青木功  世界の青木伝説 Aoki in the World
2019年9月7日 更新

青木功 世界の青木伝説 Aoki in the World

人間は何を達成したか?-なのかもしれない。そういう意味でも青木功は世界に挑戦し勝利した。でもそれだけではない。どう達成したか?-ということでも青木功は最高に面白い!

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「ブッチギリ」から「我慢」のゴルフへ

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デビュー当時、初日から飛ばし爆発的なスコアで2位を大きく引き離すゴルフは「ブッチギリの青木」と呼ばれた。
攻撃一本槍のゴルフで賞金を得ると、大酒を飲み、博打を打ち、女を買った。
しかしその半面、初日に出遅れるとやる気を失いズルズル後退したり、ミスをすると1発逆転のギャンブルショットを打ち、失敗した挙句、
「しゃんめい(しようがない)」
とコース上で大の字に寝転がることもあった。
それは
「優勝以外は2位もビリも同じ」
「All or Nothing(全か無か)」
と考えていたからだった。
しかしそれはやがて、
「少しでもたくさん稼いでたくさん遊びたい」
「予選落ちしたら1銭ももらえない」
と変化していく。
そしてたとえおそらく勝てない試合でも
「よしっ!
1つでも上の順位に上がろう」
とチャレンジ精神を発揮させ、たとえスコアが伸びないときも
「ここで1発大賭けに出れば十中八九、裏目に出てすべてのチャンスを失う」
とジッと我慢してチャンスの訪れるのを待った。
そして予選をビリで通過し、優勝した試合もあった。
こうして「ブッチギリ」感はなくなったが成績が安定し、1976年に初めて賞金王、1977年は2位だったが、1978年から4年連続で賞金王になった。
「自分をマネージする。
これがゴルフに必要だとわかるのにずいぶんかかった。
発散した方が楽に決まっている。
押さえつけとくことは苦しい。
まったくゴルフはサディスティックなゲームだと思う。
因果な商売だ」
この青木功の進化の背景には、何よりも1974年から開始した「海外挑戦」があった。

海外挑戦

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1974年4月、青木功はマスターズ委員会から招待状をもらい、初めてオーガスタの地を踏んだ。
マスターズ・トーナメン(Masters Tournament)は、アメリカ・ジョージア州のオーガスタナショナルゴルフクラブで開かれるゴルフのメジャー選手権のひとつ。
毎年4月2週目の日曜日が最終日になるように開催される。
出場選手は前年度の世界各地のツアーでの賞金ランキング上位者、メジャー優勝者など招待資格を満たすマスター(名手)である。
優勝者には3日間の入場収入などで決まる優勝賞金とグリーン・ジャケットが贈られ、オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブの名誉会員となり、当大会への生涯出場権が与えられる。
他のメジャー選手権は毎回開催コースが異なるが、マスターズは毎年同じオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで開催される。
オーガスタのコースは
「オーガスタのグリーンには魔女が棲む」
といわれるほどグリーンの難度が高い。
中でも11番、12番、13番ホールに至っては
「アーメンコーナー」
といわれ恐れられている。
フェアウェイもアンジュレーション(コース上にある起伏のこと)が大きい。
谷と森が気まぐれな風を起こす。
青木功は初めてのオーガスタで、74、80で予選落ちした。
翌1975年、再びマスターズに出場するも、75、76で予選落ちした。
1977年、3回目の出場で初めて予選を突破(73、76)。
決勝ラウンドでは、70、70と2日連続でアンダーパー
(1コース18ホールが終了した時点で、総合的な規定打数より少ない打数である状態。
一般的には18ホールで72の規定打数が設定される)
をマークし、通算1オーバーで28位タイ。
優勝したトム・ワトソンは12アンダーだった。
同年(1977年)、4大メジャーで最古の歴史を誇るゴルフ大会である全英オープンにも初挑戦。
ターンベリーのコースを76、72、74で予選落ちした。
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1978年、セント・アンドルーズ(St Andrews)で全英オープンに再度挑戦。
全英オープンは5年に1度、最も由緒あるオールド・コース(Old Course)で開かれる。
一見荒れ果てた砂丘のようなコースだが、セント・アンドルーズは、1552年につくられた世界最古のゴルフ場であり、アメリカのマスターズと並んでゴルフの聖地である
このコースは「あるがまま」を理念に、世界で唯一「神と自然が創り給うたコース」と畏敬の念をもって呼ばれている。
全部で112個のバンカーがあり、中でも14番ホールの「ヘル・バンカー(Hell Bunker)」と17番ホールの「ロード・ホール・バンカー(Road Hole Bunker)」が有名で。
11番ホールは世界一難しいショートホールといわれる。
距離も長くもなく(174y)、障害物もバンカーと奥の川のみで風がなければ問題のないホールだが、ちょっとでも風が吹けばたちまち世界一難しいショートホールに変わってしまう。
最大の名物ホールは17番ホールで、第1打はコース内にあるホテルを越えて打たなければならない。
グリーンの右方向には線路の跡があり
(1969年まで列車が走っていた。
それも“あるがまま”残してある)
グリーンの手前には「ロード・ホール・バンカー」が待ち受けている。
この難コースに青木功は初日に68をマークし単独首位に立った。
しかし2日目に71、3日目に73、最終日に73を打ち、首位のジャック・ニクラウスと4打差の7位タイで終わった。
このように当初、青木功は海外でまったく勝てなかった。
撤退を勧める声もあったが
「途中でシッポを巻いて帰れるか」
という負けず嫌いとツッパリだけで遠征を続けた。
英語ができず、右も左もわからず、記者の助けを借りてトーナメントにエントリーし、食事も交代でつくったりどこで食べるか相談したりした。
プロゴルフの試合は木曜から日曜に行われる。
試合が終わると、その日のうちか翌日に次の試合場へ移動。
火曜日と水曜日が練習。
そして木曜日から試合。
青木功は、国内外で年間に30試合以上出場し、そんな生活を繰り返した。

世界マッチプレー優勝

World Match Play Promo

1978年、
イギリスのロンドン郊外にあるウェントワースゴルフクラブで行われた世界マッチプレー選手権に初出場。
ゴルフには、マッチプレーとストロークプレーがあり、ストロークプレーは、決められたコースの総打数で勝敗を決まり、1番スコアが少ない人が優勝となる。
マッチプレーは、2名のプレーヤーが1対1で対戦し、1ホールごとに打数で勝敗を決め、勝てば1アップ(1up)、負ければ1ダウン(1down)となり、既定のホール数を回る。
マッチプレーは、テレビ放映に不向きだが、展開が劇的で、独特の緊張感と興奮がある。
青木功にはこの「サシの勝負」に向いていた。
1回戦は、3ホールを残して5アップで勝利。
2回戦は、アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラスと共に「ビッグ3」と呼ばれたグランドスラマー(メジャー選手権(全英オープン、全米オープン、全米プロゴルフ選手権、マスターズ・トーナメント)をすべて制覇)であるゲーリー・プレーヤーに勝利。
準決勝は、メジャーチャンピオンのレイモンド・フロイドに勝利。
決勝は、サイモン・オーエン。
全36ホールの勝負で、青木功は最初はリードされたが、後半の13番、31番目のホールで追いついた。
このとき最後の4mのパットをわざと時間をかけ、そして相手の中の
「追いつかれるかもしれない」
という不安を大きくさせた。
最終的に青木功は海外初勝利を果たした。
勝利を決めた直後、グリーン上で当時はまだ恋人だったチエ夫人と抱き合った。
「やればできる」

帝王:ジャック・ニクラウスとの死闘、全米オープン2位

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1980年6月12~15日、アメリカ・ニュージャージー州のバスタスロールカントリークラブで全米オープン選手権が開催された。
全長7076ヤード。
パーは70。
コースレートは75.8。、
コースレートは、スクラッチプレーヤーがコースを10回プレーしたときのスコアの平均値を基に割り出される。
スクラッチプレーヤーとは、ハンディキャップがゼロ、つまりハンディキャップが無いことを意味する。
ゴルフではプレーヤーの実力の差を埋めてゲームを進めるために、ハンディキャップがあり、ハンディキャップが少ないほど上級者を意味する。
バスタスロールはスクラッチプレーヤーが平均約6オーバーするアメリカでも屈指の難コースで、フェアウェイを極端に狭い上にラフを長いため、1度、ラフに入れてしまうとグリーンは狙えない。
しかもグリーンは固く速かった。
2日間の予選ラウンドで37歳の青木功は、40歳の「帝王」ジャック・ニクラウス、「精密機械」ジーン・リトラーと同組になった。
ジャック・ニクラスは、メジャー18勝(マスターズ6勝、全米オープン4勝、全英オープン3勝、全米プロゴルフ選手権5勝)、シニアとしてもチャンピオンズツアーで4大タイトルを制し、2005年に引退するまで「帝王」と呼ばれた。
しかしこのときは、1978年以来、2年近く勝っていなかった。
初日から1万人を超えるギャラリーがジャック・ニコラウスに殺到し、ジャック・ニコラウスがホールアウトすると青木功のパットが残っていてもギャラリー全員が次のホールに動き出した。
「俺は英語がまるっきりわかんない。
だから実際は100%、ジャックの応援だったんだろうけど、みんなオレを応援してくれていると思うようにしたんだ。
すると騒ぎが気にならなくなってきたんだよ」
初日を終え、青木功は、2アンダーで9位タイ。
ジャック・ニクラウスは、7アンダーで首位だった。
2日目、首位は、ジャック・ニクラウスの6アンダー。
青木功は4アンダーで2位タイ。
これで3日目もニクラウスと最終組でプレーすることになった。

1980 US open  Nicklaus vs Aoki

3日目、決勝ラウンド初日、ギャラリーは2万9千人。
その1/3がジャック・ニコラウスについた。
ジャック・ニクラウスは、4番、5番、7番でバーディをとり8アンダー。
青木功は5番でバーディを出した以外はパーで我慢のゴルフが続いたが、13番でスコアを伸ばし6アンダー。
14番でジャック・ニクラウスがボギー。
1打差となった。
15番は、両者ともボギー。
16番、青木功がボギー。
「よし、思い切っちまうか!」
そう自分にハッパをかけ、17番でバーディ。
ジャック・ニクラウスはパー。
再び1打差。
最終18番ホール。
542ヤードのコースを青木功は3打でグリーンにボールを乗せたのに対し、ジャック・ニクラウスは2打で乗せた。
しかしジャック・ニクラウスは、9mのイーグルパットを外し、1.5mオーバーさせた。
青木功は、3mのバーディパットを決めた。
ジャック・ニクラウスは、バーディパットを外し、2人は6アンダーで並んだ。
「全米オープンの最終日を首位で迎えるなんてほんとかよ、おい!!
ここまできたらやるきゃない!」
4日目、決勝ラウンド2日目の最終日、
「自分のゴルフをやるだけ」
という青木功は2番でボギー。
56ホール目にして初めての3パットだった。
3番で、ジャック・ニクラウスがバーディー。
2打差がついた。
4番は共にボギー。
7番で青木功がボギー。
3アンダーまでスコアを落とす。
「お前、なんでそんなに力んでるんだよ。
普段通りやればいいじゃないか」
青木功は肩の力を抜き、8番でバディ。
9番はボギー。
前半を終えて3オーバー。
ジャック・ニクラウスとは2打差の2位タイとなった。
10番、両者ともバーディ。
11番から16番まで、両者ともパー。
17番、両者ともバーディ。
スコアは動かず、2打差のまま最終18番ホールに入った。
ジャック・ニコラウスは3オンし、ボールはピン手前3mに止まった。
青木功の3打目は、カップをかすめ、あわやイーグルかと思われたがだったが、入らずに1mオーバーした。
ジャック・ニクラウスは、バーディパットを決め優勝を決めた。
この日の成績は2アンダー、通算8アンダーは全米オープンの新記録だった。
まだ青木功のパットが終わっていなかったが、興奮したギャラリーが大歓声を上げながら警備員の制止を振り切りグリーンに殺到した。
「まだ青木のパットが残っている。
頼むから止まってくれ!」
ジャック・ニクラウスは両手を高く上げてギャラリーに止まるようにジェスチャー。
彼のキャディーであるアンジェロも青木功のボールマークが踏まれないよう守った。
「入れるぞ」
そう自分に言い聞かせ、青木功は1mのパットを決めた。
通算6アンダー。
これも全米オープン新記録だった。
そのボーナスが50000ドル。
2位の賞金が29500ドルだった。
ジャック・ニクラウスは、、青木功の肩を左腕で抱きながら右手で握手を求めた。

「Eagle has landed (鷲は舞い降りた)」初めてアメリカPGAツアーで勝利(日本人男子プロとしても初の快挙)

Signature Shot | Isao Aoki at the 1983 Hawaiian Open

ジャック・ニクラウスとの死闘の末、全米オープンで2位となった青木功だったが、その後の海外での成績は、たまに3位や4位になるものの、多くは10~40位くらいを繰り返した。
そして1983年2月10日、ワイアラエカントリークラブでワイアンオープンを迎えた。
初日、青木功は66で首位タイだったが、2日目には70で9位タイで予選を通過した。
3日目、スコアを伸ばし、再び首位タイで決勝ラウンド初日を終える。
4日目、最終日、17番ホールが終わった時点で、青木功とジャック・レナーは同スコアで首位だった。
18番ホールを、1組前を行くジャック・レナーはバーディでフィニッシュした。
青木功は、ドライバーをラフに入れてしまい、2打目もミスしフェアウェイを横切り反対側のラフへ。
グリーンまではまだ128ヤードも残っていた。
18番ホールはパー5だったので、3打目をグリーンに乗せ、そしてパットを決めればバーディとなり、同点でプレーオフに持ち込める。
だからなんとしてでもピンそばに乗せる必要があった。
青木功は、ピッチングウェッジで高いボールを打った。
ボールは、ピンに真っ直ぐ向かっていき、グリーンに落ちてワンバウンドしてカップに飛び込んだ。
130ヤードのチップインイーグル!
奇跡の大逆転勝利だった。
こうして40歳にして、初めてアメリカPGAツアー(アメリカを中心に展開する名実ともに世界一のゴルフツアー)で勝利。
同時にそれは日本人男子ゴルフとしても初の快挙だった。
翌日のハワイの新聞の見出しは青木の勝利をこう称えた。
「Eagle has landed for Aoki」

5打差逆転で日本オープン初優勝

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