この記事の目次
皆さん、パデルをご存知ですか?
読者の皆さんはパデルというスポーツをご存知でしょうか。
「テニスとスカッシュを融合させたようなラケット競技」言葉にするとこんな感じです。
日本パデル協会のホームページでは、パデルをこのように説明しています。
「テニスとスカッシュを融合させたようなラケット競技」言葉にするとこんな感じです。
日本パデル協会のホームページでは、パデルをこのように説明しています。
40年ほど前にスペインで生まれました。現在、スペインでの競技人口は300万人と国民的なスポーツとなり、世界30か国以上に広がっています。
ポイントの数え方はテニスと同じですが、パデルは2人対2人のダブルスのみでプレイします。
コートのサイズは長方形の20×10メートルで、テニスコートの半分のサイズです。
周囲は強化ガラスと金網により仕切られていて、その壁を使ってのプレイもできます。
百聞は一見に如かず、まずはこちらの動画をご覧ください。
Finales - Estrella Damm Master Final 2018
via www.youtube.com
このパデルを「日本でも親しまれるスポーツに!」と、IT企業の社長を辞めてゼロから飛び込んだ男がいます。
玉井勝善さん。
日本やアジアでのパデル普及にかける想いと、その波乱万丈な半生について伺ってきました。
玉井勝善さん。
日本やアジアでのパデル普及にかける想いと、その波乱万丈な半生について伺ってきました。
倒産、夜逃げ、、波乱万丈な少年時代
-玉井さんはIT業界で15年間。会社をゼロから立ち上げて軌道に乗せて、まさに「事業家」「社長」として活躍してきました。その環境から飛び出してパデル普及に人生を賭した、玉井さんの生き方についてお伺いできたらと思います。
「私の場合、とくにITがやりたいわけではなくて起業がしたかったんです。それには自分の生い立ちが影響しているのかもしれませんね。」
-少年時代についてお聞かせください。
「はい。小学生の頃に一度、夜逃げしているんですね。父親が広告取扱いの会社を経営して、神奈川県川崎市で自社ビルを持ってたくらいの会社だったんですが、祖父が営んでいた事業が立ち行かなくなって連帯保証で連鎖倒産してしまいました。」
-えっ、いきなり大変な展開ですね。。。それは玉井さんがいくつの頃でしたか?
「1984年、小学4年生の頃です。小学校で友達と楽しく暮らしていたのに、いきなり父親が『バイバイ言わずにこの街から消えるぞ』と、意味が分からない(笑。」
「会社が無くなるってそういうことなんだと思って。事情が分からない下の兄弟二人を連れて、とりあえず千葉県松戸市に夜逃げしました。」
「会社が無くなるってそういうことなんだと思って。事情が分からない下の兄弟二人を連れて、とりあえず千葉県松戸市に夜逃げしました。」
いきなり波乱含みの展開も、笑顔で話す玉井さん。
「思い返すと面白いですね」と笑う玉井さんを前に、まったく笑えないミドルエッジ編集部(ミド編)…。
「思い返すと面白いですね」と笑う玉井さんを前に、まったく笑えないミドルエッジ編集部(ミド編)…。
「川崎に住んでいたころはけっこうお金持ちでした。自宅の庭に掃除のおじいちゃんとか、台所のおばあちゃんとか家政婦さんがいて。靴下を自分で履いたこともなかったんですから。
で、小4になって千葉の松戸に行ったら今度は思いっきり貧乏!ボットン便所だったので”クサイ”とかいじめられたりして。あと服も買えないから自分だけ短い、弟と妹はお下がりが着れちゃうんですけどね。」
で、小4になって千葉の松戸に行ったら今度は思いっきり貧乏!ボットン便所だったので”クサイ”とかいじめられたりして。あと服も買えないから自分だけ短い、弟と妹はお下がりが着れちゃうんですけどね。」
「壮絶な…」つい言葉を失うミド編を前に、玉井さんは笑い話のように話します。
その後、再起を図って事業を起した玉井さんの父親を更なる悲劇が襲いますがそれは別の話。
高校時代は部活でテニスに明け暮れた玉井さん。
テニスへの想いを抱きつつ大学では一年間、ニュージーランドでワーキングホリデーを体験します。
その後、再起を図って事業を起した玉井さんの父親を更なる悲劇が襲いますがそれは別の話。
高校時代は部活でテニスに明け暮れた玉井さん。
テニスへの想いを抱きつつ大学では一年間、ニュージーランドでワーキングホリデーを体験します。
ワーキングホリデー、サラリーマンを経てIT会社を起業
「大学卒業後はサラリーマンとして勤めたものの、すぐに辞めてしまいました。自分の生い立ちに加えて、ワーキングホリデーの影響は大きかったと思います。」
「サラリーマンという生き方を選択しなくても世の中にはいろんな形で楽しんでいる人たちがいるんだなと。別に計画的に生きなくても人生は楽しめそうだと(笑。」
「サラリーマンという生き方を選択しなくても世の中にはいろんな形で楽しんでいる人たちがいるんだなと。別に計画的に生きなくても人生は楽しめそうだと(笑。」
お金持ちも貧乏も味わった少年時代、再起をかけた父親の会社。
そんな波乱万丈な自身の十代とワーキングホリデーで味わった自由な人生観は、玉井さんを起業の道へと誘うこととなります。
それからおよそ15年間、社長として会社を引っ張ってきた彼が従事したIT業界。玉井さんとミド編との出会いもまさに、同業界だったからこその縁でした。
玉井さんの創った株式会社SORAはいまも成長を続けていますが2015年、彼は自分の会社を辞めることとなります。
そんな波乱万丈な自身の十代とワーキングホリデーで味わった自由な人生観は、玉井さんを起業の道へと誘うこととなります。
それからおよそ15年間、社長として会社を引っ張ってきた彼が従事したIT業界。玉井さんとミド編との出会いもまさに、同業界だったからこその縁でした。
玉井さんの創った株式会社SORAはいまも成長を続けていますが2015年、彼は自分の会社を辞めることとなります。
2015年、株式会社SORA代表取締役を退任、株式会社Padel Asiaを設立。
日本におけるパデル普及の第一人者として活躍中。