【「東洋のコンピューター」奥寺康彦】1970年代、日本人初のドイツブンデスリーガで活躍!!
2016年11月25日 更新

【「東洋のコンピューター」奥寺康彦】1970年代、日本人初のドイツブンデスリーガで活躍!!

Jリーグ発足より15年も前、当時世界最高峰だったドイツブンデスリーガで活躍した奥寺康彦。「東洋のコンピューター」の異名を持ち、UEFAチャンピオンズカップではアジア人として初めてゴールを記録した彼のキャリアについて。

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奥寺康彦

東洋のコンピューターと呼ばれました

東洋のコンピューターと呼ばれました

奥寺康彦(1952年3月12日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表。
1970年代当時、世界最高峰のリーグと言われたドイツのブンデスリーガ(1976年-1984年までUEFAリーグランキング1位)で活躍した初めての日本人選手。
3つのクラブを渡り歩き計9年間プレーを続けレギュラーとして実績を残した。その正確無比の安定したプレースタイルで地元ドイツのファンから「東洋のコンピューター」というニックネームで呼ばれ、賞賛された。
ヨーロッパサッカー連盟主催の国際大会にはアジア人最高となる6回出場。1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)ではアジア人として大会史上初となるゴールを記録。

キリンカップ86決勝 パルメイラスvsブレーメン - YouTube

奥寺康彦のキャリア

ケルンからの再三のオファーに渡欧を決意

ケルンからの再三のオファーに渡欧を決意

1970年に日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に入部。
1976年に古河がブラジル工場を持っていた縁でブラジル・パルメイラスに2ヶ月間留学して急成長を遂げ、ユース代表を経て日本代表に選出。同年に代表ではムルデカ大会で得点王に輝き、古河ではJSL、天皇杯の二冠に貢献しベストイレブンに選出。
1977年夏に日本代表がドイツにおいて分散合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の1.FCケルンの監督であったヘネス・ヴァイスヴァイラーと親しかったことから、奥寺ら数人をケルンの合宿に参加させた。
当時、ケルンはスピードのある左ウイングを探しており、ヴァイスヴァイラーは同ポジションの奥寺に興味を持った。そこで、練習と称して事実上の入団テストを行ったうえで、奥寺に正式なオファーを出した。後に本人は、もし最初からあれが入団テストだと分かっていたら緊張して思ったとおりの力が出せなかったであろうと語っている。
奥寺は自分がブンデスリーガで通用するのか、失敗した場合に家族を養えるのかという不安から一度はオファーを断るが、再三に渡る国際電話でのオファーの果てに監督のヴァイスヴァイラー自ら奥寺を口説きに来日したため、日本サッカー協会に半ば強引に背中を押される形でドイツ行きを決意したという。
1.FCケルン時代

1.FCケルン時代

同年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対MSVデュイスブルク戦で先発デビュー。
12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)、ブンデスリーガでは1978年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを記録。名将・ヴァイスヴァイラーの下で数々の活躍をみせ、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献した。優勝を決めた試合では途中出場ながら2ゴールを挙げた。
翌1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出し、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦。アウェーの第1戦において貴重な同点ゴールを決め3-3のドローに追いついたが、ホームの第2戦では0-1で破れ欧州制覇は成らなかった。
1980年にヴァイスヴァイラーがアメリカ・NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍すると、後任監督カールハインツ・ヘダゴットの構想外となり、ベンチからも外れる。出場機会を求めて1980-81年シーズンの後半にブンデスリーガ2部所属のヘルタ・ベルリンへ移籍。
ヴェルダー・ブレーメン時代

ヴェルダー・ブレーメン時代

1部昇格に挑んでいたヘルタは最終的に昇格を逃したが、そのシーズンにヘルタに競り勝ち1部昇格を決めたヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督に認められ、翌1981-82シーズンからブレーメンに移籍。
奥寺は左ウイングとしてブンデスリーガに渡ったが、レーハーゲルは守備的MFとしての奥寺の能力に注目した。守備の強さ、堅実なプレーに惹かれ、80年代なかばからヨーロッパの主流となった3-5-2システムの中で、奥寺は左ウイングバックという「天職」を与えられた。
守備を行いながら、味方ボールとなると、ウイングそのものとなって攻撃の中核を担う。そうしたプレーはレーハーゲルをして「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」と言わしめた。
1982年、1部1年目のブレーメンは、5位という好成績を残し、翌83年にはハンブルガーSVに次ぎ2位、そして84年5位、85年、86年と連続して2位。優勝は経験できなかったが、奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。
ブンデスリーガには通算9年間在籍。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算235試合出場、25得点を挙げ、ヨーロッパサッカー連盟主催の国際大会ではアジア人最高となる6度出場の活躍を見せた。
古河復帰

古河復帰

1986年、「まだ自分の体が言うとおりに動くうちに」日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいとして、日本に帰国し、古巣の古河電工に復帰。
帰国した奥寺は木村和司と共に日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び注目を集めた。また古河の一員としてはこの年にアジアクラブ選手権優勝。日本代表にも復帰し1987年のソウル五輪アジア最終予選進出に貢献。
1987-88年シーズンを最後に現役を引退。
引退後

引退後

Jリーグ参入のため、古河電工からクラブチーム化された「東日本JR古河サッカークラブ」(ジェフ市原の前身となるクラブ)のゼネラルマネージャーに就任。1996年には監督に就任したが成績不振から1シーズン限りで退任。
1999年に横浜フリューゲルスのサポーター有志で結成された「横浜フリエスポーツクラブ」(横浜FC)のゼネラルマネージャーに就任、2000年からは代表取締役社長を兼任。
2012年8月、日本サッカー殿堂入り。2014年11月、AFC初代殿堂入り。

《THE JOURNAL》 インタビュー:奥寺康彦 - YouTube

日本のレジェンド① 海外移籍のパイオニア 奥寺康彦 - YouTube

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