1946年、タレント議員第一号「吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松」。「芸能人代議士」と形容された。
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芸能人代議士「石田一松」 議席を得ても芸能活動は辞めず昼は国会、夜はステージに立った。
1946年4月10日、戦後初の衆議院議員総選挙に一人一党の日本正論党を掲げ大選挙区の東京1区から立候補。
この選挙は女性議員が数多く出馬し初当選して話題を呼んだが、石田も今度は「~地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」などと演説の間に持ち歌を歌って人気を集め、鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎らに次ぐ7位で見事当選した。
当時は「タレント」という言葉が無かったので「芸能人代議士」と呼ばれた。この為今日言われるタレント議員・第一号とされその草分けとされる。
この後、中選挙区の東京5区から連続当選4回し代議士として活躍。三木武夫と行動を共にし国民協同党、改進党に属した。議席を得ても芸能活動は辞めず昼は国会、夜はステージに立った。
1951年、国民民主党に名前を変えていた党の党議に背き日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、“全面講和”を主張して離党。また、日本共産党の川上貫一議員の除名決議に際しても「国会での発言封じは民主主義の危機」と主張し反対票を投じる(しかし川上は賛成多数となり除名が決定)。
1953年の「バカヤロー解散」による総選挙で落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙では、党の公認をとれず無所属で出馬し惨敗。その後もヒロポン中毒に悩まされながら寄席に出演し続けた。1956年、長年にわたり打ち続けたヒロポンで身体はがたがたに蝕まれ胃癌により死去。享年53。
この選挙は女性議員が数多く出馬し初当選して話題を呼んだが、石田も今度は「~地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」などと演説の間に持ち歌を歌って人気を集め、鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎らに次ぐ7位で見事当選した。
当時は「タレント」という言葉が無かったので「芸能人代議士」と呼ばれた。この為今日言われるタレント議員・第一号とされその草分けとされる。
この後、中選挙区の東京5区から連続当選4回し代議士として活躍。三木武夫と行動を共にし国民協同党、改進党に属した。議席を得ても芸能活動は辞めず昼は国会、夜はステージに立った。
1951年、国民民主党に名前を変えていた党の党議に背き日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、“全面講和”を主張して離党。また、日本共産党の川上貫一議員の除名決議に際しても「国会での発言封じは民主主義の危機」と主張し反対票を投じる(しかし川上は賛成多数となり除名が決定)。
1953年の「バカヤロー解散」による総選挙で落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙では、党の公認をとれず無所属で出馬し惨敗。その後もヒロポン中毒に悩まされながら寄席に出演し続けた。1956年、長年にわたり打ち続けたヒロポンで身体はがたがたに蝕まれ胃癌により死去。享年53。
1962年、女性タレント議員の元祖「藤原あき」 「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機
女性タレント議員の元祖「藤原あき」 その後続々登場するタレント議員のはしりとなった。
藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 1967年8月8日)は、日本のタレント、元自由民主党参議院議員。旧姓は中上川(なかみがわ)、のち宮下。筆名、柳園子。東京生まれ。
1955年にNHKの人気番組「私の秘密」のレギュラー出演者となり、そこで聴取者の人気を博す。
自民党がこの人気に目をつけた上に藤山愛一郎の従姉妹という縁から、1962年の参院選に自民党公認で全国区から立候補。116万票の大量得票でトップ当選し、その後続々登場するタレント議員のはしりとなった。
自民党では藤山派に所属、任期半ばの1967年に癌のため死去した。
1955年にNHKの人気番組「私の秘密」のレギュラー出演者となり、そこで聴取者の人気を博す。
自民党がこの人気に目をつけた上に藤山愛一郎の従姉妹という縁から、1962年の参院選に自民党公認で全国区から立候補。116万票の大量得票でトップ当選し、その後続々登場するタレント議員のはしりとなった。
自民党では藤山派に所属、任期半ばの1967年に癌のため死去した。
「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業をまさに「タレント」と称していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際の報道であった。
政治家藤山愛一郎の親族であったとはいえ、選挙前までは全く政治活動に関わっておらず、政治的な発言も無かった藤原がそれまでに例のない大量得票をしたことは社会に大きな印象を与えた。
1964年東京五輪で女子バレーが金メダルを獲得したときの監督である大松博文、「日本レスリングの父」八田一朗も議員経験がある。
1964年東京オリンピックでのバレーボール全日本女子チーム監督、元参議院議員(自由民主党、1期)大松博文「バレーにヒーローは必要ない。根性が大事なのだ」 スポ根ブームを巻き起こす。
大松博文は1968年(昭和43年)、第8回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党公認で立候補し初当選する。
青島幸男 1968年、第8回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し2位で初当選。タレント議員のパイオニア的存在となる。1995年、東京都知事。
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1974年、参議院選挙で、全国区から当選した「山東昭子」
自民党結党以来初の女性派閥領袖「山東昭子」
山東 昭子(さんとう あきこ、1942年5月11日 - )は、日本の政治家。元女優・テレビタレント。自由民主党所属の参議院議員。
参議院史上最多の7回当選を果たし、国務大臣科学技術庁長官(第46代)、参議院副議長(第27代)、自民党両院議員総会長等を歴任。
番町政策研究所(山東派)会長に就任し、自民党結党以来初の女性派閥領袖となった。
参議院史上最多の7回当選を果たし、国務大臣科学技術庁長官(第46代)、参議院副議長(第27代)、自民党両院議員総会長等を歴任。
番町政策研究所(山東派)会長に就任し、自民党結党以来初の女性派閥領袖となった。
via www.asahi.com
1960年代から1970年代にかけてタレント議員が急増すると、「芸能院」と揶揄されることもあった。
ただし、1974年参議院選挙で、全国区から当選した山東昭子が日立グループからの全面的な支援をうけていたように、組織型選挙のいわば広告塔的な役割を果たしていたものも多い。
同年には元NHKアナウンサーの宮田輝がトップ当選。同じく1977年の参議院選挙では同アナウンサー同期の高橋圭三が当選している。
山口淑子 1974年(昭和49年)に、田中角栄の要請で自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、初当選した。
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扇千景は「3時のあなた」の司会役後(1977年)に、政治家に転身。初代国土交通大臣などを歴任した。
昭和の大女優「扇千景」(おおぎ ちかげ)は「3時のあなた」の司会役後(1977年)に、政治家に転身。
自由民主党総裁福田赳夫や幹事長大平正芳らの要請を受け、1977年7月、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認候補として全国区から立候補し初当選する。当時はタレント候補の一人と評された。
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戦後は並行して政治家、衆議院議員を務め、タレント議員・第一号とされる。法政大学卒業。身長五尺四寸、体重十七貫。(自著記載より) なおなぎら健壱は彼の孫弟子にあたる。
1946年、戦後初の衆議院議員総選挙、第22回衆議院議員総選挙に大選挙区の東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松が、一般的にはタレント議員第一号と言われている。
ただ石田当選時には芸能人等を指して「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中「タレント議員」と呼ばれることはなく、専ら「芸能人代議士」と形容された。