1982年、高橋徹 F2デビュー戦2位
1982年、FJ1600に乗り、全日本F3選手権にもハヤシレーシングからマシンレンタルと言う形で参戦。チームメイトであった鈴木亜久里を上回る成績を残す。同年12月には生沢徹率いるレーシングチームi&iの富士スピードウェイでのGC車テストに参加、同じくテストに参加していた鈴木利男を上回るタイム記録する。
高橋 徹 1982 鈴鹿グレート20 F3 - YouTube
1982年、高橋 徹 インタビュー
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1983年、高橋徹 は、デビュー戦で最高成績をおさめ、頂点に上り詰めた
1983年本のタイトルになった鈴鹿JPSトロフィーレース
「たった一度のポールポジション」
5月の全日本F2選手権第4戦「鈴鹿J.P.Sトロフィーレース」予選で当時の鈴鹿サーキットのコースレコード1分56秒46を出し、ポールポジションを獲得。日本のレース界の頂点に上り詰めた。
「たった一度のポールポジション」
5月の全日本F2選手権第4戦「鈴鹿J.P.Sトロフィーレース」予選で当時の鈴鹿サーキットのコースレコード1分56秒46を出し、ポールポジションを獲得。日本のレース界の頂点に上り詰めた。
via stat.ameba.jp
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高橋徹は、全日本F2(全8戦)の前半ランキング6位。
10月23日の富士GCシリーズ最終戦「富士マスターズ250キロレース。高橋は決勝レースでトップを走る星野の後を2番手で走行していた。
2周目の最終コーナー立ち上がりでスピンし、車体は舞い上がり、車体上面(運転席付近)から、観客席フェンスにクラッシュ。
マシンやその破片の直撃を受けた観客一人が即死、一人重傷、二人が軽傷を負うという大事故となった。
高橋は富士スピードウェイの医務室に運ばれたが死亡が確認された。
23歳と17日だった。
この事故では観客にも死傷者が出たため、検証には警察が介入した。
事故に巻き込まれ亡くなった観客の遺族が富士スピードウェイと徹の両親を相手に民事訴訟を起こしている。損害賠償額は1億5万円だった。
「原告はドライバーに対して過失責任を問うという、一般公道上の交通事故と同じ論理を持ち込んだ」
レース関係者が誰ひとりとして高橋家を弁護しようとしなかったという。
10月23日の富士GCシリーズ最終戦「富士マスターズ250キロレース。高橋は決勝レースでトップを走る星野の後を2番手で走行していた。
2周目の最終コーナー立ち上がりでスピンし、車体は舞い上がり、車体上面(運転席付近)から、観客席フェンスにクラッシュ。
マシンやその破片の直撃を受けた観客一人が即死、一人重傷、二人が軽傷を負うという大事故となった。
高橋は富士スピードウェイの医務室に運ばれたが死亡が確認された。
23歳と17日だった。
この事故では観客にも死傷者が出たため、検証には警察が介入した。
事故に巻き込まれ亡くなった観客の遺族が富士スピードウェイと徹の両親を相手に民事訴訟を起こしている。損害賠償額は1億5万円だった。
「原告はドライバーに対して過失責任を問うという、一般公道上の交通事故と同じ論理を持ち込んだ」
レース関係者が誰ひとりとして高橋家を弁護しようとしなかったという。
1983 GC 高橋徹 事故 - YouTube
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「裁判は、この訴提起から1年9ヶ月にわたって続いた。
訴提起から1年5ヵ月後、西村国彦ら高橋家側の弁護団は、レース公認団体の日本自動車連盟、所属チームの有限会社ヒーローズ・レーシング・コーポレーション、GCマシンのカウル設計者、由良拓也並びにムーンクラフトに対して「ともに裁判に参加して戦わないと高橋家のみならずあなた方にもふりになりますよ」と呼びかける訴訟告知を行う。そして、この訴訟告知により状況は一変する」
原告側の弁護士が裁判所の和解勧告に心を動かし、高橋家に対する請求を放棄することになる。和解内容は、富士スピードウェイは原告に対し4千万円を支払う。原告は高橋家に対する請求を全額放棄、というものだった。高橋徹に責任なし、となったわけだが、結局事故原因は解明されなかった。
「ウイングカー(グラウンド・エフェクト・カー)の申し子」と言われた
高橋徹。生きていれば、55才。
1984年、富士スピードウェイの高橋徹の事故コーナーの手前にダンロップシケインが設けられた。
高橋の事故が決定的な決め手になり、GCにおけるグラウンド・エフェクト・カーは禁止されることになった。
高橋徹。生きていれば、55才。
1984年、富士スピードウェイの高橋徹の事故コーナーの手前にダンロップシケインが設けられた。
高橋の事故が決定的な決め手になり、GCにおけるグラウンド・エフェクト・カーは禁止されることになった。
以下、Wikiより
高橋の事故はグラウンド・エフェクト・カーの特性に起因するという見方もされた。グラウンド・エフェクト・カーの危険性は以前から指摘されていたが、高橋の事故が決定的な決め手になって、GCにおけるグラウンド・エフェクト・カーは禁止されることになった。また生前の高橋に対しては、「ウイングカー(グラウンド・エフェクト・カー)の申し子」という異名も存在した。グラウンド・エフェクト・カーは独特の操縦感覚が必要とされると言われるが、高橋はそれをベテラン勢以上にうまく乗りこなしていたからである。
ダンロップシケイン
富士スピードウェイのコース後半に位置するシケイン。「Bコーナー」とも呼ばれる。元々の旧コースでは300Rからスピードを乗せ、少しアクセルを緩めつつ超高速の最終コーナーに突入する超高速区間であった。しかし1983年に起こった高橋徹の死亡事故により、観客にも被害が出てしまった事が契機となり、1984年に最終コーナーへのアプローチ速度低下を目的に300R出口と最終コーナー中間の丘を削る形で設置された。旧コースのシケインは大きく右、左、右と回り込むシケインであり、ここの脱出速度が長いストレートの速度に影響し、勝負の分かれ目になるとされた。新コースとなってからのダンロップシケインは場所こそほぼ変わらないものの形状は変わり、右に大きく回り込んで左、右と切り返す難易度の高いものとなる。高速コーナーの300Rの終わりにあるため、1コーナーと並び富士のオーバーテイクポイントとされる。選択式シケインであり、そのまま右へ90度の角度で曲がりショートカットできるルートも存在する。
1979年、18歳でKS-07スズキで西日本サーキット(後のMINEサーキット、現・マツダ美祢自動車試験場)のFL500のシリーズ戦に参戦、デビュー、予選5位、決勝4位。
1981年にはハヤシレーシングにメンテナンスを依頼、FL550とFJ1600の鈴鹿シリーズにも参戦。FL550シリーズ3位、鈴鹿FJ1600シリーズ9位、西日本FJ1600シリーズ5位。