テンション 1992年 - YouTube
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ブラザートム
ドラマ「エンジェルハート」でのファルコン役も印象的だったブラザートムも元芸人。
「WON'T BE LONG」の大ヒットで、アーチストとしては有名ですが、芸人でもあったとは!多彩すぎです。
「WON'T BE LONG」の大ヒットで、アーチストとしては有名ですが、芸人でもあったとは!多彩すぎです。
1980年、当時所属していたバンドの宣伝のため、日本テレビの『お笑いスター誕生!!』に出演。当初、別のバンドメンバーとコンビで出演する予定だったが、相方が拒否したため、1人での出演となった。小柳(栁)トムの名で出演し、警察官「小柳巡査」を演じる『お巡りさんコント』を披露。10週勝ち抜き、5人目のグランプリとなった。こうしてコメディアンとしての活動を始めた。この頃、「こち亀」の巻末解説も「お巡りさんコントの人」として執筆している(17巻)。なお、現在でも新作コントを月一本のペースで作りネタを書いた台本を共演者やお笑いタレントに見せて笑わせており、2002年と2003年にはコントライブ「小柳トムの吉田」、「たった一人で出来ること」を開催している。
懐かしい お笑い まとめ? - YouTube
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泉ピン子
「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」など代表作も多い国民的女優の泉ピン子も70年代~80年代にかけて芸人でした。
若い頃から迫力は今と変わらないです。。。
若い頃から迫力は今と変わらないです。。。
日本音楽高等学校中退後の1966年、牧伸二に師事し三門 マリ子(みかど まりこ)の芸名で歌謡漫談家としてデビューするがキャバレー回りが続く。その後、1975年に日本テレビ『テレビ3面記事 ウィークエンダー』の番組リポーターを担当したのを機に泉ピン子と改名。『ウィークエンダー』は出演者に欠員が生じたところ、その話しぶりの面白さに目を付けられて起用された。なお、この番組で初めてのレポートは豚のセックスであり(本人は「牛のオッパイも嫌なほど可憐な女の子だった」と言っていた)、以後もゲイバー、ストリップなどレポート内容が下ネタ中心になっていた時も一時期あったことから、新日本婦人の会が選ぶ「ワーストタレント1位」に選ばれたこともあった。
泉ピン子のお作法教室 石川さゆり他1975.1 - YouTube
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石倉三郎
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刑事ドラマなどで渋い演技を魅せている石倉三郎もレオナルド熊とコンビを組んでいたコント芸人。
1975年 チャップリンズを組み、演芸界に転向。日劇ミュージックホールでコント。
1976年 コントチャップリン結成。
1979年 レオナルド熊とラッキーパンチ結成もすぐ解散。一時期は、芸能界を引退、マザー牧場に勤務していた時期もあった。
1981年 レオナルド熊とコント・レオナルド結成(事実上の再結成)。
北島三郎
via topicks.jp
演歌界の超大御所、北島三郎もギター漫談を行う芸人だった。人々の心を打つ歌心は、若い頃の苦労がにじみ出ているのかもしれませんね。
1961年、ある日のレッスン前、船村から「今日から他の歌はいいからこの歌を歌え、この歌を勉強しろ。」と譜面を渡される。これが後に最初のヒット曲となった『なみだ船』だった。この年には既にレコーディングも行われ、その場で船村から紹介されたのが新栄プロダクションの社長、西川幸男だった[4]。また、この年にはギター漫才『ゲルピンちん太ぽん太』の“ぽん太”として漫才コンビでのステージも経験している。これは歌の師匠である船村がなかなかデビューのチャンスを得られない北島にステージ度胸をつけさせるため、自ら台本を書き、もう1人の弟子とコンビを組ませ、知り合いの興行師に頼みこんで仕込んだ事で、東北地方の1か月興業の前座芸人として機会を与えられたが3日ほどで「使い物にならない」と帰され、ギャラは一切もらえなかったという。ロカビリー全盛のこの頃、正統派の演歌・歌謡曲の新人はなかなか需要が無く、船村自身「あんなに(売り込みに)苦労した弟子は他にはいなかった。」と述べている。
いかがでしたでしょうか?やはり、今も演技派と呼ばれている人が多いような気がします。確実に、若い頃の芸人経験が活かされているのでしょうね。