幻に終わった任天堂プレイステーション
噂だけは知られていましたが、2015年になって実物の所有者がネット上に写真と動画を公開したことから世界中で認知されることとなったんです。
8bitから16bit時代の「絶対王者」任天堂と、32bit時代を制圧したソニー。
ゲーム機戦国時代の栄枯盛衰を思わせる両者が、交わる可能性がたしかにあったのです。
幻の任天堂プレイステーション動画がコチラ
The Nintendo Playstation - Nintendo History
そして見慣れないCD-ROM、スーパーファミコンにCD-ROMがなかったことは誰もが知っています。
任天堂一強が揺らぎ始めた?スーパーファミコン時代
「ファミコンの次」を狙った戦いはこの3社が中心でした。
なかでもNECは当時8bitパソコン市場をリードしていましたが、1985年にはCD-ROMを記録媒体としたゲーム機の構想を持ち、同時期に高性能のチップ開発に成功したハドソンと組んでPCエンジンの開発に動くのです。
PCエンジンとメガドライブ
ゲームの記録媒体としては後にCD-ROMやDVDが主戦場となるのですが、80年代中盤からその構想を抱いていたのはNEC。任天堂については2001年のニンテンドーゲームキューブまで、CDやDVDを記録媒体とする選択をすることがありませんでした。
大容量を扱えるCD-ROM機が立ち上がる
国内ではPCエンジン、北米ではメガドライブがCD-ROMの市場を牽引しました。
しかしながら80年代中盤、同じくCD-ROM機構想を抱いて任天堂に話を持ち掛けたのが実はソニーでした。
1990年1月には任天堂とソニーで次世代ファミコン共同開発に調印し、CD-ROM機の開発を表明しています。スーパーファミコン発売の11か月前のことです。
これこそ、任天堂プレイステーションとなるマシンでした。
ソニーは当然、試作機の開発を着々と進めていきました。
喰うか喰われるか、任天堂とソニーの協業は空中分解
「主戦場をCD-ROMに移した場合、組み先であるソニーに覇権を握られてしまうのでは?」任天堂にそんな思惑が働いたことが、当時の経緯からみてとれます。
しかしながら、結果として任天堂とフィリップス社との共同開発も日の目を見ることはありませんでした。当時のソニー久夛良木健さん(プレステ生みの親)のコメントです。
ソニーの久夛良木健によると、フィリップス社との共同開発機には、CD-iが採用される事になっており、CD-iをフィリップスと共同開発したソニーとしてCD-iにできる事、できない事を理解しており、「任天堂さんとは道が離れた。進化の先に見ていたものが違った。」と判断し、だったら我々は我々の方法で、進化を加速させよう!とソニーの独立したゲーム機、プレイステーションを開発する事になった。