映画『サウンド・オブ・ミュージック』に関するミニ情報、いろいろ
2017年7月6日 更新

映画『サウンド・オブ・ミュージック』に関するミニ情報、いろいろ

映画『サウンド・オブ・ミュージック』は、1965年に初めて公開され、今まで何度もテレビで再放送されたかわからない程、超~有名なミュージカル映画ですよね。多分知らない方はおられないと言っても過言ではないでしょう。ここでは、映画自体のことも含めて、知っていれば、また見た時に10倍楽しくなる『サウンド・オブ・ミュージック』に関するミニ情報をお教えします。

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マリアとゲオルグ

マリアとゲオルグ

25才の年齢差があったが、ゲオルクは1927年に47才でマリアと再婚。映画では、ゲオルグに婚約者がいて、マリアとすったもんだがあったが、それはないようです。
結婚してから、さらに3人の子をもうけて、夫婦に子供10人という大所帯のファミリーとなった。(これも映画にはありません)
しかし、1929年アメリカのウォール街に始まった大恐慌の影響がオーストリアも襲った。ゲオルクは亡妻の兄弟が設立に関係し友人が経営する銀行を支援していた(亡妻はイギリスの魚雷開発者の孫で、その特許権を相続していた)が、1933年その銀行は敢えなく倒産。ゲオルクは老境間近の53才にして破産、ほとんどの資産を失い、意気消沈してしまいます。
ここで踏ん張らねばと、28才の若さながら子沢山の肝っ玉母さんマリア・フォン・トラップは立ち上がった。貴族の誇りは捨て、住んでいた屋敷の空室を貸室に模様替え。生活のため神学生向けに部屋の賃貸を始める。
これだけなら驚くほどのことではない。驚くのは、それまでファミリー共通の趣味であった合唱音楽を収入の道にしようとしたことだ。音楽の都・ウィーンを首都に持ち、モーツァルトを生んだ街・ザルツブルクに住んでいたファミリーがこう考えたのだから、相当な腕前と自信だったのだろう。
幸運なことに、ザルツブルクの大司教からトラップ家の神学生用貸室に派遣されて来た宿舎付き神父は、ローマで教会音楽を学び、グレゴリオ聖歌にも精通していたのだ。やがて、神父はトラップ一家の合唱を指導するようになり、その合唱の技量はいよいよ本格的なものになっていったのである。

マリアは肝っ玉母さん!!

トラップ・ファミリー室内聖歌隊

トラップ・ファミリー室内聖歌隊

そして、あるイベントでトラップ・ファミリーが合唱を披露したところ、当時ウィーン宮廷歌劇場の名ソプラノのロッテ・レーマン(後にナチス・ドイツのオーストリア合邦を嫌い、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に移籍)の目に留まる。
レーマンの紹介で1935年のザルツブルク音楽祭に参加。神父の指揮により子たちとマリアとで合唱すると、何と音楽祭に優勝してしまった!(真実は小説より奇なり!!!)
トラップ・ファミリーの合唱はヨーロッパ中で大人気となったが、あのナチスを政権の座に押し上げた当時の最新の電信技術が幸いしたのしょうか??。マリアの望み通り、1936年『トラップ室内聖歌隊』が誕生する。ゲオルクの破産から、わずか3年後の快挙であった!!。 

当時のオーストリア政情は映画のような「”悪玉ナチス”と”善玉自由主義者”の争い」ではなかった!!

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1933年1月に“民主主義国”であったドイツ共和国でヒトラーが首相の座に就くと、同じドイツ民族のオーストリア共和国では“民主主義”に対する危惧が広まった。つまり「オーストリアは、ドイツ共和国と同じような民主主義国家でいると、ナチスに乗っ取られてしまう・・・」と。そこで、時のオーストリア共和国のエンゲルベルト・ドルフース首相は、ナチスの先手を打って1933年3月に議会を停止し、6月にはオーストリア・ナチスの活動も禁止し、ナチスが共和国で政権奪取を成し遂げた道を塞いだのだ。そして、ドルフース首相は1934年4月に新憲法を公布する。イタリア・ファシズムを参考に、政府が立法と行政の2権を掌握し、カトリックと中世ドイツの伝統と価値観に基づいた安定して平穏な社会建設を目指すこととしたのだ。
現代からすれば、「何だよ!!、これじゃあナチスと同じ独裁政権ではないのかよ!!」と横槍してくるかもしれないが、隣国ナチス・ドイツの侵略的な独裁体制から逃れるためには、当時のオーストリア共和国政府が採り得る現実的政策であって、この政策へのオーストリア国民の支持も高かったのだ。しかし、手段を選ばないナチスは、この3ヶ月後の1934年7月に首相官邸にわずか8名で押し入り、ドルフース首相を射殺し、クーデターが起こってしまった。このナチスの暴力には、多くのオーストリア国民は激怒し、ナチスのクーデターは直ぐに鎮圧され逮捕者は処刑された。そして、クルト・シュシュニックがオーストリア・ファシズム政権を引き継ぐことになった。

事実は小説よりも映画よりも奇なりであった!!。
ドイツとのアンシュルス(合邦)に喜ぶウィーン市民

ドイツとのアンシュルス(合邦)に喜ぶウィーン市民

1934年7月のオーストリア・ナチスによるクーデター失敗から3年半後の1938年2月、これまでオーストリアを虎視眈々とねらっていたヒトラーは、オーストリアのシュシュニック政権に対してアンシュルス(合邦)を要求。
シュシュニックはイタリア王国の支援と介入を期待したが、ムッソリーニは動かなかった。さらに、シュシュニック政権が温めて来た「24才以上の国民による合邦賛否を問う国民投票」という秘策も、ヒトラーに事前に知れて不発に終わった。
翌月の3月、ついにナチス・ドイツ軍はオーストリアの首都ウィーンに無血進駐。オーストリア連邦はナチス・ドイツにアンシュルス(合邦)され、オストマルク州というドイツの一州となってしまったのである。
そして、ナチス・ドイツがまず始めたことは、ハプスブルク家以来のオーストリアの文化・伝統の否定(歴史あるウィーン・フィルも危うく解散の憂き目を見るところだった)とアンシュルスに反対していた人たちの逮捕・粛清。とまあやりたい放題であった。
 
こうして、アンシュルスは受け入れ難いと考えるトラップ・ファミリーのような人たちは、ユダヤ人でなくても“亡命”するかどうか、の深刻な判断を迫られることになったのであった。
トラップ・ファミリー

トラップ・ファミリー

1938年3月にオーストリアはナチス・ドイツにアンシュルスされても、ゲオルクは屋敷にナチスの旗を掲げることすら拒否。第一次世界大戦でのUボート艦長としての武勲を知るドイツ海軍は、ゲオルクを58才でも招集したが、これも拒否。
さらに、8月のヒトラーの誕生日にトラップ室内聖歌隊がミュンヘンで祝福の歌を歌うことを要求され、これ以上抵抗すれば一家は無事には済まないことを悟ったトラップ・ファミリーは、ようやくオーストリアを離れることを覚悟したのだ。

ドイツ語圏の都市部の若年層にナチスかぶれが多かったのに、10人の子供たちに1人も親ナチスを出さなかったことには驚かされる。父ゲオルクへの尊敬と誇りがあったのでしょう。私もこんな親父だったらね・・・。
ちなみに映画では、厳格で頑固なゲオルグが描かれていましたが、実際はあまりに違うと家族はみな映画に失望してたようです。脚本を読んで家族は一斉に異議を唱えましたが、「それではストーリーにならない。」として押し切られたということです。かえって大家族の切り盛りにマリアが時々参ってしまってヒステリーを起こすと、なだめるのがゲオルクだったといいます。トラップ家の次女マリアがこう描写しています。
「父はほんとうに父親らしい人で、子供たちに囲まれているだけで幸せそうでした。暖炉のそばで一緒に歌ったり、お話ししてくれたりしました。アドリア海で帆船の操縦も教えてくれました。心豊かな楽しい毎日でした。」と。
イギリスとアメリカの定期航路

イギリスとアメリカの定期航路

そんな中、『トラップ室内聖歌隊』はアメリカのエージェントからアメリカ公演の依頼を受けていた。トラップ・ファミリーと合唱指導の神父は、渡りに船と、鉄道でイタリア・スイス・フランスと移動し、イギリスからアメリカへ出航。そして、アメリカで公演してビザが切れると、ヨーロッパに戻ってナチスの勢力圏外を公演して回っていた。そして、1939年9月ナチス・ドイツのポーランド侵攻による戦争の開戦を見て、翌月10月には再びアメリカ・ニューヨークに向かうのであった。ついにアメリカを亡命先に決めたのだ。ゲオルク59才、マリア34才・・・。

映画では、山を越えて徒歩で亡命(おそらくスイスへ)するが、実際には鉄道に、船まで使ったようですね。
米国バーモント州ストウでのトラップ・ファミリー

米国バーモント州ストウでのトラップ・ファミリー

トラップ・ファミリーはアメリカに渡り、1940年になると、大手プロダクションが家族のプロデュースを引き受けるようになったが、その時に辛気臭いとの理由で「トラップ・ファミリー聖歌隊」(Trapp Family Choir)という名前を「トラップ・ファミリー合唱団」(Trapp Family Singers)に改名し、曲目から聖歌を減らしてフォークソングを中心にするよう改められた。こうしてアメリカ中をまわるようになると再び評判を呼び、1956年までコンサート活動を行った。ゲオルクは1947年に亡くなったが、マリアは家族の歴史をつづった The Story of the Trapp Family Singers(1949年、『トラップ・ファミリー合唱団物語』)や Around the Year with the Trapp Family (1955年、『トラップ一家の一年』)などを次々と出版し、ベストセラーになった。1948年、一家はようやくアメリカの市民権を得たのだった。
一家がコンサート活動を終えると、マリアは数人の子供たちとバーモント州ストウにトラップ・ファミリー・ロッジを開き、自給自足の傍ら、訪問者をもてなしながら各地で講演活動を行った。

映画『サウンド・オブ・ミュージック』の魅力は何と言っても旅情的な音楽だ!!

The Sound of Music (1/5) Movie CLIP - The Sound of Music (1965) HD

映画『サウンド・オブ・ミュージック』の代名詞的な音楽である”The Sound of Music”

The Sound of Music (2/5) Movie CLIP - Sixteen Going on Seventeen (1965) HD

トラップ一家の長女が恋人に歌う”Sixteen Going on Seventeen”。どこの国でも16~7歳の娘は本当に難しいです!!

The Sound of Music (3/5) Movie CLIP - My Favorite Things (1965) HD

外は雷鳴が音高く轟き、雷を怖がる弟や妹たちも次々にマリアの部屋に集まってきた。雷鳴と雷光におびえる子供たちにマリアは、「哀しい時、つらい時は楽しいことを考えましょう」と ”My Favorite Things”を歌いだす。
先生と子供たちが心を通わす決定的機会になる重要な場面です。

The Sound of Music Do Re Mi

マリアは子供たちに歌を基礎の基礎、”Do Re Mi”の階名から教えるシ-ン。私もこんな先生に音楽を習っていれば、音楽の知識は、今よりはましだったのに・・・!!

The Sound of Music (4/5) Movie CLIP - Do-Re-Mi (1965) HD

マリアが子ども達を外に連れ出して街中を移動しながら歌う”Do-Re-Mi ”

『サウンド・オブ・ミュージック』製作50周年記念吹替版 「ドレミの歌」/平原綾香<日本語歌詞付き>

日本で、ドレミの歌を日本語に訳した人が歌手の故ペギー葉山だったことをご存知ですか??
ペギー葉山が1960年(昭和35年)にロサンゼルスで開催された日米修好100年祭に招待された直後にブロードウェイに立ち寄り、そこで見た『サウンド・オブ・ミュージック』に感銘を受け、劇場の売店で譜面とオリジナルLPを購入し、そのままホテルへ直行し1番の訳詞を手がけ、日本に持ち帰ったのが最初といわれている。その他、色々な人々が訳詩をされているので聞き比べるのも結構面白いでしょう。私は昔昔、TVでクレージーキャッツがドレミの歌のコミックバージョンをやっていたのを思い出しました。”ドはドヒャーーのド♪~”なちゃって・・・

Christopher Plummer - Edelweiss - The Sound of Music

マリアはゲオルクに「次はあなたの番」とギターを差し出す。ゲオルクは照れて拒むが、子供たちに押し切られる形でギターを受け取り、昔を懐かしむかのように情感をこめて”Edelweiss”を歌う。
心に沁みる一曲です。
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