はじめに
41歳のとき、衆議院議員選挙に初出馬し、初当選した土井たか子。国会では、性差別法に的を絞り、「男女雇用差別」「女性のみ必修の家庭科」「父系しか認めない国籍法」などに関して質問を行うなどし注目を集めました。58歳のとき、第10代日本社会党委員長に就任し、日本初の女性政党党首となった方です。
政治家になるまで
1928年11月、兵庫県で開業医である父と母の間に誕生します。
本名は土井多賀子。
小学校は、神戸市須磨尋常高等小学校(現・神戸市立西須磨小学校)に越境入学し、父親の友人宅に寄宿していました。小学校卒業後、兵庫県立第三神戸高等女学校に入学。女学校を卒業後は旧制京都女子専門学校支那語科に入学・卒業し、5年間 京都女子大学で講師を務めました。
講師を務めながら、同志社大学で憲法学者の田畑忍が行なった講演「平和主義と憲法九条」に感動し、同志社大学法学部3年に編入学し、田畑の指導を受けることになります。同志社大学卒業後、同志社大学大学院法学研究科修士課程を修了し、同志社大学、関西学院大学、聖和女子大学にて憲法学の講師を務めていました。
そんな中、日曜日はKBS京都の時事問題を取り上げて論評する番組のパーソナリティとして、土曜日は毎日放送の「女性の広場―明日へのくらし」のレギュラーとして出演していました。
本名は土井多賀子。
小学校は、神戸市須磨尋常高等小学校(現・神戸市立西須磨小学校)に越境入学し、父親の友人宅に寄宿していました。小学校卒業後、兵庫県立第三神戸高等女学校に入学。女学校を卒業後は旧制京都女子専門学校支那語科に入学・卒業し、5年間 京都女子大学で講師を務めました。
講師を務めながら、同志社大学で憲法学者の田畑忍が行なった講演「平和主義と憲法九条」に感動し、同志社大学法学部3年に編入学し、田畑の指導を受けることになります。同志社大学卒業後、同志社大学大学院法学研究科修士課程を修了し、同志社大学、関西学院大学、聖和女子大学にて憲法学の講師を務めていました。
そんな中、日曜日はKBS京都の時事問題を取り上げて論評する番組のパーソナリティとして、土曜日は毎日放送の「女性の広場―明日へのくらし」のレギュラーとして出演していました。
衆議院議員選挙出馬
彼女の様々な活動での発言が神戸市職員労組と神戸市議会社会党議員団の目に留まり、1965年37歳の時に神戸市の人事委員会の委員に選出され、全国で初めての女性委員となりました。
それから3年後の1968年12月初め、日本社会党委員長の成田知巳から衆議院議員選挙・旧兵庫2区への出馬を求められ、続いて県議の魚谷時太郎が支部の意向を受けて土井の家を日参するようになったのですが、彼女は出馬する意思はありませんでした。
しかし、世間では彼女が出馬するかのような話になっており、それを知るや周りに迷惑がかかるということで神戸市人事委員を辞職する決意をし、市役所の助役を訪ねました。辞職の旨を伝えると「それはあなたらしいが、誰も本当に出るなんて思っていませんよ。それに、勝てっこない。そんなあほなこと、あなたがやるはずがない。辞表をしまったらどうです」と言い放ったのです。この瞬間、彼女を奮い立たたせ出馬へ心を動かしたのでした。
そして、迎えた1969年12月27日の第32回衆議院議員総選挙にて、初当選を果たしたのでした。
それから3年後の1968年12月初め、日本社会党委員長の成田知巳から衆議院議員選挙・旧兵庫2区への出馬を求められ、続いて県議の魚谷時太郎が支部の意向を受けて土井の家を日参するようになったのですが、彼女は出馬する意思はありませんでした。
しかし、世間では彼女が出馬するかのような話になっており、それを知るや周りに迷惑がかかるということで神戸市人事委員を辞職する決意をし、市役所の助役を訪ねました。辞職の旨を伝えると「それはあなたらしいが、誰も本当に出るなんて思っていませんよ。それに、勝てっこない。そんなあほなこと、あなたがやるはずがない。辞表をしまったらどうです」と言い放ったのです。この瞬間、彼女を奮い立たたせ出馬へ心を動かしたのでした。
そして、迎えた1969年12月27日の第32回衆議院議員総選挙にて、初当選を果たしたのでした。
女性初の日本社会党委員長
衆議院議員となった彼女は、わかりやすく理解しやすい言葉を使い、力強い物言いは有権者に高く支持され、国会では性差別法に的を絞り、政府を追及するなど1980〜90年代にたびたび自民党を苦しめる議員となっていました。
1983年に日本社会党副委員長の田中寿美子が政界を引退することになり、後任として彼女が就任しました。それから3年後の1986年、衆参同日選挙(第38回衆議院議員総選挙と第14回参議院議員通常選挙)にて惨敗となった日本社会党は党委員長の石橋政嗣が引責辞任します。そこで彼女が副委員長から昇格し、第10代社会党委員長に就任となったのです。女性が一党の党首となるのは党史上、憲政史上で初めてのことでした。
彼女は、中曽根康弘首相の改憲に対抗し、護憲・軍縮を掲げ、売上税法案には社公民及び社民連の4党を統一組織として構築し抵抗しました。その間に第11回統一地方選挙で勝利し、売上税法案を廃案に追い込んだのでした。その後、政権は竹下登に引き継がれ、竹下政権は消費税導入を強行します。ですが、これもまた彼女が消費税導入とリクルート事件を激しく追及し、宮澤喜一大蔵大臣を辞任、さらには竹下内閣を退陣に追い込んだのです。
1989年には第15回参議院選挙にて自民党が過半数割れとなり比較第一党という結果を出しました。彼女の人気もあり「おたかさんブーム」とまで評されました。また、この時、新人女性議員の当選も目立ち、報道陣からコメントを求められた彼女は「怒りの一票が政治を変えるということね」と述べ、与謝野晶子の「山動く」という歌を引用して「眠っていた山が動きだしたということです」と述べました。この「山は動いた」という言葉は有名になりました。選挙後も与野党が逆転した参議院での主導権を握り、参議院内閣首班指名を受けたのでした。これもまた女性初となります。
そんな彼女ですが、1991年の第12回統一地方選挙で社会党が大敗したため委員長を引責辞任したのでした。
1983年に日本社会党副委員長の田中寿美子が政界を引退することになり、後任として彼女が就任しました。それから3年後の1986年、衆参同日選挙(第38回衆議院議員総選挙と第14回参議院議員通常選挙)にて惨敗となった日本社会党は党委員長の石橋政嗣が引責辞任します。そこで彼女が副委員長から昇格し、第10代社会党委員長に就任となったのです。女性が一党の党首となるのは党史上、憲政史上で初めてのことでした。
彼女は、中曽根康弘首相の改憲に対抗し、護憲・軍縮を掲げ、売上税法案には社公民及び社民連の4党を統一組織として構築し抵抗しました。その間に第11回統一地方選挙で勝利し、売上税法案を廃案に追い込んだのでした。その後、政権は竹下登に引き継がれ、竹下政権は消費税導入を強行します。ですが、これもまた彼女が消費税導入とリクルート事件を激しく追及し、宮澤喜一大蔵大臣を辞任、さらには竹下内閣を退陣に追い込んだのです。
1989年には第15回参議院選挙にて自民党が過半数割れとなり比較第一党という結果を出しました。彼女の人気もあり「おたかさんブーム」とまで評されました。また、この時、新人女性議員の当選も目立ち、報道陣からコメントを求められた彼女は「怒りの一票が政治を変えるということね」と述べ、与謝野晶子の「山動く」という歌を引用して「眠っていた山が動きだしたということです」と述べました。この「山は動いた」という言葉は有名になりました。選挙後も与野党が逆転した参議院での主導権を握り、参議院内閣首班指名を受けたのでした。これもまた女性初となります。
そんな彼女ですが、1991年の第12回統一地方選挙で社会党が大敗したため委員長を引責辞任したのでした。
via ja.wikipedia.org
女性初の衆議院議長
1993年の第40回総選挙で彼女は旧兵庫2区で再選します。この選挙で社会党は惨敗したのですが、選挙後に細川護熙を首班とする非自民・非共産連立政権の枠組みが固まり、両院で過半数を確保した連立与党が彼女を衆議院議長に推すことを決定し、衆参通じて女性初の議長となりました。
これまで帝国議会時代より議長は比較第一党から出すという伝統が続いていましたが、自民党が野党に転落したことにより、異例の競合投票によって選出されることになったのです。結局、数に勝る連立与党の票により彼女が議長に選出されたのでした。
第68代衆議院議長となった彼女は、議員指名に「君」付けが従来慣行になっていたものを「さん」付けに変え、議長席の位置が諸外国と比べて高すぎるため位置を低くするべきだと述べるなどしました。
これまで帝国議会時代より議長は比較第一党から出すという伝統が続いていましたが、自民党が野党に転落したことにより、異例の競合投票によって選出されることになったのです。結局、数に勝る連立与党の票により彼女が議長に選出されたのでした。
第68代衆議院議長となった彼女は、議員指名に「君」付けが従来慣行になっていたものを「さん」付けに変え、議長席の位置が諸外国と比べて高すぎるため位置を低くするべきだと述べるなどしました。
via ja.wikipedia.org
おしまいに
「山は動いた」という名言の他にも、社会党債権のために「やるっきゃない」や消費税導入の時には「駄目なものは駄目」などと発言し、流行語となりました。日本のサッチャーとも言われた彼女は歯に衣着せぬ発言や当時政治に疎い女性達にも理解しやすい言葉で発言していたことは多くの女性が政治や社会に目を向けるきっかけを作ってくれたのではないでしょうか。政界引退後は郷里の神戸市へ戻り、実姉と一緒に暮らしていたそうです。
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