ネルソン吉村
1947年、日系ブラジル人としてサンパウロに生まれたネルソン吉村。彼は、日系人のアマチュアクラブに所属していた1966年に、リーグ戦での活躍が認められ、勤務先のヤンマーディーゼル現地子会社から、当時発足したばかりだった日本サッカーリーグで戦う同社サッカーチームの強化目的で、日本本社への転勤を命じられます。
日本に来てからは、ヤンマーのエースストライカー・釜本邦茂へのアシスト役として躍動。189試合に出場して30得点・54アシストを記録し、日本代表としては、45試合出場7得点という結果を残しています。突出したボールタッチの柔らかさを持っており、ネコがじゃれるようにボールと触れ合うことから、「ネコ」の愛称で親しまれていました。
日本に来てからは、ヤンマーのエースストライカー・釜本邦茂へのアシスト役として躍動。189試合に出場して30得点・54アシストを記録し、日本代表としては、45試合出場7得点という結果を残しています。突出したボールタッチの柔らかさを持っており、ネコがじゃれるようにボールと触れ合うことから、「ネコ」の愛称で親しまれていました。
与那城ジョージ
沖縄県からブラジル・サンパウロに移民した両親のもと、1950年に誕生した与那城ジョージは、ネルソン同様、日系人のリーグで頭角を現していきます。1972年に来日してからは、読売サッカークラブ一筋13年。239試合出場・92得点と活躍しました。
帰化したのは、遅く34歳の時。1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選に2試合出場しますが、自分が代表レベルにないことを痛感し、その年に引退してしまいます。
帰化したのは、遅く34歳の時。1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選に2試合出場しますが、自分が代表レベルにないことを痛感し、その年に引退してしまいます。
与那城ジョージ
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石川康
与那城同様、沖縄から海外へ移住した両親の元で育った石川。移住先はボリビアであり、たいへん貧しい暮らしを強いられる中、サッカー選手として成功することを夢見て、現地のサッカー選手養成学校で技術を磨きます。日本との縁は、ボリビアの高校を卒業後、埼玉県・武南高校のサッカー部に編入したのがきっかけ。武南高校を卒業した後も日本に留まり、本田技研サッカー部に入部し、アマチュア選手として活躍しました。
1992年にJリーグの開幕を見越して、読売クラブ(ヴェルディ川崎)へ移籍してからは不動の右サイドバックとして躍動。日本代表としては、バルセロナ五輪代表(U-23日本代表)に選出され予選を戦っています。
1992年にJリーグの開幕を見越して、読売クラブ(ヴェルディ川崎)へ移籍してからは不動の右サイドバックとして躍動。日本代表としては、バルセロナ五輪代表(U-23日本代表)に選出され予選を戦っています。
ラモス瑠偉
代表的帰化日本人という枠を超え、90年代前半における日本サッカー界のアイコンでもあったラモス瑠偉。1957年、ブラジル・リオデジャネイロの片田舎に生まれたやせっぽっちの少年は、サッカーで身を立てるために、さまざまなクラブチームのセクションを受けるもことごとく不合格。
18歳のときにようやく、サンパウロ1部リーグ下位のチーム・サアジFCに加入するのですが、彼のもとに運命の使者がやってきます。与那城ジョージです。ジョージはラモスに読売クラブへの移籍を打診。9歳の時に父を亡くしからというもの、少しでも母を楽にさせたいとの想いを抱いていたラモスは、縁もゆかりもない日本への渡航を決意したのでした。
来日後の活躍はご存じの通り。Jリーグ開幕時はリーグを代表するスター選手として観衆を魅了し、日本代表においてはあの『ドーハの悲劇』のときもピッチに立ち、引退後もフットサル日本代表を率いるなど監督業にも熱心に取り組んだ彼は、史上最も日本サッカーへ貢献した帰化日本人といって差し支えないでしょう。
18歳のときにようやく、サンパウロ1部リーグ下位のチーム・サアジFCに加入するのですが、彼のもとに運命の使者がやってきます。与那城ジョージです。ジョージはラモスに読売クラブへの移籍を打診。9歳の時に父を亡くしからというもの、少しでも母を楽にさせたいとの想いを抱いていたラモスは、縁もゆかりもない日本への渡航を決意したのでした。
来日後の活躍はご存じの通り。Jリーグ開幕時はリーグを代表するスター選手として観衆を魅了し、日本代表においてはあの『ドーハの悲劇』のときもピッチに立ち、引退後もフットサル日本代表を率いるなど監督業にも熱心に取り組んだ彼は、史上最も日本サッカーへ貢献した帰化日本人といって差し支えないでしょう。
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上原エドウィン
上原エドウィンは、ペルー出身の日系3世。ペルー時代はリーグ優勝17回を誇る名門「スポルティング・クリスタル」に所属。兄弟が日本で働いていたこともあり、1991年に浦和レッズのオファーを受けて来日。南米仕込みの卓越したテクニックのミッドフィルダーとして活躍し、1992年の天皇杯ベスト4進出などに貢献しています。
ハーフナー・ディド
ハーフナー・マイク、ハーフナー・ニッキの父親として知られるハーフナー・ディドが、日本へやってきたのは1986年のこと。オランダ・ADOデン・ハーグのゴールキーパーだったディドは、マツダSC(現サンフレッチェ広島)の監督・ハンス・オフトからの誘いを受け、コーチ兼任選手として移籍。以降、読売クラブ⇒名古屋グランパスエイト⇒ジュビロ磐田⇒コンサドーレ札幌と、国内リーグのチームを渡り歩いていきました。
1993年には兼任選手を続けながら、日本代表のコーチにも就任。同年には自身を含む一家全員を帰化させています。
1993年には兼任選手を続けながら、日本代表のコーチにも就任。同年には自身を含む一家全員を帰化させています。
呂比須ワグナー
1998年ワールドカップ・フランス大会の予選と本戦で活躍した呂比須ワグナー。17歳でサンパウロとプロ契約していた呂比須は、1987年、18歳の時に同僚の元ブラジル代表DF・オスカーに誘われて、一緒に日産自動車サッカー部(横浜F・マリノスの前身)へ入団。
その後15年に渡って、日本リーグ・JFL・Jリーグで活躍し続け、総得点数は203ゴール。これは、釜本邦茂の202ゴールをも上回る記録です。1997年9月12日に帰化してからは、日本代表の貴重なジョーカーとして、幾度も重要な局面で点を決めていたものでした。
その後15年に渡って、日本リーグ・JFL・Jリーグで活躍し続け、総得点数は203ゴール。これは、釜本邦茂の202ゴールをも上回る記録です。1997年9月12日に帰化してからは、日本代表の貴重なジョーカーとして、幾度も重要な局面で点を決めていたものでした。