35億円の借金を背負ってしまった、さだまさし
35億…。今では、ブルゾンちえみの代名詞となっていますが、かつて、この数字といえば、さだまさしでした。もちろん、地球上にいる男の数云々ではありません。彼がこしらえた借金の総額が35億円だったのです。サラリーマンの生涯賃金が2億円あまりと言われている中で、なんという途方もない金額でしょうか。さだがこれほどの負債を抱えてしまったすべての原因…。それは自身が監督・主演を務めたドキュメンタリー映画『長江』にありました。
祖父、父母が暮らした中国への憧れが、さだを突き動かす
なぜ、さだが長江を題材としたのかというと、彼自身のルーツに関係があります。さだの祖父はもともと中国駐在の諜報員として活動していた人物であり、父と母の出会いも同国において。そのため、さだはかねてより、この家族の思い出が眠る地へ憧れを抱いていたといいます。
かくして1980年、さだの個人事務所『さだ企画』と中国中央電視台(CCTV)との共同制作というかたちをとり、この壮大なるプロジェクトは動き出したのでした。
かくして1980年、さだの個人事務所『さだ企画』と中国中央電視台(CCTV)との共同制作というかたちをとり、この壮大なるプロジェクトは動き出したのでした。
via abysse.co.jp
実父たっての希望もあって映画化は実現した
なお、この映画はさだというよりも、さだの父・佐田雅人氏が熱望したために実現したといいます。さだ曰く、雅人氏常には大きいビジョンを持ち、その実現のためには金に糸目はつけない、勝負師気質な人物だったのだとか。その父を映画『長江』における「製作総指揮」という重要なポジションにおいたこともあり、息子・さだの苦難は始まったのです。
via www.amazon.co.jp
撮影は難航し、当初の予定を大幅に超過する
長江(揚子江)の最初の一滴を見たい…。そんなコンセプトのもと、ドキュメンタリー映画『長江』の撮影はスタートしました。河口から源流へ向かう中で、さだは周囲の街並み、名所、そしてこの地で生きる人々の姿を丁寧にフィルムへ収めていきます。
当初はテレビ用ビデオカメラを使用しての撮影でしたが、途中から映像の劣化を防ぐために、35ミリ映画フィルムにチェンジ。時には、立ち入り禁止区域である源流地域への撮影を行うべく、中国当局にかけあったりもしたために、撮影スケジュールは当初の予定より大幅に超過(結局、源流地域への立ち入りは叶わなかった)。結果、1980年のはじめから1981年7月にかけて、約1年半もの期間を費やすこととなったのでした。
当初はテレビ用ビデオカメラを使用しての撮影でしたが、途中から映像の劣化を防ぐために、35ミリ映画フィルムにチェンジ。時には、立ち入り禁止区域である源流地域への撮影を行うべく、中国当局にかけあったりもしたために、撮影スケジュールは当初の予定より大幅に超過(結局、源流地域への立ち入りは叶わなかった)。結果、1980年のはじめから1981年7月にかけて、約1年半もの期間を費やすこととなったのでした。
via www.iza.ne.jp
全国120の映画館で上映され、配給収入は約5億円のヒットを記録
過酷な撮影の後に完成した『長江』は、市川崑総監修のもと、約148分にも及ぶ大作へと仕上がりました。1981年11月7日から全国120もの映画館で公開され、配給収入は約5億円。ドキュメンタリー映画としては上々のヒットといえるでしょう。
製作費の膨張によって、天文学的な借金をこしらえる
しかし、さだのもとには、28億円もの膨大過ぎる借金が残ってしまいました。利息も含めると、総額35億円。理由は、先述したように、撮影スケジュールがあまりにも超過したことや、空撮用に中国軍ヘリをチャーターしたことなどによる、制作費の膨張に他なりません。
しっかりとお金を管理すれば良かったのですが、さだが資金面にノータッチだったこと、実父が予算度外視でバンバンお金をつぎ込んでいったことが、これほどまで負債が大きくなってしまった原因だったようです。
しっかりとお金を管理すれば良かったのですが、さだが資金面にノータッチだったこと、実父が予算度外視でバンバンお金をつぎ込んでいったことが、これほどまで負債が大きくなってしまった原因だったようです。
年間100回以上のコンサート開催により、借金返済を試みる
しかし、さだはこの壮絶な借金苦を、とてつもないバイタリティで弾き返していきます。もっとも力を入れたのは、コンサートの開催。公演数は、年間にして100回以上。多いときで、162回を記録しています(1982年実績)。
こうした多忙な公演日程をこなすために、体調管理を徹底することはもちろん、喉を傷めぬよう、トークの割合多めの公演スタイルへとシフト。その結果、ステージトークのみを収録したCDが定期的に発売されるほど、話芸が磨かれていったのです。
こうした多忙な公演日程をこなすために、体調管理を徹底することはもちろん、喉を傷めぬよう、トークの割合多めの公演スタイルへとシフト。その結果、ステージトークのみを収録したCDが定期的に発売されるほど、話芸が磨かれていったのです。