任天堂がファミコン以前に挑戦した家庭用テレビゲーム機。
2019年7月11日 更新

任天堂がファミコン以前に挑戦した家庭用テレビゲーム機。

任天堂初のゲーム機といえばといえばゲーム&ウオッチとファミコンと思いがちですが、そこに至るまでにも長い道のりがありました。任天堂がファミコン以前にリリースしたゲーム機について。

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任天堂最初のゲーム機といえば、私たちの多くが1980年のゲーム&ウオッチと1983年のファミコンを思い出すことと思います。それ以前は花札の会社だった、なんて記憶が強く残っています。

ところが実際は違います。1977年から1980年までに、実に5種類ものテレビゲームをリリースしているんです。

また、こちらも懐かしすぎる1981年発売のエポック社カセットビジョン。
振り返ると70年代の任天堂は、エポック社の後を追うようにしてテレビゲームに挑戦を続け、ファミコンの成功によって一気にライバルを突き放すことに成功したのです。

1975年9月、エポック社が日本初の家庭用ゲーム機「テレビテニス」発売

テレビテニス

テレビテニス

なんとワイヤレス接続であった「テレビテニス」は19,500円で2万台を売りました。
これが日本初の家庭用テレビゲーム機とされています。

1977年7月、任天堂初の家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15」「カラーテレビゲーム6」

任天堂のカラーテレビゲーム15

名前の通り15種類のゲーム(といってもほとんど一緒ですが…)が遊べる「カラーテレビゲーム15」及び6種類に絞った「カラーテレビゲーム6」を、それぞれ15,000円、9,800円で発売。

これが大当たりで、ナント100万台も売り上げることとなりました。
この成功要因については下記のような説があります。
任天堂は家庭用テレビゲーム業界では、むしろ後発の部類に入るメーカーで、当時は自社内にもテレビゲームの開発ができるスタッフも揃っていなかったという。

本製品に先んじる事2年のエポック社がテレビテニスで主流を作っていた市場にあっては同製品が2万円前後という値段のため、後発メーカーとしては価格で勝負するしかなく、ゲーム機としての機能を削りに削ってとにかく安く作り上げ、それでも完全な赤字で製造・販売された「6」と、やや他社製品より安いが採算の取れる「15」で攻勢をかける事となった。

実際は「6」も「15」も中身(電子回路や基板)は基本的に同じ物が入っており、「15」の機能を後から手を加えて表面上利用できないようにしたのが「6」である。2万円が1万5,000円になっても大きなインパクトはないが、1万円を切っていれば印象が全く違う。そこで「6」で客の目を引きつけ、その上で沢山遊べる「15」の方を選ばせるという二段構えの戦術を取り、多少の赤字には目をつぶるという狙いがあった。
なんだか凄い時代ですね。
これをみながら、エポック社が後に行った「カセットビジョン」「カセットビジョンJr.」が重なってみえました。
※こちらの戦略はファミコンの前に通じませんでしたが

この任天堂の成功に触発されて、エポック社も1978年には「システム10」を発売。
販売価格は15,500円で、なんとラケットゲームと光線銃ゲームの10種類のゲームを内蔵。ラケットゲームでは4人同時プレイが可能な優れモノでした。
システム10(エポック社)

システム10(エポック社)

しなしながら大きなインパクトを残したのは任天堂のカラーテレビゲームとなり、この成功は後に任天堂の「安価なハードウェアで売り抜け」路線を決定付ける事となります。

特に本体よりもソフトウェアの売上げが重要視されたファミコンでは、任天堂が強気の販売戦略で本体価格を大幅に下げる一因ともなり他の追随を許さなかったのです。

ちなみにエポック社は、この後も「テレビベーダー」「テレビ野球ゲーム」「テレビブロック」などを発売し、1981年7月に満を持してカセット式の家庭用ゲーム機「カセットビジョン」を投入。

任天堂がファミコンを投入する1983年7月までは、国内でもっとも認知されたテレビゲーム機でした。
一方の任天堂も「カラーテレビゲーム」の成功を受けて、1978年から1980年までに3種のテレビゲームを投入しました。

1978年、レーシング112

「レーシング112」(1978年/任天堂)

1978年に発売したトップビューのレーシングゲーム。本体中央に大型のハンドルと、その左横に2速のシフトレバーが取り付けられていたが、アクセルはないのでシフトレバーでスピードが2段階に変更できるだけである。112種類のゲームが遊べるという触れ込みだったが、内容は同一のレースゲームが設定の組み合わせで112通りのバリエーションになるだけで、消費者に飽きられるのも早かったとされる。価格は12,800円で、販売台数は約16万台程だった。

1979年、ブロック崩し

1979 任天堂 ブロック崩し

1979年にゲームセンターで人気を博した他社(アタリ)のブロック崩しを家庭向け製品に発売したゲーム。任天堂が初めて自社開発した製品であるが、開発に手間取り販売時期が遅れたため売り上げは伸び悩み、販売台数は約40万台だったという。価格は13,500円だった。

1980年、コンピュータTVゲーム

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