戦後2度目となる衆参同日選をサプライズで実行した「死んだふり解散」
1986(昭和61)年6月の「死んだふり解散」もその名の通り突然の出来事だった。
当時、中曽根康弘首相は在任4年目に突入していて、中曽根政権は党内基盤が磐石ではないものの、世論調査では高い内閣支持率を保っており、中曽根は前回総選挙で失った党勢の回復のために衆参同日選挙を目論んでいた。
1986(昭和61)年5月27日に中曽根内閣は6月2日から第105回臨時国会を召集することを閣議決定したが、国会が召集された6月2日に衆議院解散を断行した。
この際には本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、坂田道太衆議院議長が解散詔書を朗読して衆議院解散となった(議長応接室における衆議院解散はこの年以後、現在まで行われていない)。
この総選挙では、高い内閣支持率や十分な選挙対策などにより、与党・自民党が圧勝した。自民党は任期満了間近だった党総裁の任期を1年延長する党則の改正をおこない、中曽根の功績に報いた。
後に中曽根が「正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした。」と述べ、早期解散はできないと思わせたことを「死んだふり」と表現したことから、「死んだふり解散」という解散名が定着した。
昔も今も「党利・党略」がまかり通っているような・・・??
当時、中曽根康弘首相は在任4年目に突入していて、中曽根政権は党内基盤が磐石ではないものの、世論調査では高い内閣支持率を保っており、中曽根は前回総選挙で失った党勢の回復のために衆参同日選挙を目論んでいた。
1986(昭和61)年5月27日に中曽根内閣は6月2日から第105回臨時国会を召集することを閣議決定したが、国会が召集された6月2日に衆議院解散を断行した。
この際には本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、坂田道太衆議院議長が解散詔書を朗読して衆議院解散となった(議長応接室における衆議院解散はこの年以後、現在まで行われていない)。
この総選挙では、高い内閣支持率や十分な選挙対策などにより、与党・自民党が圧勝した。自民党は任期満了間近だった党総裁の任期を1年延長する党則の改正をおこない、中曽根の功績に報いた。
後に中曽根が「正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした。」と述べ、早期解散はできないと思わせたことを「死んだふり」と表現したことから、「死んだふり解散」という解散名が定着した。
昔も今も「党利・党略」がまかり通っているような・・・??
via ja.wikipedia.org
消費税導入の是非を問う総選挙==「消費税選挙」
1990年(平成2年)2月18日に行われた日本の衆議院議員総選挙である。野党は前年の第15回参議院議員通常選挙で消費税の是非を焦点に与野党の議席を逆転させ、衆議院でも再現させるために再び消費税導入の是非を全面にたてて、戦った。しかし、実施1年を経て消費税導入自体へ反対する有権者が激減したため、自民党は275議席という過半数どころか安定多数を大きく上回る議席を獲得してしまった。逆に社会党を除く、公明、共産、民社など野党は大きく議席を減少させた。参議院選挙から7ヵ月で再び与党自民党を信任した衆議院選挙の結果を受けて第2次海部内閣が発足したのである。
海部 俊樹元首相
海部 俊樹(かいふ としき、1931年(昭和6年)1月2日 - )は、日本の政治家。
衆議院議員(16期)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、内閣総理大臣(第76・77代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。
衆議院議員(16期)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、内閣総理大臣(第76・77代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。
via www.kantei.go.jp
またもや自民党の造反組により内閣不信任案が可決してしまった==「嘘つき解散」
嘘つき解散は、1993年、当時の宮沢喜一首相が公約としていた「衆議院の選挙制度改革」を、自民党内の意見をまとめきれずに次の国会へ先送りしたことに野党が反発、通常国会閉幕直前に日本社会党・公明党・民社党が共同で内閣不信任決議案を提出した。衆議院の過半数を占める自民党の反対多数で否決されると思われたが、党内から造反者が続出して可決された。公約を果たせなかったことから、「嘘つき解散」と呼ばれた。
この解散劇の背景には、前年に党内最大派閥・経世会の会長・金丸信が東京佐川急便事件で逮捕されたことに端を発しており、金丸が去った後、派内人事や金丸の処遇を巡って、小渕恵三・橋本龍太郎・梶山静六らと、小沢一郎・羽田孜・奥田敬和・渡部恒三らとの対立が表面化し、竹下派七奉行による激烈な主導権争いを繰り広げた。最終的には派閥オーナーである竹下登の工作もあって、小渕が経世会会長に就任した。小沢らは小渕派経世会を脱会し、羽田を先頭に改革フォーラム21(羽田派)を結成した。これによって党内最大派閥は完全分裂し、小渕派は党内第4派閥、羽田派は第5派閥に転落した。
そして、その後の党役員の人事にあたって、宮澤が小渕派を優遇し羽田派を冷遇したことで、羽田派は宮澤内閣に対して態度を硬化させる。羽田派は非主流派として、宮澤内閣に「政治改革関連法案を絶対に通すべきだ」と強く迫り続けたが、結局同法案は党内からの反対もあり廃案となり、これが羽田派の内閣不信任案へ賛成票を投じる結果に至った。羽田派に属していた船田元・中島衛の2閣僚も、それぞれ大臣の職を辞して不信任案に賛成票を投じた。自民党内閣への内閣不信任案採決の際に自民党議員が欠席・棄権した例は他にもあるが、不信任票を投じたのはこの時のみである。
この解散を契機に、武村正義・田中秀征ら若手議員10人が、自民党を離党して新党さきがけを結成し、羽田・小沢らも、離党して新生党を結成した。このことにより、自民党が力を失う端緒となった。
この解散劇の背景には、前年に党内最大派閥・経世会の会長・金丸信が東京佐川急便事件で逮捕されたことに端を発しており、金丸が去った後、派内人事や金丸の処遇を巡って、小渕恵三・橋本龍太郎・梶山静六らと、小沢一郎・羽田孜・奥田敬和・渡部恒三らとの対立が表面化し、竹下派七奉行による激烈な主導権争いを繰り広げた。最終的には派閥オーナーである竹下登の工作もあって、小渕が経世会会長に就任した。小沢らは小渕派経世会を脱会し、羽田を先頭に改革フォーラム21(羽田派)を結成した。これによって党内最大派閥は完全分裂し、小渕派は党内第4派閥、羽田派は第5派閥に転落した。
そして、その後の党役員の人事にあたって、宮澤が小渕派を優遇し羽田派を冷遇したことで、羽田派は宮澤内閣に対して態度を硬化させる。羽田派は非主流派として、宮澤内閣に「政治改革関連法案を絶対に通すべきだ」と強く迫り続けたが、結局同法案は党内からの反対もあり廃案となり、これが羽田派の内閣不信任案へ賛成票を投じる結果に至った。羽田派に属していた船田元・中島衛の2閣僚も、それぞれ大臣の職を辞して不信任案に賛成票を投じた。自民党内閣への内閣不信任案採決の際に自民党議員が欠席・棄権した例は他にもあるが、不信任票を投じたのはこの時のみである。
この解散を契機に、武村正義・田中秀征ら若手議員10人が、自民党を離党して新党さきがけを結成し、羽田・小沢らも、離党して新生党を結成した。このことにより、自民党が力を失う端緒となった。
自民党主流派
via ja.wikipedia.org
小渕 恵三(おぶち けいぞう、1937年(昭和12年)6月25日 - 2000年(平成12年)5月14日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。学位は政治学修士(早稲田大学)。
衆議院議員(12期)、総理府総務長官(第29代)、沖縄開発庁長官(第10代)、内閣官房長官(第49代)、外務大臣(第126代)、内閣総理大臣(第84代)、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁、自由民主党総裁(第18代)などを歴任した。
衆議院議員(12期)、総理府総務長官(第29代)、沖縄開発庁長官(第10代)、内閣官房長官(第49代)、外務大臣(第126代)、内閣総理大臣(第84代)、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁、自由民主党総裁(第18代)などを歴任した。
via www.sankei.com
橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家、登山家。位階は正二位。勲等は大勲位。学位は法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民[1]。剣道錬士六段。
衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第59代)、副総理、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣、規制改革担当大臣、自由民主党幹事長、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。
衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第59代)、副総理、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣、規制改革担当大臣、自由民主党幹事長、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。
via www.jiji.com
梶山静六(かじやま せいろく、1926年3月27日 - 2000年6月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(9期)、自治大臣(第36代)、国家公安委員会委員長(第46代)、通産大臣(第51代)、法務大臣(第52代)、自由民主党国会対策委員長(第35代、37代)、自由民主党幹事長(第29代)、内閣官房長官(第60代、第61代)を歴任した。
自民党反主流派から新党さきがけへ
via gendai.ismcdn.jp
武村 正義(たけむら まさよし、1934年(昭和9年)8月26日 - )は、日本の自治官僚、政治家。
八日市市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。
八日市市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。
via www.amazon.co.jp
田中 秀征(たなか しゅうせい、1940年9月30日 - )は、日本の政治家。福山大学経済学部客員教授。
衆議院議員(3期)、経済企画庁長官(第52代)、内閣総理大臣特別補佐(細川内閣)、新党さきがけ代表代行。
衆議院議員(3期)、経済企画庁長官(第52代)、内閣総理大臣特別補佐(細川内閣)、新党さきがけ代表代行。
衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第34・35代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)などを歴任した。