80年代後半に勃発した「ドライ戦争」って覚えてますか?
我々の日々の仕事の疲れを癒してくれる「ビール」。居酒屋で「とりあえず生」と注文する人も多いかと思いますが、バブル真っ只中の80年代後半に、大手ビールメーカーがこぞって「ドライビール」を発売し、仁義なきシェア争いを繰り広げたのを覚えていますでしょうか?この記事では「ドライ戦争(ドライビール戦争)」と呼ばれる、当時の状況について掘り下げてみたいと思います。
戦争のきっかけとなったアサヒ「スーパードライ」
80年代半ば、最大手のビールメーカー・キリンビールはそのシェアを50%に拡大させ、キリン一強状態を維持していました。その一方、低迷を強いられていたのはアサヒビールです。キリン、サッポロビールに次ぐ業界第3位ではあったものの、シェアは10%を割る状況だったアサヒ。そんな状況を打破するために企画されたのが「辛口のビール」というものでした。これは、当時の消費者がビールにコクやキレを求めているという市場調査によって開発された「アサヒ生ビール(コクキレビールと呼ばれた)」がヒットしたことから、その発展型として「辛口」を前面に押し出したらどうか、という意見が出たためです。
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そして、麦芽の割合を低くし、アルコール度数を上げることで辛口のビールの開発に成功したアサヒ。日本酒やワインでは一般的な辛口という概念ですが、当時のビールには存在しませんでした。そのため、経営陣としては辛口を前面に押し出すことに懸念の声もあったと言います。しかしながら、当時の若手社員による「辛口」「ドライ(英語で辛口の意)」という名称で売り出したいという熱意に押され、1987年3月、「アサヒスーパードライ」が発売されることとなりました。その瓶・缶には「KARAKUCHI(辛口)」の文字があしらわれ、今までにない全く新しい概念のビールとして、世に送り出されたのです。
落合信彦 アサヒスーパードライ CM 1988年
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異例の大ヒットにより「ドライ戦争」が勃発!!
当初は首都圏限定で100万ケースだけ出荷されたスーパードライ。容易に撤退が可能な出荷本数に留めるという、手探り状態でスタートしたスーパードライですが、「今までとは全く違うビールが出た」と瞬く間に評判となり、アサヒの社員に「飲むな」という命令が下るほどの品薄状態となりました。結局、発売初年度だけで1350万ケースを売り上げ、今までの発売初年度記録であったサントリー「モルツ」の200万ケースを大幅更新するという快挙を成し遂げます。これにより一躍脚光を浴びることとなったアサヒ。他社がこの状況を黙って見ている訳がありませんでした。
キリンが「キリンドライ」を発売!
まず最初に名乗りを上げたのは、業界最大手のキリン。1988年2月22日に「キリンドライ」を発売し、鈴木雅之の「Dry dry~♪」が印象的なCMで攻勢をかけました。また、麦芽100%のオールモルト生ドライビールである「キリンモルトドライ」を展開するなど、積極的にドライビールへの参入を行ったものの、アサヒスーパードライの独走を止めるには至りませんでした。
キリンドライビールCM ジーン・ハックマン
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サッポロも同時期に「サッポロドライ」を発売!
そして1988年2月26日には、業界第2位のサッポロも「サッポロドライ」の販売を開始しました。歌手の吉田拓郎や西武ライオンズの元監督・広岡達朗らを起用したCMで話題となったサッポロドライですが、元来のサッポロビールのファンからの支持が得られず、またドライビールとしての需要をスーパードライから奪うことも出来ず、短期間で撤退を余儀なくされています。
懐かしのCMサッポロビール編vol 2
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サントリーはマイクタイソンで勝負!
サントリーも、上述の2社と同時期の1988年2月23日に「サントリードライ」を発売。更なる辛口を追求したアルコール度数5.5%の「サントリードライ5.5」や、当時一世を風靡していたボクサー、マイク・タイソンのCMで攻勢をかけたものの、アサヒスーパードライの足元にも及ばない結果となり、撤退を余儀なくされました。