第30回 実朝まつり 開催
2017年11月23日、神奈川県秦野市の田原ふるさと公園で《実朝まつり》が行われます。
via ja.wikipedia.org
秦野市観光協会を中心に行われるまつりは今回で第30回を迎えると同時に源実朝公の没後800年にともない記念事業が行われます。
今回は稚児武者行列や法典、雅楽や鼓笛の演奏のほか、けんちん汁のふるまいや先着1000名限定での記念手ぬぐいプレゼントが企画されています。
今回は稚児武者行列や法典、雅楽や鼓笛の演奏のほか、けんちん汁のふるまいや先着1000名限定での記念手ぬぐいプレゼントが企画されています。
教科書でおなじみ! 実朝公
かつては1192年成立とされ《いい国(1192)つくろう鎌倉幕府》として語呂合わせ界で抜群の知名度を誇り続けていた鎌倉幕府。
だがその治世は成立までの過程――源平合戦や義経討伐譚――に比べると〝あまりにも地味であり、その割に複雑〟である。
せっかくなのでかるく触れてみよう。
だがその治世は成立までの過程――源平合戦や義経討伐譚――に比べると〝あまりにも地味であり、その割に複雑〟である。
せっかくなのでかるく触れてみよう。
via ja.wikipedia.org
歴史の話なので諸説あるが、現在のところ「日本で最古の武家政権は《平氏政権》」という研究が多いようである。
具体的に言うと平清盛先生とそのご親戚一同である。
ドラマを見ていても妙に甲冑姿のシーンが多い気もするが、これは源平合戦のせいかもしれない。
やがて平氏勢力は源頼朝や源義経の活躍によって滅亡させられる。
どうしてそんな存亡をかけた戦いになったのかは色々な理由(平治の乱とか)があるのだが、このあたりに触れていると流石に長くなるので割愛する。
1192年に征夷大将軍に任じられ、幕府を開設してから7年後の1199年。
どうも体調を崩していたらしい源頼朝は、出家した2日後に死去した。享年53。
これよりは教科書だけではあまり追えない歴史が現れてくる。すなわち2代将軍源義家の時代である。
具体的に言うと平清盛先生とそのご親戚一同である。
ドラマを見ていても妙に甲冑姿のシーンが多い気もするが、これは源平合戦のせいかもしれない。
やがて平氏勢力は源頼朝や源義経の活躍によって滅亡させられる。
どうしてそんな存亡をかけた戦いになったのかは色々な理由(平治の乱とか)があるのだが、このあたりに触れていると流石に長くなるので割愛する。
1192年に征夷大将軍に任じられ、幕府を開設してから7年後の1199年。
どうも体調を崩していたらしい源頼朝は、出家した2日後に死去した。享年53。
これよりは教科書だけではあまり追えない歴史が現れてくる。すなわち2代将軍源義家の時代である。
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源頼家は1182年生まれである。父である頼朝の死にともなった家督を相続した時点で18歳。
鎌倉幕府は将軍の権威や政治権力の制御などが十全ではなかったため、ここで数人の高名な家臣が合議制によって頼家を補佐する体制をとる。
やがて準備が整い1202年に征夷大将軍となる。これで名実ともに鎌倉幕府の2代将軍源頼家となったわけである。
が、翌1203年。なんと「頼家が亡くなったので、頼家の弟に将軍職を渡してください」という要請が幕府から京都に届く。
この時、頼家は急病による危篤状態ではあったもののあまりにも早とちりした行動であった。
これは偶然ではなく、策謀である。
この報せが往来している間に鎌倉の重臣・北条時政は頼家の重臣・比企一族を滅ぼした。
頼家は回復してこれらに激怒したが、すでに彼に味方する力ある者はいなかった。
1204年、入浴中に襲撃され没する。享年23。
独断専行が目立っていたというが、武芸によく通じた武人的人物であったという。
鎌倉幕府は将軍の権威や政治権力の制御などが十全ではなかったため、ここで数人の高名な家臣が合議制によって頼家を補佐する体制をとる。
やがて準備が整い1202年に征夷大将軍となる。これで名実ともに鎌倉幕府の2代将軍源頼家となったわけである。
が、翌1203年。なんと「頼家が亡くなったので、頼家の弟に将軍職を渡してください」という要請が幕府から京都に届く。
この時、頼家は急病による危篤状態ではあったもののあまりにも早とちりした行動であった。
これは偶然ではなく、策謀である。
この報せが往来している間に鎌倉の重臣・北条時政は頼家の重臣・比企一族を滅ぼした。
頼家は回復してこれらに激怒したが、すでに彼に味方する力ある者はいなかった。
1204年、入浴中に襲撃され没する。享年23。
独断専行が目立っていたというが、武芸によく通じた武人的人物であったという。
やっと実朝の時代に入る。
と言っても、その治世もまた短い。実朝は1192年に生まれ、亡くなったのは1219年。27年の生涯である。
征夷大将軍に任じられたのは1203年のことであったが、朝廷の官位としては従五位下。エリートではあるがまだまだ入社したて。
それでもがんばって昇進を重ね1218年には《武士としては初めての右大臣》という地位にまで達する。
前人未踏の領域に入った翌年。実朝は、雪の積もった八幡宮で僧侶に襲撃され命を落とした。
襲撃者の名は公暁。2代将軍、源頼家の子供であった。
実朝を襲ったとき彼は、親の仇を討つぞ、と叫んだという。
というわけで〝教科書に載せるにはあまりにも複雑で重い話〟略して〝源実朝の話〟のコーナーでした。
主と家臣そして家臣と家臣の関係を考慮するとなかなか楽しめるのが鎌倉幕府というコンテンツですので、実朝まつりをきっかけに鎌倉ユーザーが増えるといいなあと思っています。
と言っても、その治世もまた短い。実朝は1192年に生まれ、亡くなったのは1219年。27年の生涯である。
征夷大将軍に任じられたのは1203年のことであったが、朝廷の官位としては従五位下。エリートではあるがまだまだ入社したて。
それでもがんばって昇進を重ね1218年には《武士としては初めての右大臣》という地位にまで達する。
前人未踏の領域に入った翌年。実朝は、雪の積もった八幡宮で僧侶に襲撃され命を落とした。
襲撃者の名は公暁。2代将軍、源頼家の子供であった。
実朝を襲ったとき彼は、親の仇を討つぞ、と叫んだという。
というわけで〝教科書に載せるにはあまりにも複雑で重い話〟略して〝源実朝の話〟のコーナーでした。
主と家臣そして家臣と家臣の関係を考慮するとなかなか楽しめるのが鎌倉幕府というコンテンツですので、実朝まつりをきっかけに鎌倉ユーザーが増えるといいなあと思っています。
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