篠山紀信さん誕生日の12月3日に「偲ぶ会」が開催。野田秀樹、市川團十郎、コシノジュンコ、水沢アキらが篠山さんを語る!!
2024年1月4日に83歳で死去した写真家・篠山紀信さんの誕生日にあたる12月3日、株式会社篠山紀信主催の「篠山紀信先生を偲ぶ会」が、東京・オークラ東京 オークラプレステージタワー2階のオーチャードにて執り行われ、約400名が集いました。
「偲ぶ会」レポート
受付をぬけると、オノ・ヨーコとショーン・レノン、松田聖子、宮沢りえはじめ、一緒に時代を作ってきた多くの方々の名前が並んだ芳名版が。篠山さんの経歴に続き、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真とともに篠山さんの若かりし頃の写真が飾られていました。正面を見据えた若かりし頃の篠山さんが愛用していた8×10のカメラとともに写っている写真の前には、本物の8×10のカメラが鎮座。
会場に入るとそこに広がるのは、篠山さんが手がけた写真集や表紙を飾った雑誌。これらはごく一部ですが、1970年代から2024年まで「撮り続けた」歴史を感じさせられます。
プロローグは、お寺のご子息だった篠山さんの従弟である円照寺ご住職と副住職による読経でスタート。続いて篠山さんの幼少期から生い立ちをまとめたスライドが上映され、有働由美子の司会により会が始まりました。
弔辞を贈ったのは野田秀樹。篠山さんは歌舞伎から現代劇、バレエやコンテンポラリーダンスなど、多くの「舞台」を撮り続けてきました。なかでも野田の舞台の多くを撮影、時に稽古場にも足を運び、多くの作品が残されています。野田がカフェで弔辞を書こうと思ってパソコンを開いたところ、「パソコン禁止」と言われたために手書きで一発で書いたという弔辞は、大笑いあり涙ありのものとなりました。
弔辞が終わると、篠山さんがよく車の中で聞いていたという曲を集めたBGMが流れ始めました。その曲の中、遺影がバラの花に囲まれている祭壇に出席者から献花をしていきます。献花を終えた出席者の方々が、会場に飾られた篠山さんの作品を前に思い出を語り合うシーンも多く見られました。
出席者全員の献花が終わると、発起人を代表して小学館の代表取締役社長・相賀信宏氏が献杯の挨拶。そして「篠山さんとのとっておきのエピソード」披露となりました。
最初にスピーチをしたのは市川團十郎。新之助時代からずっと撮り続けてきた篠山さんとは、時に酒を飲みかわす仲でした。続いて、同年代でともに時代を築いていてきたコシノジュンコ。コシノのブティックが、アーティストたちのたまり場になっていたといいます。さらに篠山さんの大人気連載「激写」シリーズに1975年に初登場してグラビア界を席巻、2020年には1975年から45年の軌跡をまとめた写真集も刊行した水沢アキが思い出を語ります。最後に司会の有働が自身のエピソードを語ってスピーチは締めくくられました。
会の終わりには、篠山さん自身の貴重なインタビュー映像が流されました。そこで篠山さんがこのように語っているくだりがありました。
「写真を撮りに行くときに僕の気持ちはいつも晴れてるんですよ。その対象に向かって、それが人であろうと風景であろうか事件であろうと、なんでもそういうものに向かっていく気持ちはエネルギーに満ちて、それに向かってよし、撮ってやるぞ!というそういう気持ちをもっていく。それが僕にとっては写真家として晴れた日の気持ちなんですね」
ラストはご遺族代表として長男の篠山有紀さんが挨拶。常に忙しかった篠山さんを父に持つ率直な気持ちを言葉にしました。
他にも、歌舞伎界からは松本白鷗ご夫妻、中村勘九郎・七之助兄弟、芸能界からは真琴つばさや真矢みき、西田ひかる、長塚圭史など多くの方が訪れた偲ぶ会。一般献花にも入れ代わり立ち代わり多くの方が作品を眺め、動画に思わず笑い、思い出を語る大きな同窓会のような空間となっていました。様々な「想い」がここに集っていました。
まさに「晴れた日」に開催された「偲ぶ会」。天国に旅立ってもなお、「撮ってやるぞと向かっていく」篠山さんのエネルギーを改めて感じる一日となりました。
出席者全員の献花が終わると、発起人を代表して小学館の代表取締役社長・相賀信宏氏が献杯の挨拶。そして「篠山さんとのとっておきのエピソード」披露となりました。
最初にスピーチをしたのは市川團十郎。新之助時代からずっと撮り続けてきた篠山さんとは、時に酒を飲みかわす仲でした。続いて、同年代でともに時代を築いていてきたコシノジュンコ。コシノのブティックが、アーティストたちのたまり場になっていたといいます。さらに篠山さんの大人気連載「激写」シリーズに1975年に初登場してグラビア界を席巻、2020年には1975年から45年の軌跡をまとめた写真集も刊行した水沢アキが思い出を語ります。最後に司会の有働が自身のエピソードを語ってスピーチは締めくくられました。
会の終わりには、篠山さん自身の貴重なインタビュー映像が流されました。そこで篠山さんがこのように語っているくだりがありました。
「写真を撮りに行くときに僕の気持ちはいつも晴れてるんですよ。その対象に向かって、それが人であろうと風景であろうか事件であろうと、なんでもそういうものに向かっていく気持ちはエネルギーに満ちて、それに向かってよし、撮ってやるぞ!というそういう気持ちをもっていく。それが僕にとっては写真家として晴れた日の気持ちなんですね」
ラストはご遺族代表として長男の篠山有紀さんが挨拶。常に忙しかった篠山さんを父に持つ率直な気持ちを言葉にしました。
他にも、歌舞伎界からは松本白鷗ご夫妻、中村勘九郎・七之助兄弟、芸能界からは真琴つばさや真矢みき、西田ひかる、長塚圭史など多くの方が訪れた偲ぶ会。一般献花にも入れ代わり立ち代わり多くの方が作品を眺め、動画に思わず笑い、思い出を語る大きな同窓会のような空間となっていました。様々な「想い」がここに集っていました。
まさに「晴れた日」に開催された「偲ぶ会」。天国に旅立ってもなお、「撮ってやるぞと向かっていく」篠山さんのエネルギーを改めて感じる一日となりました。
弔辞全文および出席者からのスピーチ全文はこちら!
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(c)「篠山紀信先生を偲ぶ会」実行委員会