「惑星、ゾラと呼ばれてる地球。大地は全て荒廃し、惑星全土が西部開拓時代のアメリカのような星の上で、インテリジェンスは低いが、体力と生命力には溢れている人々、シビリアンと、それを管理する、ドームの中の支配者・イノセントによって、二階層で構築されている社会の中で、守らねばならない掟はたった一つ。殺人でも強盗でも、三日逃げ切れば罪を問われないという『三日の掟』。しかし、そこに一人の少年が登場する。三日以上前に両親を殺された恨みを晴らせずに、まだ仇を追い続けている主人公・ジロン。ジロンは両親の仇を追いかけながら、ザブングルを手に入れ、周囲を巻き込み振り回し、やがては世界構造の中枢、イノセントの存在の鍵にまでたどり着く。ゾラは元々地球であり、核戦争によって放射能に汚染された結果、人が大地に住めなくなり、ドームの中に引きこもるしかなくなり、しかしなんとか、そんな世界でも生き延びれる新人類を作ろうと、実験の結果生み出されたのが、ジロン達シビリアンであった」という展開。
今回は、「なんどめだなうしか」とツッコミが入りそうなのでコピペの繰り返しはしないが、ここまでお読みいただいた時点で、『ナウシカ』と『ザブングル』が、ほぼ同じ構造の「人類再生・人間バイタリティ賛歌」を描いていることが分かる。
では、この場合どちらからが、どちらかを真似したのかと言われると答えづらいのではあるが、では全くの無関係で、『ナウシカ』と『ザブングル』が相似形になったのかと言われると、決してそうでもない辺りがめんどくさいのだ(笑)
では、この場合どちらからが、どちらかを真似したのかと言われると答えづらいのではあるが、では全くの無関係で、『ナウシカ』と『ザブングル』が相似形になったのかと言われると、決してそうでもない辺りがめんどくさいのだ(笑)
確かに、富野監督は宮崎監督作品を意識して『ザブングル』を生み出した。
しかし、『戦闘メカ ザブングル』の放映は1982年であり、『風の谷のナウシカ』が連載され始めた年である。
いくら富野監督といえど、連載が始まったばかりの漫画の、10年先のオチや裏設定まで先読みが出来ていたわけではなく(漫画版『ナウシカ』が完結するのは1994年)、だからといって、宮崎監督からこっそり、予め裏設定を窺い知っていたとかの、裏があるわけではない(というか、お二人の関係性や性格を少しでも知っているアニメファンや業界関係者であれば「それだけは絶対にない」と言い切れる(笑))。
しかし、『戦闘メカ ザブングル』の放映は1982年であり、『風の谷のナウシカ』が連載され始めた年である。
いくら富野監督といえど、連載が始まったばかりの漫画の、10年先のオチや裏設定まで先読みが出来ていたわけではなく(漫画版『ナウシカ』が完結するのは1994年)、だからといって、宮崎監督からこっそり、予め裏設定を窺い知っていたとかの、裏があるわけではない(というか、お二人の関係性や性格を少しでも知っているアニメファンや業界関係者であれば「それだけは絶対にない」と言い切れる(笑))。
では。
絶対的に、『ナウシカ』と『ザブングル』の一致が奇跡的に偶然だったかと問われれば、決してそんなことはないのである。
絶対的に、『ナウシカ』と『ザブングル』の一致が奇跡的に偶然だったかと問われれば、決してそんなことはないのである。
『戦闘メカ ザブングル』と『未来少年コナン』
実は、富野監督は『ザブングル』という作品を総括したインタビューで、こんなことを述べていた。
そして、作品的に何をやるかとなると、「未来少年コナン」という作品をコピーするところから、練習を始めています。
だから、当然ながら、何をやっても、大塚(引用者註・康生)、宮崎(引用者註・駿)さんのようにうまくいくわけがありません。色々な所で指摘もされましたが上手にならないのに真似をするなんていうのは、要するにイミテーション以下だから止めた方がいい。
富野監督は、アニメ監督としてはかなり自虐的な物言いをする人なので、一概に本人の言だからと鵜吞みにはできないが、さて、では、その、話に出てきた『未来少年コナン』(1979年)という作品は、はたしてどんな代物であったのだろうか。
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Future Boy Conan 未来少年コナン Original Opening
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『未来少年コナン(以下・『コナン』)』は、まさに富野監督が『機動戦士ガンダム』を撮っていた1979年に、日本アニメーションで制作され、NHKで放映されていたアニメ作品であり、この作品で大塚康生氏はデザイン作業と作画を、宮崎駿氏は、デザイン、脚本、演出と、八面六臂の活躍で、今でもアニメファンの間では、伝説の名作と語り継がれている作品である。
原作は、Alexander Hill Key氏が1970年に執筆した『残された人びと』(原題: The Incredible Tide)という、東西冷戦の最終戦争が起きた20年後が舞台のSF小説。
アニメでは大きくイメージを変えられているが、その根底にあるのは、やはり東西冷戦が常に喚起し続けた「人類の歴史の行き止まり感」と「その先」観であり、ここで登場する主人公のコナン少年もまた、テレパシーを使える時点で、超能力者でもあると同時に、彼や幼いヒロインのラナなどが、意図的に作られた「人工次世代」だということが、全編のオチに繋がっていく。
しかし、むしろそういったミュータント的超能力と同等か、それ以上に少年・コナンの、肉体力、生命力、躍動感、パワフルさ、スタミナ等が所せましと大塚氏によって描かれ、それが冒険活劇にも繋がり、作品は魅力を発揮していくのではあるが。
物語構造自体は、一番最初の段で、『ナウシカ』の解説として書いた大枠が、『ザブングル』と同じく、そのままここでも「なんどめだなうしか」になっている(だから『ザブングル』は『コナン』をコピーした作品と言われているのだ)。
アニメでは大きくイメージを変えられているが、その根底にあるのは、やはり東西冷戦が常に喚起し続けた「人類の歴史の行き止まり感」と「その先」観であり、ここで登場する主人公のコナン少年もまた、テレパシーを使える時点で、超能力者でもあると同時に、彼や幼いヒロインのラナなどが、意図的に作られた「人工次世代」だということが、全編のオチに繋がっていく。
しかし、むしろそういったミュータント的超能力と同等か、それ以上に少年・コナンの、肉体力、生命力、躍動感、パワフルさ、スタミナ等が所せましと大塚氏によって描かれ、それが冒険活劇にも繋がり、作品は魅力を発揮していくのではあるが。
物語構造自体は、一番最初の段で、『ナウシカ』の解説として書いた大枠が、『ザブングル』と同じく、そのままここでも「なんどめだなうしか」になっている(だから『ザブングル』は『コナン』をコピーした作品と言われているのだ)。
逆を言えば、そもそもの「アニメの主人公」というのは、元からしてこの程度には頑丈で、崖から落ちた程度では死ななくて、驚異的な身体能力を見せるのが普通であったのだが、大塚・宮崎コンビはあえてそこで「驚異的なスタミナを持つ少年主人公」に、社会派SFメッセージ的な色付けを加えたのだ。
それこそが「人間はそもそもの、動物としての身体能力を目覚めさせるところに戻らないと、約束された“崩壊の日”の、先を生き残ることも出来ない。最後に生き残る決め手になるのは“生命力”なのだ。そして、“それ”を描ける最適なメディアこそが、白い紙に線と色で画を描く“アニメ”なのだ」という、強い主張だった。
それは、富野監督も、前述の『ザブングル』に関するインタビューで、続けてこう語っている。
それこそが「人間はそもそもの、動物としての身体能力を目覚めさせるところに戻らないと、約束された“崩壊の日”の、先を生き残ることも出来ない。最後に生き残る決め手になるのは“生命力”なのだ。そして、“それ”を描ける最適なメディアこそが、白い紙に線と色で画を描く“アニメ”なのだ」という、強い主張だった。
それは、富野監督も、前述の『ザブングル』に関するインタビューで、続けてこう語っている。
コナンならコナンで、描きたかったであろう「人体のスタミナ論」みたいなものをね、とにかくアニメの上で具体的に描くことが出来ないか? それを試すっていう目的がありました。
つまり、先ほど『風の谷のナウシカ』のガイドラインとして書いてみせた枠筋は、実は『コナン』にその発祥を観ることが出来、実は宮崎駿氏が、アニメではなく漫画で描いた『ナウシカ』は、実像はかなり『コナン』に近かったのである。だからこそ、そもそも『コナン』ありきの『ザブングル』とは、似てくるのは当たり前なのである(余談だが、富野監督は『ザブングル』に関して「目指していたのは、実は活劇ではなかった」とも応え、「最低限の鍵が“たとえコナンのコピーとののしられてもかまうものか!”とやった活劇の部分で、実はそれが一番正しかった」とも述べている)。
かように、「閉塞していく未来を救うのは、原始的な人間という生物の持つ肉体的ポテンシャルなんだ」という信心は、ある種『北斗の拳』的なマッチョイムズと混同されやすいかもしれないが、もう少しそこには、ヤンキー的思考ではなく、インテリジェンスの悲痛な願望的な裏付けと共に、この時期トレンドなテーマであったことは事実であろう。
かように、「閉塞していく未来を救うのは、原始的な人間という生物の持つ肉体的ポテンシャルなんだ」という信心は、ある種『北斗の拳』的なマッチョイムズと混同されやすいかもしれないが、もう少しそこには、ヤンキー的思考ではなく、インテリジェンスの悲痛な願望的な裏付けと共に、この時期トレンドなテーマであったことは事実であろう。
『風の谷のナウシカ』アニメ版がフェイクとして掲げた理想郷嗜好
アニメ界では、左傾的文化人の筆頭に挙げられる宮崎駿・大塚康生コンビだが、そのコンビと共に、同じく左傾派脚本家として70年代テレビ文化のトップを走っていた佐々木守氏が(時期はズレるが、それこそ富野監督も絵コンテで参加した)作品に『アルプスの少女ハイジ(以下・『ハイジ』)』(1974年)がある。
HD アルプスの少女ハイジ OP
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佐々木守氏は、後年『ハイジ』から『ナウシカ』にかけて、こう言及した。