「暴れん坊」ハマコー
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ハマコーこと浜田幸一
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少年期
千葉県君津郡青堀町(現・富津市)出身。実家は大地主で、父・甚三郎は町助役を務めるほどの名士だったにもかかわらず、大政翼賛会の役員でもあったこともあって戦後、戦犯者に指定され公職追放、その後博打にのめり込み破産。
母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという。
1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現:千葉県立木更津高等学校)に入学。ちょうど大東亜戦争が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から学徒動員で板金工として第2海軍航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた。
中学3年のときに土浦海軍航空隊に赴き、海軍飛行予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している。
1945年(昭和20年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で9月1日付で南満州鉄道に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の第2海軍航空廠で玉音放送を聞いた。ちょうどこの頃に兄が戦病死。
それから日本大学農獣医学部拓植学科(現:生物資源科学部国際地域開発学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った。しかし、本人曰く「合格した確かな記憶が無く、籍があったかどうかも不確かだった。学歴詐称を疑われる恐れもあったので、大学の同窓会の誘いも丁重にお断りしていた」と言う。
ただ、大学生時代に応援団の活動はしていた。東京の高田馬場に下宿していた当時、いつも連れ立っていた同郷の先輩に早稲田大学の学生が居たことから、早大に自然と出入りするようにもなり、早大の応援団に交じって東京六大学の応援活動をしていた。
青年団活動を行っており、竹下登や野中広務と知り合う。君津郡連合青年団長、千葉県連合青年団長、日本青年団協議会顧問を務めた。
政治活動
当日、大平正芳と面会した際、大平に「浜田君、(この騒ぎ)何とかならんかね」と言われ、「わかりました」と返答し党本部ロビーへ向うと反主流派がバリケードを築いていた。党の備品である椅子や机でバリケードを築いた反主流派に対して自分の私的所有物でもない物品でバリケードを築いたことに怒りを爆発させる。
バリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。この時に、「いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!」という演説を張る。
実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿であった。
しかしこの場面はテレビで何百回と繰り返し放送されたため、浜田がバリケードを築き、騒ぎながら椅子や机を投げ飛ばしていると勘違いされている。
浜田は前日にテレビ各局に「明日、やるからな」と電話をかけた上でのことだったが、「NHKに出ると必ずこの時の映像が流れる」と本人も苦笑していた。 浜田本人は“片付け”をしたと何度も著書内などで記述。バリケードを片付けて帰ってきた浜田に、大平は笑顔で「ご苦労さん」と言ってくれたと言う。
バリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。この時に、「いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!」という演説を張る。
実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿であった。
しかしこの場面はテレビで何百回と繰り返し放送されたため、浜田がバリケードを築き、騒ぎながら椅子や机を投げ飛ばしていると勘違いされている。
浜田は前日にテレビ各局に「明日、やるからな」と電話をかけた上でのことだったが、「NHKに出ると必ずこの時の映像が流れる」と本人も苦笑していた。 浜田本人は“片付け”をしたと何度も著書内などで記述。バリケードを片付けて帰ってきた浜田に、大平は笑顔で「ご苦労さん」と言ってくれたと言う。
富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、2度目の挑戦となった1969年(昭和44年)の衆議院議員選挙で自由民主党から旧千葉3区で初当選し、川島派に加わった。以後、通算当選7回(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美など)。
1973年(昭和48年)には中川一郎・渡辺美智雄・石原慎太郎らと共に自民党の派閥横断的な政策集団である青嵐会を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。この頃から武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産政務次官・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた。
政界引退後
大仁田vsハマコー - YouTube
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議員引退後の1993年(平成5年)12月に著書『日本をダメにした九人の政治家』(講談社)を出版し、1995年(平成7年)4月までに発行部数168万部のミリオンセラーとなった。
同著では自分自身をその中の1人として自省している。またタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に登場。1994年(平成6年)には連続テレビドラマ『お玉・幸造夫婦です』で、八千草薫と夫婦役を演じた。
その他にも主に政治を話題としたバラエティ番組に出演し、歯に衣着せぬキャラクターには一定の人気があった。
2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙では自由民主党の選挙用テレビコマーシャルに出演。
2010年(平成22年)1月21日、アメーバブログにてオフィシャルブログを開設した。同年1月25日にはTwitterのアカウントを取得した。
2010年(平成22年)8月10日、借金の担保として差し出したアドバンスト・メディアの株券800株を勝手に売却し、融資元の会社に2億円の損害を与えたとして、千葉県警捜査2課などに背任罪で逮捕され、千葉地方検察庁は8月31日に、千葉地方裁判所へ起訴した。しかしその後認知症が進むなど訴訟能力に疑問が生じたため、公判は停止された。
2012年(平成24年)8月5日、急性心不全のため富津市大堀の自宅で死去した。83歳没。背任罪の公判は被告人たる浜田本人が死亡したことで、8月8日に刑事訴訟法の規定により公訴棄却が決定し終結した。
【喧嘩】「出て来いコラ!」毒舌有吉 VS まるでヤクザ議員ハマコー!Rino1945 - YouTube
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逸話① 「元ヤクザ」
千葉でヤクザをしていた
テレビ等のメディアにおいて「千葉でヤクザをしていた」と公言。自身の著書において、第二次世界大戦後、法律の枠外に置かれた在日朝鮮人の不良行為に対して我慢ならず現場を見つけては撃退していたと語っている。
傷害事件を起こすなどし、以後、さまざまな非行を重ねて「木更津のダニ」(「町のダニ」とも)の悪名をとった。TVタックルでは、富津のダニと言っていた。この渾名は当時(1951年(昭和26年))の地元の新聞記事でも用いられている。
自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の暴力団、稲川会初代会長の稲川聖城であった。
1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。後年『新潮45』の企画にてビートたけしと対談した稲川は、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。「芸人ビートたけし」としては五寸の挨拶は許されないため、「映画監督北野武」として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っていた。
児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する国際興業で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員から千葉県議会議員になった。
公費では運転手は付かないため、そのあいだ浜田は移動用の車と運転手の面倒をみてもらった。この運転手が後のバーニングプロダクション社長・周防郁雄である。
1969年(昭和44年)に衆議院議員選挙に挑戦して初当選した。国会議員になってからは児玉と小佐野賢治に加え笹川良一や町井久之が後援者に加わったとされる。当選後ある議員[誰?]に「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=再チャレンジ)できないような社会をつくってはいけない」と述べている。
自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の暴力団、稲川会初代会長の稲川聖城であった。
1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。後年『新潮45』の企画にてビートたけしと対談した稲川は、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。「芸人ビートたけし」としては五寸の挨拶は許されないため、「映画監督北野武」として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っていた。
児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する国際興業で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員から千葉県議会議員になった。
公費では運転手は付かないため、そのあいだ浜田は移動用の車と運転手の面倒をみてもらった。この運転手が後のバーニングプロダクション社長・周防郁雄である。
1969年(昭和44年)に衆議院議員選挙に挑戦して初当選した。国会議員になってからは児玉と小佐野賢治に加え笹川良一や町井久之が後援者に加わったとされる。当選後ある議員[誰?]に「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=再チャレンジ)できないような社会をつくってはいけない」と述べている。
逸話② ラスベガス事件
ラスベガスのカジノで4億6000万円程度を一晩ですってしまった
1980年(昭和55年)3月6日に発覚した。1973年(昭和48年)11月に「ラスベガスのカジノで4億6000万円程度を一晩ですってしまった」とされる事件である。
via mainichi.jp
自由民主党の衆議院議員として通算7回の当選に及び、衆議院予算委員長、自由民主党広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任したが、閣僚経験は得られないまま1993年(平成5年)に政界を引退。
「ハマコー」の愛称で知られ、また、「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」の異名をもつ。政界引退後は「政治活動家」と自称していたほか、テレビ番組 『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)では、「悪党党幹事長」を名乗っていた。