アカデミー賞史上最多の主演女優賞に輝いたキャサリン・ヘプバーンのよもやま話
2018年7月28日 更新

アカデミー賞史上最多の主演女優賞に輝いたキャサリン・ヘプバーンのよもやま話

私は今まで、1940年代後半から50・60年代のハリウッド映画黄金期に銀幕を賑わせた映画女優達について、何人かをピックアップしてきたが、この時代のハリウッド映画界の1頁を語る上で重要な女優を一人忘れていた。その女優がキャサリン・ヘプバーン、その人だ。

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キャサリン・ヘプバーンを知らない人のために!!

キャサリン・ヘプバーン

キャサリン・ヘプバーン

キャサリン・ホートン・ヘプバーン(Katharine Houghton Hepburn, 1907年5月12日 - 2003年6月29日)は、米国の女優。2017年現在、演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優。ノミネート数も、俳優としてはオスカー史上第2位の12回に上る。(最多ノミネート記録はメリル・ストリープの20回/2017年1月31日現在)

本名 キャサリン・ホートン・ヘプバーン(Katharine Houghton Hepburn)
生年月日 1907年5月12日
没年月日 2003年6月29日(96歳没)
出生地 米国コネチィカット州ハートフォード
死没地 米国コネティカット州オールドセイブルック
国籍 米国
職業 女優
ジャンル 映画、舞台
活動期間 1928年 - 1994年

オードリー・ヘプバーンとキャサリンは親戚??

よく、「キャサリン・ヘプバーンとオードリー・ヘプバーンは親戚なのか?」という質問を耳にする。同じヘプバーン(Hepburn)という姓を持ち、双方が大女優ということから、そうした質問が生まれるのだろうと思われる。
しかし、実際の所、親戚だったという文献をみていなし、本人同士も親戚だという発言もないのでおそらくは赤の他人だろう。
元々、ヘプバーン、ヘップバーン(Hepburn)という姓は、スコットランドに由来するそうだ。したがって、両方の先祖を辿って行けば、親戚だったという可能性があるかもしれないが・・・??。

日本にも佐藤、鈴木、高橋、等等、同姓が多いが、それならば、全員が親戚かというと決してそうではないのが一般的なように、西洋でも同様なのだ。良い例に西洋人で一番多い姓の中にスミス(Smith)があるが、私の周囲には3人ものスミス姓がいるにも拘わらず、すべて親戚関係はない。ましてや二人が白人で、各々米国人、イギリス人、もう一人が黒人で米国人ある。

キャサリンはさしずめ私の”ばあちゃん世代”だろう!!

1907年5月12日、コネチカット州ハートフォード (Hartford) で、著名な医師の父親と婦人参政権や産児制限運動に携わったていた母親の下、6人兄妹の長女として生れた。家庭はリベラルで進歩的な環境であったという。子供の頃はお転婆で、髪を短く切り、水泳やテニス、ゴルフに励んでいた。ゴルフは16歳の時に州のジュニア大会で準決勝まで進んだ腕前であった。
彼女が12歳の時にアマチュア劇団に入るなど、芝居好きであったキャサリンは、大学に入ってからも芝居に熱中していたという。
また13歳の時に、大の仲良しであった2歳年上の長男トムが亡くなる不幸に見舞われた。キャサリンが遺体の第一発見者で、朝、兄を起こしに部屋へ入ると、首を吊り、既に亡くなっていたという。数日前に、芸人が首に縄を巻くトリック・シーンを観劇しており、それを真似ての事故とも言われている。
1928年、心理学の学位を取得して大学を卒業したが、両親を説得して演劇の道へ進み、ボルチモアのストック劇団に入り、夏季公演でプロの役者としてデビュー。9月にはブロードウェイ・デビューも果たすことになった。同年12月、大学時代からの恋人であった Ludlow Ogden Smith (ボルチモアの名家の息子) と結婚するが、結婚後も女優業を続け、発声とバレエをそれぞれ一流の指導者の下で習い、役者としての基礎固めもした。(パトロンですかいな!?)
女戦士役のキャサリン・ヘプバーン(1932年)

女戦士役のキャサリン・ヘプバーン(1932年)

キャサリンは背丈があったので、こんな”アマゾネス”の井手達もさまになっているんでしょうね!!

1932年、ブロードウェイの舞台劇 「A Worrior's Husband 」での女戦士役で脚光を浴び、ハリウッドからオファーを受けたが、映画に興味のなかったキャサリンは、断るつもりで、舞台の1.5倍のギャラをふっかけたそうだ。しかしそれを製作会社であるRKO社が承諾したため、図らずも映画デビューとなったという。
ハリウッド黄金期、女優=ドレスという概念に縛られなかったキャサリンは、スーツにレースアップシューズの組み合わせが彼女のスタイルだった。
ファッションでもキャサリンは我が道を貫き、メンズのテーラードスーツを着たり、当時としては非常にカジュアルな着こなしを見せたりすることもしばしばだった。今では、彼女は元祖ジェンダーレス・アイコンとして称えられている。
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キャサリンは、ジョン・バリモア主演の 『愛の嗚咽』 (1932年) で銀幕デビューを果たし、3作目の『勝利の朝』 (1933年)で、彼女にとって第1回目のアカデミー賞主演女優賞を受賞してしまう。また、4作目の『若草物語』 (1933年/監督:ジョージ・キューカー) も大ヒットし、ベネチア国際映画祭女優賞を受賞した。

地方から出てきた女優志願の夢見がちな若い女性エバ・ラブレス(キャサリン・ヘプバーン)は、高名な舞台プロデューサーの事務所に乗り込んでねばるが相手にしてもらえない。
そこへ現われた劇作家が彼女をプロデューサー邸の華やかなパーティーへ誘う。
ほろ酔いかげんの彼女は「ロミオとジュリエット」のバルコニーの場を大熱演した。
プロデューサーも劇作家も彼女の素晴らしい才能の虜になってしまう。プロデューサーはつぎの芝居の主役女優をクビにしたため代役に悩んでいた。
劇作家は彼女を代役に強く推薦する。見事な成功を収めた彼女は“勝利の朝”を迎え、彼女の前には大女優への道が開ける・・・。
勝利の朝の一場面

勝利の朝の一場面

ヘプバーンの初アカデミー賞受賞作品で、後の作品のようなパンツ姿や脚線美は、この作品では、まだ発揮されていない。しかし、彼女の別の持味である、軽妙な語り口は、十分発揮され、魅力を放っている。映画はせいぜい1時間15分ぐらいだが、内容が濃いのか、一気に見てしまった感がした。
若草物語 《IVC BEST SELECTION》 [...

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1868年にオルコットが書いた「若草物語」(Littlie women) はその後全世界の少女たちに愛読され、過去4回映画化されている。私はそのうち2回目(1933年)、3回目(1949年)、4回目(1994年)の作品を見たが、内容はあまり記憶に残っていないのが事実である。このキャサリン・ヘプバーンが出演した物は2回目にあたり、また3回目の「若草物語」には、エリザベス・テイラーも出演している。
若草物語の一場面

若草物語の一場面

父を南北戦争にとられ、母一人に娘四人で家を守るマーチ一家の悲喜こもごもの春秋を、四人四様の成長と共に語っていく。次女ジョー(キャサリン・ヘプバーン)はお転婆で物語作りの名手、長女メグ(F・ディー)は反対に淑やかな良妻賢母型、三女ベス(G・パーカー)は音楽を愛し心優しい病弱な娘、四女エミー(J・ベネット)は気位の高い現実家で絵が上手。隣家の富豪の孫ローリーはジョーに恋するが、彼女はそれを振り切ってNYへ。下宿先が同じベア教授(P・ルーカス)は教養高いドイツ人。彼はそれまでの空想的なゴシック・ロマンから、魅力的な自分の身辺を小説に書くことを彼女に薦めた。そこへベスの危篤の知らせが……。急いで帰郷した彼女は今やエミーと結ばれたローリーと再会。皆に囲まれて喜びながらベスは逝った・・・。
女優としてスクリーンで早くに頭角を現し、オスカー女優となった彼女ではあるが、1930年中期頃より出演した作品があまりヒットせず、『フィラデルフィア物語』(1940年)が大ヒットする頃までは、ハリウッドの「ボックス・オフィス・ポイズン」(金にならないスター)として興行主からは特に嫌われていたようだ。また、私生活では1934年に Ludlow Ogden Smith と離婚し、ジョン・フォード監督やタレント・エージェントのリーランド・ヘイワードと浮名を流したこともあった。
フィラデルフィア物語 [DVD]

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1940年の「フィラデルフィア物語」は、前年ブロードウェイで幕を開けると、すぐに彼女自身が映画化権を取得し、MGMに持ちこんだという経緯があった作品であり、結婚前夜の上流階級の令嬢と、その前夫と雑誌記者による喜劇である。
出演者はキャサリン・ヘプバーン、ケーリー・グラント、ジェームズ・スチュワート、ジョン・ハワードなど、1940年(第13回)アカデミー賞でジェームズ・スチュワートが主演男優賞を受賞した。キャサリンはアカデミー賞主演女優賞にノミネート(3度目)され、映画女優として復活を成し遂げた。

The Philadelphia Story (HD) Trailer

フィラデルフィアの上流社会の令嬢トレイシー(キャサリン)はジョージ(ハワード)との結婚を目前に控えていた。それを知って、二年前に彼女の我がままとプライドの高さに耐えかねて出ていったデクスター(グラント)が、雑誌記者のコナー(スチュワート)とインブリ(ハッセイ)を連れてやって来る。実は邸の主人は浮気相手のところへ行っていて式にも呼ばれていない有様で、体面を重んじる一家は、記者の手前、何とか取り繕う。トレイシーに未練のあるデクスターは静かなる結婚妨害を試みるが……。ヘプバーンのコメディエンヌぶりも見逃せない。
1940年と言えば、歴史的に日本は戦争にひた走っている頃で、かつての古き良きアメリカは、日本にとっては自分達と比べ物にならない豪華な暮らしをしている(戦争なんかした所で、まず勝てるわけがない!!)超大国であることが、こういう映画を観ていると嫌味なくらい伝わってくる。コメディの割にあまり笑えないのは、やはり私たちの文化的ギャップでしょうか!?

スペンサー・トレイシーとの運命的な出逢い!!

女性NO.1 [DVD]

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1942年「女性No.1」という映画でスペンサー・トレイシー(Spencer Tracy)と初共演した。初めて撮影所で顔を合わせた際、キャサリンが「私より背が低いみたいね。」(キャサリンの身長は175cm程度)と漏らすと、スペンサーが「心配ない。僕の身長に合わせて君を切ってしまうから。」と答えたという(スペンサーは165センチ程度)。ハリウッドの男優が「ハンサムだが女性的すぎる」と物足りなさを感じていたキャサリンは、この荒々しい返答に逆に惹かれてしまったのだろう。以降、計9本を共にして公私に渡って親密な関係を続けることになった。
スペンサー・トレイシー

スペンサー・トレイシー

生年月日 1900年4月5日
没年月日 1967年6月10日(67歳没)
出生地 米国、ウィスコンシン州ミルウォーキー
国籍 米国
職業 俳優
ジャンル 映画、舞台
活動期間 1923年 - 1967年
配偶者 Louise Treadwell (1923-1967)

キャサリン・ヘプバーンとスペンサー・トレイシーは早い話、26年近く今で言う不倫関係を続けていたという。2人は互いが生きている間、関係を公表することはなく周囲も公然の秘密として2人の関係を表に出すことはなかった。今のようにパパラッチがウヨウヨしゴシップ優先とは違う、古き好きハリウッドだったんですね!!
『女性No.1』(1942)より

『女性No.1』(1942)より

トレイシーは既婚だったが、敬虔なカトリックで障害を持つ子供とその子を育てる妻のため離婚しなかったのだ。キャサリンはトレイシーの奥さんを尊重し、トレイシーと同棲はしていない。トレイシーが晩年体調を崩した時、キャサリンは看病のため仕事を休止し、トレイシーの最後まで看取ったのはキャサリンだったが、すぐにその場を去り、その後現れたトレイシーの妻子にお別れの時間を譲ったそうだ。彼の葬式もキャサリンはトレイシーの妻子に配慮して出席していないそうだ。何といじらしい行動であろうか!!
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