はじめに
平成、令和とアイドルや歌手、アナウンサーと地方や国政に名を上げるタレント議員達。いまでこそ当たり前になっていますが、明治から作家や芸術家、大学教授などが政治家に転身していました。ここでは昭和にテレビやラジオに出演し、俗にいう「タレント」にあたいするだろうというタレント議員をご紹介します。
昭和のタレント議員第一号
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1946年戦後初の衆議院議員総選挙、第22回衆議院議員総選挙に大選挙区の東京1区から立候補して当選したのが、石田一松(いしだ いちまつ)で、タレント議員第一号です。立候補当時は、吉本興業(東京吉本)所属のお笑いタレントでした。
石田は「~地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」などと演説の間に持ち歌を歌って人気を集め、鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎らに次ぐ7位で当選しています。
この頃は「タレント」と表現する用法はなく、在職中「芸能人代議士」と呼ばれていました。
1946年の初当選後もタレント業を続けつつ、1953年の総選挙で落選、1955年の第27回衆議院議員総選挙では、党の公認をとれず無所属で出馬し惨敗後は政治活動から離れました。
なお、なぎら健壱は石田の孫弟子にあたります。
石田は「~地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」などと演説の間に持ち歌を歌って人気を集め、鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎らに次ぐ7位で当選しています。
この頃は「タレント」と表現する用法はなく、在職中「芸能人代議士」と呼ばれていました。
1946年の初当選後もタレント業を続けつつ、1953年の総選挙で落選、1955年の第27回衆議院議員総選挙では、党の公認をとれず無所属で出馬し惨敗後は政治活動から離れました。
なお、なぎら健壱は石田の孫弟子にあたります。
タレント議員と呼ばれ始めたのはこの方
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1962年第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選したのが藤原あき(ふじわら あき)です。1962年映画「次郎長社長と石松社員 威風堂々」出演、1955年〜1962年テレビ「私の秘密」に出演するなど職業を「タレント」として活動していました。
藤原は「数カ月で顔と名前を覚えてもらうなんてとても無理な状況で、僕は考えた。あきちゃんほど全国に顔と名前を知られている人は他にはいない」と当時の経済企画庁長官だったいとこの藤山愛一郎から電話で参院選への出馬依頼を受けました。その時「私の秘密」というレギュラー番組に出演していましたが、降板してまでもいとこを支えようと出馬したのだそうです。
藤原の選挙スタッフは、藤原のオシャレの哲学として書いてあった「清く正しく美しく」という一文を元に「清い政治、明るい社会、美しい国土」というスローガンを打ち出しました。
残念ながら、議員任期中の1967年8月悪性リンパ腫によりこの世をさりました。
藤原は「数カ月で顔と名前を覚えてもらうなんてとても無理な状況で、僕は考えた。あきちゃんほど全国に顔と名前を知られている人は他にはいない」と当時の経済企画庁長官だったいとこの藤山愛一郎から電話で参院選への出馬依頼を受けました。その時「私の秘密」というレギュラー番組に出演していましたが、降板してまでもいとこを支えようと出馬したのだそうです。
藤原の選挙スタッフは、藤原のオシャレの哲学として書いてあった「清く正しく美しく」という一文を元に「清い政治、明るい社会、美しい国土」というスローガンを打ち出しました。
残念ながら、議員任期中の1967年8月悪性リンパ腫によりこの世をさりました。
作家・キャスター・アナウンサー、歌手も含めて
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1968年参議院選挙で300万票を超える大量得票でトップ当選したのが石原慎太郎(いしはら しんたろう)です。この当選後、環境庁長官や運輸大臣、東京都知事などを歴任しました。
今では作家というより、もともと政治家というイメージが強い方も多いのではないでしょうか。
そんな石原は、1956年「太陽の季節」で文壇デビューし、第34回芥川賞を受賞、同作品の映画化で弟である石原裕次郎が銀幕デビューしました。亡くなるまで執筆していたことは記憶に新しいと思います。
今では作家というより、もともと政治家というイメージが強い方も多いのではないでしょうか。
そんな石原は、1956年「太陽の季節」で文壇デビューし、第34回芥川賞を受賞、同作品の映画化で弟である石原裕次郎が銀幕デビューしました。亡くなるまで執筆していたことは記憶に新しいと思います。
和平50年 田英夫インタビュー
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1971年第9回参院選の全国区に立候補して192万票を獲得し、トップ当選したのが田英夫(でん ひでお)です。1962年から放送を開始したTBS「JNNニュースコープ」の初代メインキャスターで、ニュースキャスターの先駆けとなった人です。
1970年にTBSを退職したのち、政界へと進みました。その後2007年までの34年間議員として務めています。
1970年にTBSを退職したのち、政界へと進みました。その後2007年までの34年間議員として務めています。
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1974年 第10回参議院議員通常選挙全国区に立候補し初当選したのが、秦豊(はた ゆたか)です。その後参議院議員を2期務めています。
秦は、1945年NHKに入局し、記者・アナウンサーとなりました。NHK退職後の1951年にはラジオ九州に入社し日米会談特派員、論説委員などを歴任したのち、1971年日本教育テレビニュースキャスターなどを経て、ANN 夜のワイドニュースメインキャスターとなります。
政界へ入ってからは、同業であった田英夫などと新会派を結成するなど活動しました。1986年 第14回参議院議員通常選挙・東京都選挙区で立候補しましたが落選し政界から引退します。引退後はフリーの司会者として活動していました。
秦は、1945年NHKに入局し、記者・アナウンサーとなりました。NHK退職後の1951年にはラジオ九州に入社し日米会談特派員、論説委員などを歴任したのち、1971年日本教育テレビニュースキャスターなどを経て、ANN 夜のワイドニュースメインキャスターとなります。
政界へ入ってからは、同業であった田英夫などと新会派を結成するなど活動しました。1986年 第14回参議院議員通常選挙・東京都選挙区で立候補しましたが落選し政界から引退します。引退後はフリーの司会者として活動していました。
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1974年 参議院選挙に立候補しトップ当選したのが、宮田 輝(みやた てる)です。宮田は、1942年にNHKに入局し、1974年に退職後参議院議員3期を務めながらフリーアナウンサーとしても活躍した人物です。
NHK内では「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人として数えられ「のど自慢」や「紅白歌合戦」での司会を担当していました。「紅白歌合戦」についてはピンチヒッターとして初めて白組司会を担当して以来通算15回に渡って司会を担当しました。
NHK内では「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人として数えられ「のど自慢」や「紅白歌合戦」での司会を担当していました。「紅白歌合戦」についてはピンチヒッターとして初めて白組司会を担当して以来通算15回に渡って司会を担当しました。
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1977年 第11回参議院議員通常選挙の全国区に無所属で出馬し初当選したのが、日本初のフリーアナウンサーである高橋圭三(たかはし けいぞう)です。
高橋も宮田輝と同じ、NHKのアナウンサーでした。1942年にNHKに入局し、1961年に退職しました。退職後は1年間NHK専属契約アナウンサーとして活動していましたが、契約解除後はフリーアナウンサーとなります。
1977年当選後1期務めたのち、1983年 比例代表名簿導入後初の選挙となった第13回参議院議員通常選挙に2期目を目指して立候補しましたが落選。その後は、テレビ出演やアナウンサーの育成などに尽力されました。
高橋も宮田輝と同じ、NHKのアナウンサーでした。1942年にNHKに入局し、1961年に退職しました。退職後は1年間NHK専属契約アナウンサーとして活動していましたが、契約解除後はフリーアナウンサーとなります。
1977年当選後1期務めたのち、1983年 比例代表名簿導入後初の選挙となった第13回参議院議員通常選挙に2期目を目指して立候補しましたが落選。その後は、テレビ出演やアナウンサーの育成などに尽力されました。
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