via pixabay.com
そんな24歳、超ピュアで超ムッツリな藤原光博は、パン屋の女性の1人と人生初のデートへ。
まず母校、桃山学院大学の学園祭へ行き、その後、親の車で堺の街をドライブ。
車がラブホテルエリアに入ったとき、冗談で
「入ろか」
というと
「うん」
まさかの返答だったが。、
(聞き返して心変わりされると困る!)
と思い、ドキドキしながら無言で車をホテルへ入れた。
建物の中に入り、部屋に行くまでの間、初めて女性の手を握り、部屋の中で初めてキス。
すべてが初体験だったが、AVで観てきたすべてをやろうと、、
「駅弁もヤった」
しかしフィニッシュすることはできなかった。
「ずっと手でやってたから、手の感触と違うからやろな、最後までイカなかった。
それもあるしどっかで気ぃ遣ってた。
集中できなかった
つき合ってないのにヤッていいかな?って」
まず母校、桃山学院大学の学園祭へ行き、その後、親の車で堺の街をドライブ。
車がラブホテルエリアに入ったとき、冗談で
「入ろか」
というと
「うん」
まさかの返答だったが。、
(聞き返して心変わりされると困る!)
と思い、ドキドキしながら無言で車をホテルへ入れた。
建物の中に入り、部屋に行くまでの間、初めて女性の手を握り、部屋の中で初めてキス。
すべてが初体験だったが、AVで観てきたすべてをやろうと、、
「駅弁もヤった」
しかしフィニッシュすることはできなかった。
「ずっと手でやってたから、手の感触と違うからやろな、最後までイカなかった。
それもあるしどっかで気ぃ遣ってた。
集中できなかった
つき合ってないのにヤッていいかな?って」
via pixabay.com
好きではない女性に童貞を捧げ、
「ヤッてしもうた」
と後悔したが、翌日、「圭・修(清水圭、和泉修)」がつくった劇団の芝居の稽古があり、満面の笑みで
「昨日ヤッたんや」
と報告。
今田耕司に
「おめでとー。
もうチェリーさんっていわれへんな」
といわれ、みんなから拍手された。
藤原光博は水野透にだけ
「最後までイかへんかってん」
と打ち明けた。
すると肩を叩かれ、
「1番最初でなにもかもうまくいく男はおらへんで」
といわれ、
(カッコイイ!!)
と感動。
この後、藤原光博は、女性と交際し続け、
「3回目のエッチの後で一緒にお風呂入って彼女がシャンプーしてる後ろから背中にオシッコかけた」
しかも最終的にパン屋の女性の2人ともとヤッてしまった。
「ヤッてしもうた」
と後悔したが、翌日、「圭・修(清水圭、和泉修)」がつくった劇団の芝居の稽古があり、満面の笑みで
「昨日ヤッたんや」
と報告。
今田耕司に
「おめでとー。
もうチェリーさんっていわれへんな」
といわれ、みんなから拍手された。
藤原光博は水野透にだけ
「最後までイかへんかってん」
と打ち明けた。
すると肩を叩かれ、
「1番最初でなにもかもうまくいく男はおらへんで」
といわれ、
(カッコイイ!!)
と感動。
この後、藤原光博は、女性と交際し続け、
「3回目のエッチの後で一緒にお風呂入って彼女がシャンプーしてる後ろから背中にオシッコかけた」
しかも最終的にパン屋の女性の2人ともとヤッてしまった。
via pixabay.com
1986年5月、客席数146の劇場「心斎橋2丁目劇場」がオープン。
オープニングは、ダウンタウン主演の「心斎橋筋2丁目劇場物語」
2日目は、「憂歌団 2丁目ザ・ライブショー」
3日目は、明石家さんま主演の芝居「SAMMA劇団」
6月 「「2丁目探検隊」」がスタート。
ダウンタウン、ハイヒール、圭修、今田耕司、東野幸治、130R、非常階段、まるむし商店、岡けんた・ゆうた、そしてリットン調査団らが活躍。
1987年4月 ダウンタウン司会の公開生放送番組「4時ですよ~だ!」が始まると心斎橋2丁目劇場は大盛況。
12月 登竜門イベント「2丁目JRたんけんたい」がスタートし、吉田ヒロ、木村祐一、亀山房代、山崎邦正、辻本茂雄、島田珠代、藤井輝雄らが活躍。
そんな中、リットン調査団は、今宮戎神社こどもえびすマンザイ新人コンクールで「こども賞」を受賞。
それは上から3番目の賞で、3年後にナインティナインが受賞した。
心斎橋2丁目劇場では、板尾創路、蔵野孝洋、今田耕司、東野幸治など年下の同期とは楽しくやっていたが、年下の先輩であるダウンタウンの楽屋からは、いつも浜田雅功の叫び声や女性スタッフーの悲鳴、そして松本人志の笑い声が聞こえてきて
「とにかくこわくて近づけなかった」
あるとき藤原光博は、裸芸を披露してジャンプして天井のパイプで頭を強打。
浜田雅功は、床に横になって悶絶している藤原光博をガムテープでグルグル巻きにして舞台に引きずっていった。
心斎橋2丁目劇場は、ほとんどの客が女子中高生。
開演時間になり、緞帳が上がると舞台の隅にガムテープを巻かれた裸の男がいて悲鳴が上がったが、ダウンタウンは淡々とオープニングトーク。
藤原光博は、全裸で横たわっていたときより、その後、服を着てネタをやったときのほうが恥ずかしかった。
番組が終わった後、ときどき反省会が行われ、板尾創路、蔵野孝洋、今田耕司、東野幸治らはスタッフや作家からネタについて批評やアドバイスを受けたが、水野透だけ
「おいっ水野、お前顔変えろ!」
「お前、華ないねん」
といわれた。
反省会が終わった後、ブサイク芸人である蔵野孝洋に
「気にしなや」
と励まされたが、翌日、散髪に行った。
オープニングは、ダウンタウン主演の「心斎橋筋2丁目劇場物語」
2日目は、「憂歌団 2丁目ザ・ライブショー」
3日目は、明石家さんま主演の芝居「SAMMA劇団」
6月 「「2丁目探検隊」」がスタート。
ダウンタウン、ハイヒール、圭修、今田耕司、東野幸治、130R、非常階段、まるむし商店、岡けんた・ゆうた、そしてリットン調査団らが活躍。
1987年4月 ダウンタウン司会の公開生放送番組「4時ですよ~だ!」が始まると心斎橋2丁目劇場は大盛況。
12月 登竜門イベント「2丁目JRたんけんたい」がスタートし、吉田ヒロ、木村祐一、亀山房代、山崎邦正、辻本茂雄、島田珠代、藤井輝雄らが活躍。
そんな中、リットン調査団は、今宮戎神社こどもえびすマンザイ新人コンクールで「こども賞」を受賞。
それは上から3番目の賞で、3年後にナインティナインが受賞した。
心斎橋2丁目劇場では、板尾創路、蔵野孝洋、今田耕司、東野幸治など年下の同期とは楽しくやっていたが、年下の先輩であるダウンタウンの楽屋からは、いつも浜田雅功の叫び声や女性スタッフーの悲鳴、そして松本人志の笑い声が聞こえてきて
「とにかくこわくて近づけなかった」
あるとき藤原光博は、裸芸を披露してジャンプして天井のパイプで頭を強打。
浜田雅功は、床に横になって悶絶している藤原光博をガムテープでグルグル巻きにして舞台に引きずっていった。
心斎橋2丁目劇場は、ほとんどの客が女子中高生。
開演時間になり、緞帳が上がると舞台の隅にガムテープを巻かれた裸の男がいて悲鳴が上がったが、ダウンタウンは淡々とオープニングトーク。
藤原光博は、全裸で横たわっていたときより、その後、服を着てネタをやったときのほうが恥ずかしかった。
番組が終わった後、ときどき反省会が行われ、板尾創路、蔵野孝洋、今田耕司、東野幸治らはスタッフや作家からネタについて批評やアドバイスを受けたが、水野透だけ
「おいっ水野、お前顔変えろ!」
「お前、華ないねん」
といわれた。
反省会が終わった後、ブサイク芸人である蔵野孝洋に
「気にしなや」
と励まされたが、翌日、散髪に行った。
via pixabay.com
ほとんどの客がダウンタウン目当ての女子中高生という心斎橋2丁目劇場で、リットン調査団は、
「坊さんが屁をこいた」
をミュージカル風に歌って踊ったり、チョンマゲのかつらをかぶって
「♪チョンマゲつけたらヨーロレイヒ~♫」
と歌ったり、プロレス、アニメ、下ネタを盛り込んだコントで客席をシーンとさせた。
『NHKは何の略?』
と聞かれたら
「内臓、破裂、気分」
と答え、
『好きな街は?』
と聞かれれば
「ワイヨミング州」
『尊敬している芸人は?』
「ザ・アベックホームラン師匠」
『何で売れないと思いますか?』
「プロデューサーと寝てないから」
『今後のスタンスは?』
「福井俊雄次第」
という水野透は、
「オモロイことをいうてるはずなんですけど、そもそも女子高生の口には合わない料理ですから誰も手をつけない。
なのでアクセントとして、少しずつ女子高生も好きそうなところをちょっとずつエッセンスとして入れたりもしたんです。
なんとか、ネタを見続けてもらうために。
でも結果的に、そのエッセンスのところだけホジくって、みてもらいたい本体の料理は手つかず。
そんな毎日でした」
と試行錯誤。
via pixabay.com
一方、
『今後のスタンスは?』
と聞かれると
「未来はわからん、今や」
と答える藤原光博は、芸人になってすぐに
「自分の才能のなさにビックリした」
「向いてない」
と思ったという。
心斎橋筋2丁目劇場を立ち上げた大﨑洋(後の吉本興業会長)に
「スベッたらお前らの来るとこちゃうから来週から来んでエエ」
といわれたり、水野透に
「ネタ飛ばした」
「噛んだ」
などとよく怒られ、出番の数日前から緊張で下痢になったが
「打ち上げでの飲む生ビールの1口目、こんな美味いもんない」
『今後のスタンスは?』
と聞かれると
「未来はわからん、今や」
と答える藤原光博は、芸人になってすぐに
「自分の才能のなさにビックリした」
「向いてない」
と思ったという。
心斎橋筋2丁目劇場を立ち上げた大﨑洋(後の吉本興業会長)に
「スベッたらお前らの来るとこちゃうから来週から来んでエエ」
といわれたり、水野透に
「ネタ飛ばした」
「噛んだ」
などとよく怒られ、出番の数日前から緊張で下痢になったが
「打ち上げでの飲む生ビールの1口目、こんな美味いもんない」
via pixabay.com
しかしある日の生放送中、事件が起こった。
リットン調査団がコントをしているとき、客席から
東野幸治や「おもんない」
というヤジが飛んだ。
一瞬、変な空気になったが、リットン調査団はコントを続行。
すると別の客席から
「帰れ!」
というヤジ。
さらに
「キショイ」
これが呼び水になって
「おもんない」
「帰れ」
「キショイ」
の大合唱。
水野透は、
「ネタしてる芸人に帰れはないやろ
お前らの子宮食べたろか」
と応戦。
すると合唱はパワーアップし、ジーパンにチェック柄のシャツ、銀縁メガネの藤原光博は
「俺らで笑わんでエエから黙ってて」
といったが、コントを続けることはできず、舞台から降りた。
リットン調査団がコントをしているとき、客席から
東野幸治や「おもんない」
というヤジが飛んだ。
一瞬、変な空気になったが、リットン調査団はコントを続行。
すると別の客席から
「帰れ!」
というヤジ。
さらに
「キショイ」
これが呼び水になって
「おもんない」
「帰れ」
「キショイ」
の大合唱。
水野透は、
「ネタしてる芸人に帰れはないやろ
お前らの子宮食べたろか」
と応戦。
すると合唱はパワーアップし、ジーパンにチェック柄のシャツ、銀縁メガネの藤原光博は
「俺らで笑わんでエエから黙ってて」
といったが、コントを続けることはできず、舞台から降りた。

via www.amazon.co.jp
「客が笑おうが笑うまいが自分たちが面白いと思うネタをやる」
という水野透。
「人生が10回あっても100回あっても芸人になりたいし、もう1回吉本に入りたい」
という藤原光博。
そんなリットン調査団のカルト的コントは、万人ウケはしないものの、男性や芸人仲間、そして少数ながら女性にも熱烈に愛された。
お笑いという正解のない世界の中で
「自分がやりたいことをやる」
「ウケないことがわかっていても全力でやりたいことをやる」
というリットン調査団は、ダウンタウンからも
「リットンは、やっぱり面白い」
といわれたが全然売れず、バッファロー吾郎、ケンドーコバヤシ、野生爆弾、レイザーラモン、笑い飯、千鳥、友近、山里亮太、ネゴシックス、天津、中山功太、ハリウッドザコシショウなどたくさんの後輩芸人に慕われながら、追い抜かれていった。
という水野透。
「人生が10回あっても100回あっても芸人になりたいし、もう1回吉本に入りたい」
という藤原光博。
そんなリットン調査団のカルト的コントは、万人ウケはしないものの、男性や芸人仲間、そして少数ながら女性にも熱烈に愛された。
お笑いという正解のない世界の中で
「自分がやりたいことをやる」
「ウケないことがわかっていても全力でやりたいことをやる」
というリットン調査団は、ダウンタウンからも
「リットンは、やっぱり面白い」
といわれたが全然売れず、バッファロー吾郎、ケンドーコバヤシ、野生爆弾、レイザーラモン、笑い飯、千鳥、友近、山里亮太、ネゴシックス、天津、中山功太、ハリウッドザコシショウなどたくさんの後輩芸人に慕われながら、追い抜かれていった。
via pixabay.com
1990年、ダウンタウンが心斎橋2丁目劇場を卒業し、東京へ進出。
その後、劇場では、雨上がり決死隊、ナインティナイン、バッファロー吾郎、FUJIWARA、チュパチャップス、へびいちごらが活躍。
同時に今田耕司、東野幸治、板尾創路、蔵野孝洋、木村祐一などが東京に進出し「ごっつええ感じ」などに出演。
劇場出身者たちが全国に名を馳せる中、リットン調査団は、心斎橋筋2丁目劇場で活動し、深夜、2人一緒に写真の現像所でアルバイト。
仕事終わりの朝、空を見上げながら藤原光博が、
「またあのメンバーと一緒にやれたらエエな」
というと水野透は
「ハァーッ」
とタメ息。
その後、劇場では、雨上がり決死隊、ナインティナイン、バッファロー吾郎、FUJIWARA、チュパチャップス、へびいちごらが活躍。
同時に今田耕司、東野幸治、板尾創路、蔵野孝洋、木村祐一などが東京に進出し「ごっつええ感じ」などに出演。
劇場出身者たちが全国に名を馳せる中、リットン調査団は、心斎橋筋2丁目劇場で活動し、深夜、2人一緒に写真の現像所でアルバイト。
仕事終わりの朝、空を見上げながら藤原光博が、
「またあのメンバーと一緒にやれたらエエな」
というと水野透は
「ハァーッ」
とタメ息。
via pixabay.com
心斎橋筋2丁目劇場を中心にときどきテレビに出たり、営業の仕事していたが、やがて東京でレギュラー番組を1本持ち、渋谷公園通り劇場で「リットン寄席」をやったり、大晦日のカウントダウンイベントのMCをやるようになった。
東京のレギュラー番組とは、深夜バラエティ番組「かざあなダウンタウン」で、ダウンタウン、板尾創路、蔵野孝洋、今田耕司、東野幸治、木村祐一、山崎邦正らと共演。
若手芸人は各コーナーで身体を張って番組を盛り上げたが、最年長コンビのリットン調査団は、最もイジられ、特にお色気企画の際に輝きを放ち、浜田雅功に
「こいつらが活きるのはここやったんや」
といわしめた。
via pixabay.com
そんな状態で藤原光博は、
「レギュラーあるうちに東京行ったら1本(のレギュラー)が2本、3本、10本に増えるかもな」
と東京進出を進言。
しかし水野透は
「1本のためになんで行かなアカンねん」
と消極的だった。
「東京に住んだら、もっと仕事が入るんちゃうかな」
「大阪で実力つけてからや」
結局、藤原光博は強引に1人で東京へ。
すごく気が利き、すごく仕事ができる藤原光博は、アルバイトをすれば、すぐにシャッターの鍵を任されたり、社内報にまで載ったり、重役会議に呼ばれるなど、責任ある立場になり、
「お笑い以外は、何やっても成功する」
本来、2ヵ月かかる天理スタミナラーメンの奈良本店での修行を2週間で調理のノウハウをマスターし、天理スタミナラーメン東京1号店(高田馬場店)をオープンさせて独立。
「資金は知人から無担保で提供してもらった」
「お笑いの世界では金脈をつかめてないけど人脈だけはある」
と芸人の仕事よりも生き生きと語った。
「レギュラーあるうちに東京行ったら1本(のレギュラー)が2本、3本、10本に増えるかもな」
と東京進出を進言。
しかし水野透は
「1本のためになんで行かなアカンねん」
と消極的だった。
「東京に住んだら、もっと仕事が入るんちゃうかな」
「大阪で実力つけてからや」
結局、藤原光博は強引に1人で東京へ。
すごく気が利き、すごく仕事ができる藤原光博は、アルバイトをすれば、すぐにシャッターの鍵を任されたり、社内報にまで載ったり、重役会議に呼ばれるなど、責任ある立場になり、
「お笑い以外は、何やっても成功する」
本来、2ヵ月かかる天理スタミナラーメンの奈良本店での修行を2週間で調理のノウハウをマスターし、天理スタミナラーメン東京1号店(高田馬場店)をオープンさせて独立。
「資金は知人から無担保で提供してもらった」
「お笑いの世界では金脈をつかめてないけど人脈だけはある」
と芸人の仕事よりも生き生きと語った。