「僕が『ハイジ』をやった時は、ハイジが都会の中でアルプスの自然を強く求めれば求めるほど、周りとズレていくという部分を強く担当したので、アルプスの生活部分は、あまり書いていないんですよ。
僕は『風の谷のナウシカ』なんかは、あまり好きじゃないんです。
あれは要するに、『風の谷』の人々が自然と調和して、平和に仲良く暮らしているというお話でしょう?
あぁいう物を見せられても『ハイその通りでございます』としか言えないんですよ。
だけど現代の日本で、本当に自然と調和して生きていこうという人間が存在しようと思ったら、それは現代社会の体制やシステムから見た時の『悪者』としてしか現れようがないと思うんです。
『アイアンキング』(1972年)で日本原住民を悪者にしたのもそういうことなんです」
おそらく、佐々木氏がここで言及している『ナウシカ』は、アニメ版のみのものと思われる。
むしろ、現実での闘争(二度の安保闘争等)で敗北した左派文化人が、現実と拮抗できる手札を失った先で、作劇空間の中だけで仮想の理想郷を描いてみせ、“そこ”から見返した時に現実社会がどれだけ酷いありさまに陥っているかを作劇で突きつけ、しかし物語ではその理想郷が現実を何もレスキューしないままに断絶を起こして終了してしまうという手法は顕著で、他ならぬ、ここで『ナウシカ』の風の谷理想郷主義を批判した佐々木氏自らが、昼帯ドラマの『三日月情話』(1976年)や、劇場用映画の『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』(1990年)等で“常世の国”として用いた、典型的な手法であったりもした。
それは、若松孝二監督と組んだ『聖母観音大菩薩』(1977年)でも、大島渚監督と組んだ『夏の妹』(1972年)でも見られた「佐々木式作劇」であった。
むしろ、現実での闘争(二度の安保闘争等)で敗北した左派文化人が、現実と拮抗できる手札を失った先で、作劇空間の中だけで仮想の理想郷を描いてみせ、“そこ”から見返した時に現実社会がどれだけ酷いありさまに陥っているかを作劇で突きつけ、しかし物語ではその理想郷が現実を何もレスキューしないままに断絶を起こして終了してしまうという手法は顕著で、他ならぬ、ここで『ナウシカ』の風の谷理想郷主義を批判した佐々木氏自らが、昼帯ドラマの『三日月情話』(1976年)や、劇場用映画の『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』(1990年)等で“常世の国”として用いた、典型的な手法であったりもした。
それは、若松孝二監督と組んだ『聖母観音大菩薩』(1977年)でも、大島渚監督と組んだ『夏の妹』(1972年)でも見られた「佐々木式作劇」であった。
宮崎氏がペンを走らせ続けた漫画版『ナウシカ』は、理想郷主義を捨て去り、更にその先で、スタミナ論と躍動感を得たナウシカ達自身が、しょせん人工物に過ぎず、地球という生命体の前に非力を痛感する流れがあるのだが、そこで劇中設定として産み落とされた数々のガジェットが「環境再生」のための布石であったことが明らかにされるが、“それ”はやはり、人間が今現在警鐘を唱えている「環境問題」が、決して“地球という惑星のため”ではなく“そこ”に寄生しなければ生きられない人類のエゴのためだという主張と同等に、しょせんは環境再生というお題目もエゴなのだよと受け止めることも可能である。
漫画版『ナウシカ』のラスボスである「墓の主」は、分かりやすく「危うい理想郷主義」を唱えてみせて、物語自体は地球という生命体の選択に、人類全ての自らの身を預けるという終わり方をする。
漫画版『ナウシカ』のラスボスである「墓の主」は、分かりやすく「危うい理想郷主義」を唱えてみせて、物語自体は地球という生命体の選択に、人類全ての自らの身を預けるという終わり方をする。
これをして、宮崎氏が「人体のスタミナ論」を捨て去ったと解釈するのは危うい。
なぜなら、「墓の主」を打ち倒し、空虚な理想郷主義をも打ち砕いたのもナウシカ自身のスタミナであり、“その先の地球上”を生きて行けるのかどうかを、全巻に渡るナウシカの身体能力的活躍が、決して絶望を約束させていないからだ。その“自然と人間の共生”は、宮崎駿氏の中では、事実上の「アニメ版『ナウシカ』続編」の『もののけ姫』(1997年)へと繋がっていく。
なぜなら、「墓の主」を打ち倒し、空虚な理想郷主義をも打ち砕いたのもナウシカ自身のスタミナであり、“その先の地球上”を生きて行けるのかどうかを、全巻に渡るナウシカの身体能力的活躍が、決して絶望を約束させていないからだ。その“自然と人間の共生”は、宮崎駿氏の中では、事実上の「アニメ版『ナウシカ』続編」の『もののけ姫』(1997年)へと繋がっていく。
もののけ姫 予告
via www.youtube.com
『ナウシカ』は、80年代に多くのSFが提起した「人体スタミナ信仰」からスタートして、それをもう一度着地点にしながら、90年代に盛んに盛り上がった「環境問題」の本質を貫いて終了した。
その終了直後に制作されたアニメ『もののけ姫』では、アニメ版『ナウシカ』の登場人物達が全て、微妙に立ち位置や役割を異ならせながらも、日本の中世に転生して、漫画版『ナウシカ』のラストメッセージを提唱していった(アニメ版の『ナウシカ』と『もののけ姫』との関連性に関しては、「『ナウシカ』ではアスベルでしかなかった視点存在」が、主役のスポットライトを浴びたからこそ、アシタカは「何もしない主人公に見えた」という一点だけでも、松田洋治氏の起用を逆算で考えれば、異論の入る余地はないはずだ」。
その終了直後に制作されたアニメ『もののけ姫』では、アニメ版『ナウシカ』の登場人物達が全て、微妙に立ち位置や役割を異ならせながらも、日本の中世に転生して、漫画版『ナウシカ』のラストメッセージを提唱していった(アニメ版の『ナウシカ』と『もののけ姫』との関連性に関しては、「『ナウシカ』ではアスベルでしかなかった視点存在」が、主役のスポットライトを浴びたからこそ、アシタカは「何もしない主人公に見えた」という一点だけでも、松田洋治氏の起用を逆算で考えれば、異論の入る余地はないはずだ」。
「そこでの渾身のメッセージ」が“何”に対して放たれたのかを、当時のアニメシーンの時系列体感で考えた時には「エヴァの病巣」が、明確に浮き彫りになるのである。
『新世紀エヴァンゲリオン(以下・『エヴァ』)』(1995年)が「やらかして」しまった。人間の「病んでる部分の似非リアリズム」と「生命力悲観主義」「内面性至上主義」「バイタリティのネガティブさえのファッション的傾倒」は、アニメーションという「何もない白い紙の上に、命を生みだす」という、語源のAnimismすらをも空虚に空洞化させる悪行は「“そこ”にテーマがあるかのように思わせぶる」手法と共に、時代の気分や目新しさだけを手掛かりに、既存の凛とした作品へのオマージュと借り物とパッチワークだけで、「何か斬新な時代の到来」を、でっち上げてしまった代理店手法のような現象を生んでしまった。
『新世紀エヴァンゲリオン(以下・『エヴァ』)』(1995年)が「やらかして」しまった。人間の「病んでる部分の似非リアリズム」と「生命力悲観主義」「内面性至上主義」「バイタリティのネガティブさえのファッション的傾倒」は、アニメーションという「何もない白い紙の上に、命を生みだす」という、語源のAnimismすらをも空虚に空洞化させる悪行は「“そこ”にテーマがあるかのように思わせぶる」手法と共に、時代の気分や目新しさだけを手掛かりに、既存の凛とした作品へのオマージュと借り物とパッチワークだけで、「何か斬新な時代の到来」を、でっち上げてしまった代理店手法のような現象を生んでしまった。
「悪貨は良貨を駆逐する」は世の常だが、80年代で次々送り出されてきた、ハッタリだけのでたらめな商品群でカタログが埋め尽くされていた頃から変わらない、「ゼネプロ商品」に騙された多くの「かわいそうな人たち」がエヴァに群がり、まるで「そこ」に何かがあるように語り合い続けたが、20年が経過して、ようやく正気に戻った「エヴァファン」は、『エヴァ』が深遠なメッセージと表現開拓ではなく、気分とファッションだけであることを理解したようである。
『エヴァ』が描いた空虚で稚戯じみた世界観と作劇(以下)の手札は時代とともに廃れ、宮崎氏が『ナウシカ』『もののけ姫』で遺したものは、今もファミリー層や一般映画ファン層にも受け入れられ続けている(有名な話だが、アニメ版『ナウシカ』で巨神兵が暴れたシーンを作画したのは、『エヴァ』の庵野秀明氏だ)。
時代はいつでも、最終的には「手ごたえが実体としてある、本物」を残していくのだろう。
メーヴェに乗って、手を伸ばし続けたナウシカのように。
『エヴァ』が描いた空虚で稚戯じみた世界観と作劇(以下)の手札は時代とともに廃れ、宮崎氏が『ナウシカ』『もののけ姫』で遺したものは、今もファミリー層や一般映画ファン層にも受け入れられ続けている(有名な話だが、アニメ版『ナウシカ』で巨神兵が暴れたシーンを作画したのは、『エヴァ』の庵野秀明氏だ)。
時代はいつでも、最終的には「手ごたえが実体としてある、本物」を残していくのだろう。
メーヴェに乗って、手を伸ばし続けたナウシカのように。