【八名信夫】まずい!もう一杯!キューサイの青汁CMで知られる悪役商会のリーダー!
2021年2月19日 更新

【八名信夫】まずい!もう一杯!キューサイの青汁CMで知られる悪役商会のリーダー!

悪役商会の俳優にしてリーダーの八名信夫さん。キューサイ青汁のテレビCMでは「まずい!もう一杯!」のキャッチコピーで幅広い世代に知られるようになりました。今回の記事では、そんな八名信夫さんの生い立ちやプロ野球選手をしていた過去・現在をご紹介したいと思います。

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悪役商会のボス・八名信夫さん

本名  :八名信夫
生年月日:1935年8月19日
出身地 :岡山県岡山市
血液型 :B型
職業  :俳優
     タレント
     元プロ野球選手
活動期間:1956年~

八名信夫さんの経歴

父親は国鉄線・岡山駅の助役をしており、終戦後には退職し、芝居小屋も兼ねた映画館を営んでいたそうです。1935年、八名信夫さんは姉に次ぐ長男として八名家に生を受けます。
1945年、9歳のときに岡山大空襲に遭い、一家で後楽園に逃げたというようなエピソードも残っています。終戦後、まだ幼かった八名信夫さんはアメリカ兵がキャッチボールをしている姿をみて野球を始めました。

高校は野球の強豪校として知られる岡山東商業高校に進学。在学中は甲子園に出場できなかったものの、1953年には春の中国大会県予選では投手を務めて勝ち進み、本大会への出場も果たしています。
高校卒業後も野球に打ち込むため、八名信夫さんは明治大学に入学。野球部でが投手としての将来を期待されていましたが、先輩からのしごきに耐えられず、2年生のときに中退されました。
1956年、プロ野球・東映フライヤーズに入団します。投手として1年目から一軍に上がり、9試合に登板しました。その内、2試合は先発を務めて0勝1敗を記録。
それ以降も一軍で起用されますが、3年目の近鉄パールスとの試合で腰を骨折し、選手生命を断たれて現役を引退されています。
プロ野球引退後は、東映フライヤーズのオーナー・大川博さんからの勧めを受け、親会社である東映の専属俳優となります。当時の八名信夫さんは二枚目役としてご活躍し、主演作品にも恵まれました。
しかし、ライバルの多い俳優業において、自身の売り込むため、身体が大きい自分が撃たれたほうが迫力のある映像になると宣伝し、悪役のイメージが定着するようになります。
1983年には悪役商会を結成し、八名信夫さんはリーダーに就任しました。その後、数々の悪党を演じ、1990年代にバラエティー番組に出演したバラエティー番組では、悪役として1000回以上は殺されたとも懐述しています。
近年は悪役のイメージから離れ、優しいお爺さんなどの役にも挑戦しており、個性派俳優としてのご活躍も目立ちます。2016年には自ら初の監督を務めた映画『おやじの釜めしと編みかけのセーター』を制作され、翌年2017年には無料上映会というかたちで公開されました。

八名信夫さんにまつわるエピソード

悪役商会の規律

悪役が本当に犯罪を犯したらシャレにならないというのが八名信夫さんの信念。そのため、悪役商会では軽微なものであっても罪を犯した役者は問答無用で脱退させています。
あくまで役のみに徹するのであって、実態が伴なっていてはいけないということですよね。
結成時から老人ホームや刑務所を慰問するボランティアにも積極的で、その活動は現在も続いています。ミドルエッジには悪役商会を紹介した記事もありますので、そちらも併せてご覧になってみてください。

キューサイの青汁CM秘話

「まずい!もう一杯!」の台詞がインパクト抜群だったキューサイ青汁のテレビCM。
しかし、当時の台本には「こいつは悪役にもいいな」と書かれていたみたいです。
八名信夫さんは撮影に立ち会っていた社長に直接、CMで「まずい」と言えないかと尋ねたところ、それだとマイナスイメージしか与えないから「もう一杯!」と加えようといった話の流れになったのだといいます。
結果的にCMはブレイクして3カ月だった最初の契約は、1986年から2018年まで続くことになりました。このイメージが世間に浸透すると、役者としても善人役のオファーがくるようになったとのこと。八名信夫さんにとって、人生の転機になった仕事であるのは間違いないですね。
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