まずは「やすきよ漫才」をひとつ
横山やすし・西川きよし(やすきよ) 漫才 ~里帰り~ - YouTube
via www.youtube.com
横山やすし
横山やすし
横山 やすし(本名:木村 雄二、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・大阪本部)に所属していた漫才師、タレント。
via i2.gensun.org
西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。
芸能界入り~「横山やすし」になるまで
芸能界入りまで
高知県宿毛市沖の島弘瀬の旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれる。
少年時代からラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮、元々勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、「漫才教室」に出場したことを契機に漫才師になることを決意。
少年時代からラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮、元々勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、「漫才教室」に出場したことを契機に漫才師になることを決意。
芸能界入り
1959年堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで「堺伸スケ・正スケ」を結成。ただデビュー当初はあまり受けなかった。
横山ノックに弟子入り⇒「横山やすし」誕生
相方の廃業後、見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人もノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子になった。
師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。
「やすし」の芸名の由来は、ノックが、「◯◯安し!」(「◯◯」は、商品名)という広告が頭の中にこびり付いていて、そこから連想して、「やすし」となった。
ノックから新しい相方を世話され、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターの白タクシーを行い生活費を稼いだという。
ところがこの時期は何度コンビを組んでも、すぐに解散という流れを繰り返すことに。
師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。
「やすし」の芸名の由来は、ノックが、「◯◯安し!」(「◯◯」は、商品名)という広告が頭の中にこびり付いていて、そこから連想して、「やすし」となった。
ノックから新しい相方を世話され、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターの白タクシーを行い生活費を稼いだという。
ところがこの時期は何度コンビを組んでも、すぐに解散という流れを繰り返すことに。
やすきよ結成!!
西川きよしとの出会い
西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビュー。
きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを迫ったという。
きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを迫ったという。
via blogs.c.yimg.jp
波乱含みの船出
きよしは当時はまだ研究員扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、「やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われた。
また新喜劇の作家が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったこともあり、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。
結成当初はコンビ仲が悪く、稽古のことできよしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもしばしばあった。やすしは「解散や!!」と怒鳴り散らしその場を後にし、後日事務所に向かい解散の旨を伝えると、事務所のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る」と諭され当時の二人に置かれた立場も考慮し、思いとどまる。
その時にきよしの発した「今後も小さなことからこつこつとやらさせてもらいます」というセリフはいつしかきよしの代表ギャグに。
また新喜劇の作家が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったこともあり、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。
結成当初はコンビ仲が悪く、稽古のことできよしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもしばしばあった。やすしは「解散や!!」と怒鳴り散らしその場を後にし、後日事務所に向かい解散の旨を伝えると、事務所のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る」と諭され当時の二人に置かれた立場も考慮し、思いとどまる。
その時にきよしの発した「今後も小さなことからこつこつとやらさせてもらいます」というセリフはいつしかきよしの代表ギャグに。
コント55号とは違った「動き」で勝負
via i.ytimg.com