連合赤軍の誕生と山岳ベース事件・あさま山荘事件
「連合赤軍」は、1971年7月に結成した。1969年頃に学生運動で主流だった赤軍派の新左翼組織「共産主義者同盟」の中から特に過激路線をとるメンバーが集結した。リーダーは森恒夫と永田洋子。連合赤軍は、革命戦士の育成という理念のもとに、総括というリンチ殺人事件「山岳ベース事件」を起こした。
山岳ベース事件は、1971年12月~72年2月、連合赤軍が軍事訓練のために設けた群馬県・榛名山の山岳アジトで集団リンチを繰り返し、21~28の男女12人が死亡した。
あさま山荘事件は、1972年2月19日に連合赤軍メンバー5人が長野県軽井沢町の保養所に「あさま山荘事件」に立てこもった。事件発生から10日目に人質が救出されて全員が逮捕された。
※「山岳ベース事件」は「あさま山荘事件」後に発覚した。
あさま山荘事件は、1972年2月19日に連合赤軍メンバー5人が長野県軽井沢町の保養所に「あさま山荘事件」に立てこもった。事件発生から10日目に人質が救出されて全員が逮捕された。
※「山岳ベース事件」は「あさま山荘事件」後に発覚した。
連合赤軍の女性革命家、永田洋子
永田洋子(ながた・ひろこ)(1945年2月8日 - 2011年2月5日)
連合赤軍の最高幹部最高指導者として永田洋子は、東京都本郷区元町(現・文京区本郷)に生まれる。生後2ヶ月の時に疎開。横浜市港北区綱島で育つ。
中高は東京の高級住宅街にある私立の女子校「田園調布学園」に通う。卒業後は共立薬科大学薬学部に入学する。在学中に学生運動に傾倒、共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)の活動を開始する。1967年に大学を卒業後は、薬剤師として都内の病院に勤務していた。
1971年7月に「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を結成。12月には革命左派獄外指導者として、赤軍派と「新党」を結成する。「新党」では副委員長に就任する。委員長は森恒夫。
連合赤軍の最高幹部最高指導者として永田洋子は、東京都本郷区元町(現・文京区本郷)に生まれる。生後2ヶ月の時に疎開。横浜市港北区綱島で育つ。
中高は東京の高級住宅街にある私立の女子校「田園調布学園」に通う。卒業後は共立薬科大学薬学部に入学する。在学中に学生運動に傾倒、共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)の活動を開始する。1967年に大学を卒業後は、薬剤師として都内の病院に勤務していた。
1971年7月に「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を結成。12月には革命左派獄外指導者として、赤軍派と「新党」を結成する。「新党」では副委員長に就任する。委員長は森恒夫。
あさま山荘事件50年 映像で振り返る
via www.youtube.com
「あさま山荘事件」が起きる前の1972年2月17日、最高指導者の森と下山した永田は、キャンプに戻ろうとしたところ群馬県の妙義山中で森恒夫とともに逮捕された。捜査員に連行される永田洋子は、連合赤軍の最高幹部最高指導者のイメージとは程遠いごく普通の小柄な女性だった。髪型は70年代に流行したマッシュな ショートヘアスタイル。派手さはなく地味な印象だ。
「山岳ベース事件」では女性指導者だった永田の「女性特有の執拗しつようさ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」などが指摘され、仲間を死なせた罪などに問われ1983年に死刑判決を受ける。永田は事実誤認があるとして控訴、判決を受け入れないことを表明。東京拘置所で「十六の墓標」(彩流社、1990年)、「獄中からの手紙」などの著書を書き記している。1993年2月19日に最高裁判所で死刑の判決が確定した。
「山岳ベース事件」では女性指導者だった永田の「女性特有の執拗しつようさ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」などが指摘され、仲間を死なせた罪などに問われ1983年に死刑判決を受ける。永田は事実誤認があるとして控訴、判決を受け入れないことを表明。東京拘置所で「十六の墓標」(彩流社、1990年)、「獄中からの手紙」などの著書を書き記している。1993年2月19日に最高裁判所で死刑の判決が確定した。
「死の総括 -連合赤軍リンチ殺人事件-」No.948_2 #中日ニュース
via www.youtube.com
その後、獄中の永田は、脳腫瘍を患い手術を受けるも寝たきりの状態だった。2008年に危篤状態となった。2011年2月2月5日に永田元死刑囚は、東京拘置所で脳萎縮、誤嚥性肺炎のため65歳で獄死した。
via pixabay.com
永田洋子が大学に進学した1963年の大学進学率は、15.4%、女子は、9.0 %。お嬢さん学校出身の女子が薬剤師になった。彼女が目指したもの理想は何だったのか?現在では問題になる女性特有という表現とその感情や嫉妬がリンチの動機となったのだろうか。永田だけが責められ罪を背負ったまま獄中でこの世を去った。
※永田と一緒に逮捕された森恒夫は、1973年1月に東京拘置所内で自殺している。
永田洋子と同じ年、1945年生まれの女性芸能人
吉永小百合、栗原小巻(3月)、阿木燿子(5月)、富司純子(12月)。
※永田と一緒に逮捕された森恒夫は、1973年1月に東京拘置所内で自殺している。
永田洋子と同じ年、1945年生まれの女性芸能人
吉永小百合、栗原小巻(3月)、阿木燿子(5月)、富司純子(12月)。
赤軍幹部の美人妻、遠山美枝子
遠山美枝子、(1946年8月12日 - 1972年1月7日)赤軍派最高幹部、高原浩之の美人妻と言われる遠山美枝子もまた、日本の革命家であり、共産主義者同盟赤軍派メンバーだ。神奈川県出身、県立横浜緑ケ丘高等学校、明治大学法学部卒。大学在学中に赤軍派に参加。明治大学現代思想研究会では、重信房子と活動をともにした。夜学に通う勤労学生だった二人は意気投合したという。遠山は、重信房子の親友であり、中東に旅立つ重信を見送っている。
1972年1月7日に山岳ベース事件の犠牲者になる。連合赤軍幹部の永田洋子らの総括により、25歳の若さで亡くなった。
1972年1月7日に山岳ベース事件の犠牲者になる。連合赤軍幹部の永田洋子らの総括により、25歳の若さで亡くなった。
via amzn.to
Amazon.co.jp: 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 : 坂井真紀, ARATA, 並木愛枝, 地曵豪, 奥貫薫, 佐野史郎, RIKIYA, 若松孝二, 掛川正幸, 大友麻子, 若松孝二: Prime Video
¥400
2008年公開の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では、主役の遠山美枝子を坂井真紀が演じている。
髪を伸ばして化粧している遠山は、革命戦士とふさわしくないと批判される。高原の妻である遠山が指輪をしていることをリーダーの森が注意しないなどの理由により総括の対象となる。指輪について、遠山は結婚指輪では無く親が買ったと主張した。
革命家と言っても、連合赤軍は若い男女が集まりだ。恋愛感情が生まれることもあるだろう。美人の遠山に地味な永田が嫉妬したと想像に容易い。しかし、遠山美枝子も革命戦士として山岳ベースに参加している。また、永田と遠山を比べて、そこまで容姿に違いがあるとは思えないのだ。同じ女性として、二人に共通していることは、男性に負けない革命家になることだったのではないか。
恵まれた環境で育った永田と違い、遠山美枝子は幼い時に父を亡くし貧困を経験している。高校卒業後、キリンビールに勤めながら明大の夜間に通い卒業した。遠山と同年代(1945年生まれ)の吉永小百合も、高校中退後の20歳の時に早稲田大学第二文学部(夜間部)に進学、卒業した。そんな時代だった。
遠山美枝子と同じ年、1945年1946年生まれの芸能人
中尾ミエ(6月)、木の実ナナ(8月)、大原麗子(11月)
革命家と言っても、連合赤軍は若い男女が集まりだ。恋愛感情が生まれることもあるだろう。美人の遠山に地味な永田が嫉妬したと想像に容易い。しかし、遠山美枝子も革命戦士として山岳ベースに参加している。また、永田と遠山を比べて、そこまで容姿に違いがあるとは思えないのだ。同じ女性として、二人に共通していることは、男性に負けない革命家になることだったのではないか。
恵まれた環境で育った永田と違い、遠山美枝子は幼い時に父を亡くし貧困を経験している。高校卒業後、キリンビールに勤めながら明大の夜間に通い卒業した。遠山と同年代(1945年生まれ)の吉永小百合も、高校中退後の20歳の時に早稲田大学第二文学部(夜間部)に進学、卒業した。そんな時代だった。
遠山美枝子と同じ年、1945年1946年生まれの芸能人
中尾ミエ(6月)、木の実ナナ(8月)、大原麗子(11月)
元日本赤軍のリーダーでテロリスト重信房子
重信房子(1945年9月28日 - )東京都世田谷区出身。東京都立第一商業高等学校卒業後、小学校教員を目指しキッコーマンで働きながら、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通う。大学在学中に文学研究会が属し研究部連合会の事務長を務める。学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この時に「山岳ベース事件」でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子と知り合う。全学連に加入して社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わる。その後共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとなり、女性最高幹部に上り詰める。
重信メイ、母・重信房子が逮捕された日について語る
via www.youtube.com
1970年5月9日、大菩薩峠事件に関与していたとして、東京都町田市内で爆発物取締罰則、殺人予備容疑で逮捕されるも釈放される。
1971年2月2日に神戸市で「京都パルチザン」の奥平剛士との婚姻届を提出、偽装結婚する。2月28日に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作るために「奥平房子」名で日本を出国レバノンのベイルートへ向かう。奥平剛士は、1972年5月30日に岡本公三・安田安之らとテルアビブ空港乱射事件を起こし死亡した。重信房子は 後にパレスチナ人男性と結婚した。1973年3月1日に娘の重信メイが誕生する。
重信は日本赤軍の最高幹部となり、1980年代にかけて世界各地でハイジャック事件や誘拐事件など多数の日本赤軍事件を起こす。1974年に起きた「ハーグ事件」への関与で国際手配される。事件から26年逃亡していたが、2000年11月8日に大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕された。
1971年2月2日に神戸市で「京都パルチザン」の奥平剛士との婚姻届を提出、偽装結婚する。2月28日に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作るために「奥平房子」名で日本を出国レバノンのベイルートへ向かう。奥平剛士は、1972年5月30日に岡本公三・安田安之らとテルアビブ空港乱射事件を起こし死亡した。重信房子は 後にパレスチナ人男性と結婚した。1973年3月1日に娘の重信メイが誕生する。
重信は日本赤軍の最高幹部となり、1980年代にかけて世界各地でハイジャック事件や誘拐事件など多数の日本赤軍事件を起こす。1974年に起きた「ハーグ事件」への関与で国際手配される。事件から26年逃亡していたが、2000年11月8日に大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕された。