那須与一は何をした?
「平家物語」の名場面となる「扇の的射ち」の主役が那須与一です。
その「扇の的射ち」シーンの舞台となったのが、平氏の本拠地である高知県高松市の屋島です。
5隻の船で奇襲をかけた源義経率いる源氏軍と平氏軍が屋島で戦うのですが、戦いはなかなか決着がつかず夕刻となりました。
両軍ともいったん引き分けようかという雰囲気になったとき、平家は扇の的を矢で射貫く「戦占い」をしようと企てます。貴族化していた平家は戦のさ中でも風流な振る舞いをしてみせ、源氏を挑発しようという試みでした。
平家は紅地に日輪が描かれた扇を柱の先に立て、若い女性を一人乗せ源氏に向かって漕ぎ寄せました。若い女性は源氏に向かって手招きをします。
源氏は「なんだ?」と思ったのですが、きっと「この扇を射てみろ」と言っているんだろうなと理解し、弓の名手を兵の中から探しました。それが、那須与一です。
この時、那須与一は一番指名ではなかったのです。数名の名が上がりましたが、揺れる船の的を射抜くなどと辞退していき、与一の兄でさえ辞退します。そこでやむなく兄の代わりを引き受けてしまったのです。
失敗すれば源義経の顔に泥を塗ることになり、源氏軍の士気も下がってしまいます。となると生きていられることもできません。ですが、無茶ばかりいう源義経に「やれといったらやれ」と言われては、やるしかありません。切腹覚悟の与一は、馬に乗り海へ入っていきました。
扇の的までは約70メートル。天候は嵐のあとで風は激しく、また的の小舟は揺れ続けています。両軍が注目する中、「南無八幡」と念じ、矢を放ったのです。
矢は見事、扇に命中。
両軍ともに大歓声で与一をほめたたえたというお話です。
この平家物語の名シーンが、今回の大河ドラマ「鎌倉殿」で描かれなかったのですね。
その「扇の的射ち」シーンの舞台となったのが、平氏の本拠地である高知県高松市の屋島です。
5隻の船で奇襲をかけた源義経率いる源氏軍と平氏軍が屋島で戦うのですが、戦いはなかなか決着がつかず夕刻となりました。
両軍ともいったん引き分けようかという雰囲気になったとき、平家は扇の的を矢で射貫く「戦占い」をしようと企てます。貴族化していた平家は戦のさ中でも風流な振る舞いをしてみせ、源氏を挑発しようという試みでした。
平家は紅地に日輪が描かれた扇を柱の先に立て、若い女性を一人乗せ源氏に向かって漕ぎ寄せました。若い女性は源氏に向かって手招きをします。
源氏は「なんだ?」と思ったのですが、きっと「この扇を射てみろ」と言っているんだろうなと理解し、弓の名手を兵の中から探しました。それが、那須与一です。
この時、那須与一は一番指名ではなかったのです。数名の名が上がりましたが、揺れる船の的を射抜くなどと辞退していき、与一の兄でさえ辞退します。そこでやむなく兄の代わりを引き受けてしまったのです。
失敗すれば源義経の顔に泥を塗ることになり、源氏軍の士気も下がってしまいます。となると生きていられることもできません。ですが、無茶ばかりいう源義経に「やれといったらやれ」と言われては、やるしかありません。切腹覚悟の与一は、馬に乗り海へ入っていきました。
扇の的までは約70メートル。天候は嵐のあとで風は激しく、また的の小舟は揺れ続けています。両軍が注目する中、「南無八幡」と念じ、矢を放ったのです。
矢は見事、扇に命中。
両軍ともに大歓声で与一をほめたたえたというお話です。
この平家物語の名シーンが、今回の大河ドラマ「鎌倉殿」で描かれなかったのですね。
via ja.wikipedia.org
「屋島の戦い」とは
源平合戦の「一の谷の戦い」で大敗した平氏と源氏を後白河法皇は三種の神器の返還と源平の和平を打診したのですが、平宗盛はこれを拒否してしまいました。そこで源頼朝は、弟義経を大将とし平家討伐を後白河法皇へ奏請したのです。
本格的な水軍を持たない源氏軍は、暴風雨のために摂津国渡辺津で足止めをくらいます。船頭らも出向を拒み諸将は出向を見合わせたのですが、無茶をごり押しする源義経は、わずか5艘150騎で出航を強行しました。義経の船団は、普通3日かかる航路を暴風を掴み4時間ほどで阿波国勝浦に到着したのです。
源義経は、干潮時に騎馬で島へと渡れることに目を付け、背後から奇襲を仕掛けたのです。
屋島は独立した島であり、平氏は海上からの攻撃を想定していたのですね。
平氏は、奇襲攻撃に動揺しましたが戦いに決着はつかなかったのです。
そして、先にお話ししました那須与一の名シーンへと繋がります。
本格的な水軍を持たない源氏軍は、暴風雨のために摂津国渡辺津で足止めをくらいます。船頭らも出向を拒み諸将は出向を見合わせたのですが、無茶をごり押しする源義経は、わずか5艘150騎で出航を強行しました。義経の船団は、普通3日かかる航路を暴風を掴み4時間ほどで阿波国勝浦に到着したのです。
源義経は、干潮時に騎馬で島へと渡れることに目を付け、背後から奇襲を仕掛けたのです。
屋島は独立した島であり、平氏は海上からの攻撃を想定していたのですね。
平氏は、奇襲攻撃に動揺しましたが戦いに決着はつかなかったのです。
そして、先にお話ししました那須与一の名シーンへと繋がります。
via ja.wikipedia.org
那須与一の生い立ち
さてさて、主役の那須与一(なすのよいち)とは、どんな人物でしょう。
彼は平安時代末期の武将・御家人で、系図上は那須氏二代当主と伝えられています。一般的に宗隆と紹介されることも多いのですが、家督を相続した後は資隆と名乗ったと伝えられています。
那須与一が記されている史料は「平家物語」や「源平盛衰記」にあり、「平家物語」の記述から逆算すると、嘉応元年(1169年)頃、那須資隆の子として誕生したのではないかと思われ、誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されています。
与一は十一男なのですが、十郎為隆を除く9人の兄たちが平氏に味方し、唯一源氏についた十郎為鷹も後に罪を負ったため、那須家の家督を継ぐこととなりました。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされます。
ちなみに「与一」という名は、十あまる一という意味で、十一男を示す通称なのです。
彼は平安時代末期の武将・御家人で、系図上は那須氏二代当主と伝えられています。一般的に宗隆と紹介されることも多いのですが、家督を相続した後は資隆と名乗ったと伝えられています。
那須与一が記されている史料は「平家物語」や「源平盛衰記」にあり、「平家物語」の記述から逆算すると、嘉応元年(1169年)頃、那須資隆の子として誕生したのではないかと思われ、誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されています。
与一は十一男なのですが、十郎為隆を除く9人の兄たちが平氏に味方し、唯一源氏についた十郎為鷹も後に罪を負ったため、那須家の家督を継ぐこととなりました。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされます。
ちなみに「与一」という名は、十あまる一という意味で、十一男を示す通称なのです。
与一がキーパーソン
北崎拓の「ますらお ―秘本義経記―」をご存じでしょうか。週刊少年サンデーの1994年14号から1996年3・4合併号にかけて連載された歴史漫画です。
この漫画、タイトル通り源義経を主人公とした歴史漫画で、源義経が遮那王と呼ばれ、幽閉の地である鞍馬寺から逃げ出そうと苦闘する幼少時から、一の谷の合戦(と義経軍の京への凱旋)までが描かれています。
その後18年間中断したのですが、ヤングキングアワーズにて2014年2月号から同年6月号までに「大姫哀想歌」が連載されました。この時は、源頼朝の娘で義経の姪である大姫の回想という形で、源義高と大姫の悲恋にからめて、義経の鎌倉滞在時代から宇治川の合戦、さらにその行く末までを前作と別の角度からたどって描かれています。
そして、週刊少年サンデー掲載分の続編としてヤングキングアワーの2015年2月号から2022年1月号までに「波弦、屋島」が掲載されました。那須与一に焦点を当て、その生い立ちから源義経主従との出会い、合戦まで描いています。
この漫画、タイトル通り源義経を主人公とした歴史漫画で、源義経が遮那王と呼ばれ、幽閉の地である鞍馬寺から逃げ出そうと苦闘する幼少時から、一の谷の合戦(と義経軍の京への凱旋)までが描かれています。
その後18年間中断したのですが、ヤングキングアワーズにて2014年2月号から同年6月号までに「大姫哀想歌」が連載されました。この時は、源頼朝の娘で義経の姪である大姫の回想という形で、源義高と大姫の悲恋にからめて、義経の鎌倉滞在時代から宇治川の合戦、さらにその行く末までを前作と別の角度からたどって描かれています。
そして、週刊少年サンデー掲載分の続編としてヤングキングアワーの2015年2月号から2022年1月号までに「波弦、屋島」が掲載されました。那須与一に焦点を当て、その生い立ちから源義経主従との出会い、合戦まで描いています。
おしまいに
「ますらお」を紹介しましが、他にも平野耕太の「ドリフターズ」がヤングキングアワーズにて2009年6月号から連載中です。「ドリフターズ」は、古今東西の英雄が、中世ファンタジー風の異世界に召喚されるアクション系歴史ファンタジーです。この中で那須与一もドリフターズ(漂流者)の一人として登場しますよ。
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