
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