サザン及び桑田佳祐とコラボしていた、音楽プロデューサー・小林武史
1990年にリリースされた、サザンオールスターズ10枚目のオリジナルアルバム『稲村ジェーン』。『真夏の果実』『希望の轍』など、J-POP史に残る名曲を収録した名盤ですが、このアルバム、少し名義が変わっています。
その名も「SOUTHERN ALL STARS and ALL STARS」。いったい、なぜ「and ALL STARS」と付け加えられているのかというと、80年代後半に桑田のソロ活動をサポートしていたミュージシャンが、曲づくりに大きく関わっていたためです。会社組織でいえば、自社開発に加えて、アウトソーシングに係る比重が大きくなった、といったイメージでしょうか。
その新たな「オールスターズ」の中でも、特に重要な桑田佳祐のブレーンとして、サザンの音作りに多大な影響を及ぼした人物。それが、Mr.ChildrenのプロデューサーでMy Little Loverの元メンバーとして知られる小林武史です。
その名も「SOUTHERN ALL STARS and ALL STARS」。いったい、なぜ「and ALL STARS」と付け加えられているのかというと、80年代後半に桑田のソロ活動をサポートしていたミュージシャンが、曲づくりに大きく関わっていたためです。会社組織でいえば、自社開発に加えて、アウトソーシングに係る比重が大きくなった、といったイメージでしょうか。
その新たな「オールスターズ」の中でも、特に重要な桑田佳祐のブレーンとして、サザンの音作りに多大な影響を及ぼした人物。それが、Mr.ChildrenのプロデューサーでMy Little Loverの元メンバーとして知られる小林武史です。
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88年リリースの『Keisuke Kuwata』が、初めての共作となる
小林と桑田、初めての共作となったのは、『稲村ジェーン』より約2年前にリリースされた、桑田初のソロアルバム『Keisuke Kuwata』。同アルバムにおいて、当時既に、アレンジャー・スタジオミュージシャンとして売れっ子だった小林は、コンピュータープログラマーの藤井丈司と共に、プロデューサーとして登用されています。
小林起用の背景には、1985年にリリースされたサザンのアルバム『KAMAKURA』の存在が大きく関係していたはずです。当時一世を風靡したテクノポップブームの波に乗り、YMOのアシスタントだった藤井丈司の全面協力のもと製作された本作は、打ち込みによる曲づくりが主体。サンプラーやデジタル・シンセサイザーを駆使したサウンドは、かなり実験的で刺激的ではあったものの、反面、これまでのサザン楽曲で見られた“バンドっぽさ”は希薄でした。だからこそ、ぬくもりのあるキーボードの音色で、「ポップス」感を曲に反映できるであろう小林を、桑田は必要としていたのでしょう。
小林起用の背景には、1985年にリリースされたサザンのアルバム『KAMAKURA』の存在が大きく関係していたはずです。当時一世を風靡したテクノポップブームの波に乗り、YMOのアシスタントだった藤井丈司の全面協力のもと製作された本作は、打ち込みによる曲づくりが主体。サンプラーやデジタル・シンセサイザーを駆使したサウンドは、かなり実験的で刺激的ではあったものの、反面、これまでのサザン楽曲で見られた“バンドっぽさ”は希薄でした。だからこそ、ぬくもりのあるキーボードの音色で、「ポップス」感を曲に反映できるであろう小林を、桑田は必要としていたのでしょう。
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「手の内を探り合いながらやっていた」と語った桑田佳祐
『Keisuke Kuwata』製作時の小林と桑田は、知り合ってまだ1年足らず。そんな事情もあり、「お互い必死で手の内を探り合いながらやっていたようなところがある」と、桑田は自著『やっぱり、ただの歌詞じゃねえか、こんなもん』の中で述懐しています。
「手の内を探る」といっても、そこはプロの現場。遠慮などは一切なかったようで、事実、桑田は「アレンジの方向性として、A、B、C、どのパターンがいいですか?」と聞いてきた小林に対して「その良い部分だけを集めたDパターンで」などと、かなり曖昧かつ無責任な要望を押し付けていたようです。
そんな無理難題にもしっかりと対応し、洗練されたアレンジを提供し続ける小林に、桑田が全幅の信頼を置くようになったのは想像に難くありません。実際、アルバム製作後に桑田は「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と、小林へ最大限の賛辞を送っています。
「手の内を探る」といっても、そこはプロの現場。遠慮などは一切なかったようで、事実、桑田は「アレンジの方向性として、A、B、C、どのパターンがいいですか?」と聞いてきた小林に対して「その良い部分だけを集めたDパターンで」などと、かなり曖昧かつ無責任な要望を押し付けていたようです。
そんな無理難題にもしっかりと対応し、洗練されたアレンジを提供し続ける小林に、桑田が全幅の信頼を置くようになったのは想像に難くありません。実際、アルバム製作後に桑田は「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と、小林へ最大限の賛辞を送っています。
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『真夏の果実』『希望の轍』のイントロも小林のアイデアによるもの
そんな有能な小林を桑田は、サザンの活動にも引き入れていきます。初仕事は1988年6月にリリースされた『みんなのうた』。続くアルバム『Southern All Stars』(1990年)でもアレンジを担当。
そして、桑田×小林の才気が最高潮に煥発した作品が『稲村ジェーン』でした。
特に、小林の「イントロ」における創造性は傑出しており、『真夏の果実』のハープとガット・ギターによる奥行ある音色も、『希望の轍』の軽快かつメロディアスなピアノ独奏も、小林のアイデアによるもの。さすがは、ミスチルメンバーから「イントロ大王」と呼ばれるだけのことはあるというものです。
そして、桑田×小林の才気が最高潮に煥発した作品が『稲村ジェーン』でした。
特に、小林の「イントロ」における創造性は傑出しており、『真夏の果実』のハープとガット・ギターによる奥行ある音色も、『希望の轍』の軽快かつメロディアスなピアノ独奏も、小林のアイデアによるもの。さすがは、ミスチルメンバーから「イントロ大王」と呼ばれるだけのことはあるというものです。
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小林の才能に、桑田も脱帽?
こうしたキャッチ―な音を次々と紡ぎだす小林の作曲家としてのセンスに、桑田は嫉妬さえ感じたに違いありません。同時に、他のサザンメンバーと比するまでもない音楽的素養のため、絶対的フロントマンとして同グループに君臨していた桑田にとって、自分の才能を脅かす小林の存在は、ビートルズにおける「ジョンvsポール」の構図になぞらえるかの如く、刺激的でもあったはず。
かくして桑田が小林へ寄せる信頼は、いよいよ絶対的なものになっていきます。91年のソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係に巻き込んでいきます!」と発言したことからも、これからも末永く、桑田と小林の蜜月は続いていくかに思われました。
かくして桑田が小林へ寄せる信頼は、いよいよ絶対的なものになっていきます。91年のソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係に巻き込んでいきます!」と発言したことからも、これからも末永く、桑田と小林の蜜月は続いていくかに思われました。
シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)』以降、小林の登用はなし
11枚目のアルバム『世に万葉の花が咲くなり』(1992年)、シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)』(1993年)のリリースを最後に、桑田はサザン及び自身のソロ活動に小林を呼ばなくなります。
桑田曰く、「(小林が)危ないヤツと分かった」からなのだとか。これは決して、小林の人間性を否定していたわけではありません。有能な外部社員・小林を重用し過ぎるあまりに、立ち上げ時からの仲間である他のサザンメンバーをないがしろにすることを恐れた、株式会社サザンオールスターズ社長・桑田の経営判断だったのです。
しかし、2006年、小林が主催する『ap bank fes』へ桑田が出演するなど、決して、2人の交流が無くなったわけではありません。小林は「また一緒に仕事がしたい」と言っているようですし、いつの日か、“奇跡のコラボ”が復活することを期待したいものです。
桑田曰く、「(小林が)危ないヤツと分かった」からなのだとか。これは決して、小林の人間性を否定していたわけではありません。有能な外部社員・小林を重用し過ぎるあまりに、立ち上げ時からの仲間である他のサザンメンバーをないがしろにすることを恐れた、株式会社サザンオールスターズ社長・桑田の経営判断だったのです。
しかし、2006年、小林が主催する『ap bank fes』へ桑田が出演するなど、決して、2人の交流が無くなったわけではありません。小林は「また一緒に仕事がしたい」と言っているようですし、いつの日か、“奇跡のコラボ”が復活することを期待したいものです。
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(こじへい)
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