【高田純次】テキトー男の数々の名言・奇行が凄すぎる!そのレジェンドを振り返ろう!
2021年2月28日 更新

【高田純次】テキトー男の数々の名言・奇行が凄すぎる!そのレジェンドを振り返ろう!

テレビ番組に出演しては、奇妙な行動・発言で私たちを爆笑の渦に巻き込む高田純次さん。テキトー男の芸風は唯一無二の存在で、他の追随を許しません。今回の記事では、そんな高田純次さんにスポットを当て、経歴や名言・奇行を振り返っていきます。爆笑間違いなしの動画も掲載していますので、ぜひ記事をご覧になってくださいね。

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唯一無二のコメディアン・高田純次さん

高田純次さんのプロフィール

高田純次さんのプロフィール

本名  :高田純次
生年月日:1947年1月21日
出身地 :東京都調布市
血液型 :O型
職業  :タレント
     俳優
     会社役員
活動期間:1977年~

高田純次さんの経歴

1947年、東京都調布市に東京ガス勤務の父親と母親の間に生まれた高田純次さん。しかし、高田純次さんが4歳のときに母親が病死してしまい、父親と再婚相手の義母といった家庭環境で育ちました。
https://www.irasutoya.com/2012/12/blog-post_7370.html (2260563)

意外と学生時代は、父親と同じように東京ガスへの就職や弁護士を目指していたそうです。
明治大学・青山学院大学・法政大学・中央大学などの名門校を受験しますが、全て不合格。その後も一浪して志望校入学を目指しましたが、いずれも失敗に終わり、東京デザイナー学院グラフィックデザイン科に進学しました。
1971年、自由劇場の舞台を観て刺激を受け、俳優を目指し、そのまま研究生となります。自由劇場は1年で退団し、ともに退団したイッセー尾形さんと劇団『うでくらべ』を結成しますが、その劇団も10カ月ほどで解散しています。
https://www.irasutoya.com/2013/09/blog-post_1.html (2260565)

その後、ご結婚した高田純次さん。俳優業だけでは生活が成り立たず、26歳のときに宝石販売会社に入社。しばらくすると偶然にも自由劇場の研究生のときからの知り合いだった柄本明さんと居酒屋でばったり再会しました。
この再会が転機となり、宝石販売会社を辞め、1977年、劇団東京乾電池に入団して再び芸能活動を始めます。しかし、当初はなかなか売れず、副業しながら辛うじて生計を立てる極貧生活が続きました。

32歳のとき、お笑い番組『笑点』に出演してテレビデビュー。その翌年には、フジテレビ系列放送のバラエティー番組『笑ってる場合ですよ!』でのレギュラー出演も果たし、高田純次さんの芸能生活は軌道に乗ります。
1985年、高田純次さんにとって転機となるバラエティー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ‼』が始まります。われわれミドルエッジ世代には金字塔といえるお笑い番組『オレたちひょうきん族』にも出演し、高田純次さんの存在が全国に知れ渡るようになりました。

1988年には中外製薬の栄養ドリンク『グロンサン』のテレビCMにも起用され、キャッチコピーだった”5時から男”は新語・流行語大賞の大衆賞に輝きました。
1990年代からはクイズ番組にも出演し、レギュラー解答者としても活躍されています。
1994年に放送開始された中京テレビのグルメ情報番組『PS』では司会を務め、現在も放送が続く長寿番組として人気を集めています。
テキトー男としての印象はすっかり世間に定着しており、現在も幅広いジャンルの番組で活躍していて、その勢いは止まることを知りません。

高田純次さんのレジェンド

3000万円のダイヤの指輪を食べる

お笑い番組『天才・たけしの元気が出るテレビ』で見せた高田純次さんのレジェンド映像です。女優・清川虹子さんの自宅でやりたい放題の傍若無人ぶりが凄すぎます。

面白トークが凄い

主にトーク内容をまとめると、

・ポルノ男優として活躍
・初代ブラックデビルだった
・企画ものソングの帝王

といったものです。
動画後半では愛娘・裕子さんとの共演や奥様との馴れ初めなども語っていまずので、ぜひご覧になってください。

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