ホタテマン
安岡力也の間違いがきっかけで誕生
これを他の出演者が軽く揶揄したところ、力也が「そんなにおかしいか!」とスタジオセットの大道具や小道具をなぎ倒すなどして暴れだし、他の出演者が血相を変えて逃げ出す結果になった。後輩からバカにされたと思い込んだ力也が本気で怒ったという説、本気ではなく安岡がわざとボケた、腫れ物に触るような雰囲気だったので怒ったフリをしてビビらせた、事前の打ち合わせどおりだった等多数ある。
この「力也がホタテ貝にからんで大暴れ」シーンが話題になり、力也はホタテマンとして『ひょうきん族』にレギュラー出演するようになった。タケちゃんマンのコーナー内で誰かが「ホタテ」といえば、“ジョーズ”のテーマに合わせて力也が登場し大暴れするというのが定番パターン。当初は生身の力也が暴れていたが、番組内で「力也=ホタテ」というイメージが定着したことで、着ぐるみを付けた「ホタテマン」というキャラクターへと変化していった。
ホタテマンCM ほたてラーメン - YouTube
安岡力也
シチリアンマフィアの息子だった力也
身長187cm、体重108kg、血液型はO型。イタリア・ジェノヴァ出身。
祖父はシチリアンマフィアで、イタリア人の父と日本人の母の間にジェノヴァで生まれる。
父親もマフィアで6歳のとき、父の死亡により日本へ帰国。一方、東京スポーツで生前の2011年4月に掲載された自身の連載「息子へ」では、祖父・父ともシシリーのマフィアで、米軍とつるんでいた関係で日本に来て、日本人で教師の母の間に仙台市で生まれた。
その後母親と転々として4歳から埼玉県行田市の祖母宅で育った。父は表向きは貿易商でイタリアと日本を往復したため、父が日本にいる時は麻布の父宅によく行ったが、イタリアで育ったことはないと話している。
シャープ・ホークスのボーカルを務めた力也
その後、グループ・サウンズ「シャープ・ホークス」にボーカルとして参加し、1966年にはシングル『ついておいで』でキングレコードよりレコードデビューを果たす。
同年末に発売したシングル『遠い渚』と翌1967年夏発売で新メンバーとしてジミー・レノンを加えレコーディングした『海へ帰ろう』がグループの代表曲となりザ・タイガースにとって最初のライバルグループとなる。
キックボクサー力也
1969年にグループ解散後は主に俳優として活動。東映では若山富三郎の派閥に属して、山城新伍の下についていた。仕事を干されていた時期に梅宮辰夫に救ってもらい、梅宮主演映画『不良番長シリーズ』にレギュラー出演。
1973年の千葉真一主演作品『ボディガード牙シリーズ』を皮切りに、キックボクシングの経験と体格の良さで、東映が製作する千葉や志穂美悦子主演の格闘映画に次々と出演していった。
1975年の映画『少林寺拳法』に出演をしたのが縁で少林寺拳法を稽古し、最終的に伍段を允許されている。
テレビ番組で相手の回し蹴りに対し、「喧嘩じゃあ、内側に回りこむこういう技がある」と、払い受け段突きを披露していた。
ハチの三恵子に一目ぼれした力也
上下関係に厳しく強面の風貌と裏腹に、シャレを理解しバラエティ番組などでイジられていた。共演していたビートたけしとは、仕事終わりに毎晩のように遊郭に行っていたという。以降、1980年代からは、バラエティ番組にも進出。2001年、春日井製菓のコマーシャルで「黒飴マン」に扮した。
1984年に結婚、14年ほど結婚生活は続いたが、力也の女性問題を理由に離婚。妻との間に一男一女をもうけ、離婚後は長男の親権を取り男手ひとつで育ててきた。
晩年は病と闘った力也
2010年5月17日放送の『徹子の部屋』にリハビリ後の復帰初仕事として出演。かつてはヘビースモーカーだったが、大病を患ってから禁煙、禁酒を始めたと語る。同年8月30日から9月1日にかけて、肝細胞癌、C型肝硬変のため、日本赤十字社医療センターで長男の提供による生体肝移植手術を受けた。
しかし2012年4月6日に容態が急変し、一時血圧も50まで低下。一時小康状態を保ったが、2012年4月8日午前6時に東京都内の病院で心不全により死去した。64歳没。
力也という人物
松田の葬儀にて「どっちが喧嘩強いんだろう、なんて話してた」と気丈にエピソードを語っていた安岡だったが、「もうどちらが強いか試す機会も無くなったのですね……」というインタビュアーの言葉に絶句、悔しそうにボロボロと涙を落とし「あいつとは喧嘩ももう出来ないんだよ……喧嘩も出来ねぇんだ……」と嗚咽。
見た目はホタテ貝から手足が出たような姿の着ぐるみ。顔にはプロレスラーのペイント風のメイク(登場当初はペイント風メイクはなかった)がなされ、着ぐるみには傷跡がついており、腕にはウェスタンファッション特有の水切りが付いている。胸には「ホタテマン」と書かれた名札が付いている。