日本人なのかそうでないのか?
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どういう家庭出身?
大工を営む貧しい家庭に生まれたは多額の借金を抱えており、家計を助け弟を大学に進学させるため高校を中退し、赤坂(六本木)の有名高級クラブ「コパカバーナ」でホステスとして働き始める。
どういう経緯で19才でインドネシア初代大統領第三夫人に?第三って何?
高級クラブのホステス時代に築いた日本の経済界との繋がりが、その後の人生に大きな影響をもたらした。
この美貌に大統領が魅せられたと紹介されることが多いが、当時インドネシアは国内情勢が非常に不安定で、日本の後ろ盾がなんとしても欲しかったスカルノと、インドネシアに経済のパイプを繋ぎたい日本側の思惑が一致した結果の結婚であった
らしい。
この美貌に大統領が魅せられたと紹介されることが多いが、当時インドネシアは国内情勢が非常に不安定で、日本の後ろ盾がなんとしても欲しかったスカルノと、インドネシアに経済のパイプを繋ぎたい日本側の思惑が一致した結果の結婚であった
らしい。
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1959年(昭和34年)、19歳のときに、インドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとに送り込まれた[1]。この一件に当時「昭和のフィクサー」と呼ばれた暴力団関係者の児玉誉士夫が関わっていたとされる。
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一夫多妻制は妻全員に、平等に正妻としての権利が与えられた制度。愛人、妾とは全くの別物
一番のお気に入り
4人いる妻のうちで、スカルノ大統領は最もデヴィ夫人を気に入っていた。どこに行くにも連れ歩くのはデヴィ夫人。
彼女は大統領によってインドネシア・日本親善協会会長に任命され、経済的に大いにインドネシアに貢献したと言われている。
彼女は大統領によってインドネシア・日本親善協会会長に任命され、経済的に大いにインドネシアに貢献したと言われている。
ただの美しいプリンセスではなかった
当時日本では皇太子妃美智子様と並ぶ、民間生まれのシンデレラとして話題だったが、実際の彼女は計算された馴れ初めに始まり、美貌とトーク力を駆使し日本からインドネシアへの経済援助(ODA)や資源輸出の強力なパイプとなり、日本側にとっては企業のインドネシア進出の橋渡しとなったり、優秀な情報源でもあった。
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スカルノ大統領失脚後はパリで華やかに
1965年9月、軍事クーデターによりスカルノ大統領失脚。
デヴィ夫人は東京で娘を出産後パリに亡命。
社交界の華となり、スカルノ元大統領存命中にも関わらず数多くの恋の噂も。
デヴィ夫人は東京で娘を出産後パリに亡命。
社交界の華となり、スカルノ元大統領存命中にも関わらず数多くの恋の噂も。
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婚約者の会社に投資して失敗、六本木でディスコを開業して失敗と事業家としては手腕を発揮することができなかったが、日本経済界のお偉方に可愛がられていたため金銭的な苦労はほぼ無かった(という噂です)。
1940年(昭和15年)2月6日東京生まれ 本名 根本 七保子(ねもと なおこ)
現在はインドネシア国籍
インドネシア名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ