大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。
2017年3月28日 更新

大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。

「どんな人でも夢を持たない人間はいない。 夢は人間を前進させ、幸福にする。 唯、夢がその人を幸福にするかしないかは、その人の夢の実現に対する永続的な努力と情熱にかかっている。」

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「要するに相手は長い槍で来る。
こちらは短い短刀で戦うのだから接近戦を挑まなければだめだ。
日本人は接近戦は得意だ。
接近する間に相手を抜くということを考える。
そのことが重要なのです。
もう1つはマラソンが強いということから、ジャパニーズラガーマンは長い距離を走ることを練習して耐久力、持久力をつけることはできると思う。
その持久力を利用して走って走って走りまくって、次から次へ連続プレーをやっていって相手をへばらす。
そして相手の弱点を突いていく。
これが「展開・接近・連続」という戦法の中心となる考え方なのです。
フォワードは組んだらなるべく球を早く出す。
早く出したら展開をする。
スタートダッシュを早くして相手に近づいて、近づいたらすれ違いざまに何かやる。
そしてキックではなしにパスしてパスして、パスでどんどん進んでいく。
そしてパスを続けることで連続プレーを連続させていく。
それにはパスの技術が1番大切だ。
パスのやり方はこうだ。
ゆさぶりはこうしてゆさぶっていくのだ。
なるべく早くパスをするためにはこうだと、いろいろな技術をそれぞれのポジションごとに練習させて、ゆさぶりを中心とした日本のやり方を練習していったわけです。
外国チームが日本の攻め方についてよく批判することの1つは、日本の攻め方はすぐにわかる。
ここへきたらこうなる、ここへきたらこうしようということがすぐにわかるというのです。
だからこの点を考えていけば、日本は負けることはないというのです。
ところが僕たちからいわせると、身体のハンディがあって、それ以外に方法がないのです。
そこに日本チームの弱さがある。
戦法がある程度決まってしまってそれしか日本人にはできない。
それくらい身体的制約があった。
そこが日本人が外人と戦うときに非常に難しいところでしょう。
何しろ日本で1番難しいのは、国内で優勝しようと思うのと、外人と戦おうとするのでは、そこに作戦的なギャップがあること、勝負だけにこだわるなら、外人に勝つための戦法は、国内で積極的にはやれないという見方があるということでしょう。
例えば「展開・接近・連続」と僕はいうでしょう。
しかし「ゆさぶり」でいく作戦には二の足を踏む監督もいるでしょう。
積極的にバックスに回していくのは、ある意味、相手に逆襲される危険性を伴うのです。
またチームとしてゆさぶり戦法を熟知していなければなりません。
そればかりやっていたら日本では確実に勝っていけないというわけです。
その結果、とにかくキック中心で敵のゴール前まで攻め込みスクラムトライでの得点を狙う。
フォワード8人だけのラグビーと酷評されながらも、確実に勝っていくためにはその方法が良いなってしまう。
どんなにゆさぶり攻撃を練習しても、蹴ってゴール前で戦う単調な相手の作戦に耐えられなければ負けてしまう。
そのあたりが1番考えるところです。
やはりスクラムでパーッと押されてきたら、それに耐えるだけのスクラムをつくらないと、何ぼ走っていくんだといっても日本では負けてしまう。
外人選手は、ゴール前にきてスクラムトライを狙うこともありますが、それだけに執着したりしない。
サイドにもぐったり、バックスに回したりで、スクラムだけで相手をむちゃくちゃに押し潰すということはしない。
だからそういう点、日本でやるときには、日本人の押しに対してキチンと守れるだけのことをやっておかないと負けてしまうということが起こるのです。
一般的な傾向として、外人チームは、彼等の性格としてフォワード、バックスの連携に欠けている。
また個人プレーを尊重する風潮が強い。
逆に日本のラグビーは、英雄をつくらず、全員の協力こそ最高のプレーだと指導し続けてきた。
また連続プレーの根源は持久力であり、日本マラソンに見られるように、身体は小さくとも持久力をつけることは十分可能である。
彼等より強い持久力を作り、彼等より速く、長く走り、彼等のくずれた穴を作るならば、ゲームの主導権は握れるはずである。」

オールジャパンは、日本人選手の特徴を考えて、さまざまな戦法を編み出した。
背が低くてもラインアウトでボールが獲得できるショートラインアウト。
体重差があってもスクラムでマイボールが確保できるダイレクト・フッキング。
インサイド・センターからアウトサイド・センターにボールが回る瞬間、フルバックがライン参加してそのパスを受けるカンペイ。
体格差を乗り越えるための戦法としてさまざまな作戦を習熟させた。
「小さな者が大きな相手と戦うには何が必要か。
カンペイなんかで、アっという間に球を動かせた。
ラインアウトのスロワーは石田という小さな(163cm)選手で、彼は毎日、壁に向かって投げて、真っすぐに投げたら真っすぐに返ってくることを見つけ、狙った所へ寸分の狂いもなく投げ込めるようになった。」
石田は法大を出てからは、ラグビー部のない企業に就職し、孤独の練習を続けた。
壁に向かってスローイングの練習を繰り返した伝説の日本代表フランカーである。
坂田は速いだけではなく、パスをもらった瞬間、止まって即座に動き出す「イン・アンド・アウト」を、京都の街中でしばしば実験をした。
「歩いていて向こうから人が近づいてくる。
僕が急に止まると歩いてきた人も止まってしまう。
そういう習性が人間にはあるんです。」
(坂田)
大西鐡之祐の戦法を「展開、接近、連続」といわれていた。
パスをつないで展開し、相手とコンタクト後にボールを確保して再び・・・・・
だが坂田はこれにいささか違和感を感じていた。
「突破が抜けているのではないか?」と。
「実は大西さんの『展開、接近、連続』の中にも突破の要素はあったんですよ。
だけど私は『接近、突破、連続』ではないかと思っている。
スピードの変化によってどんな相手でも交わせる。
1人で交わせなければ、おとりを使って2人で突破すればいい。
大型化は必要でも、大切なのは日本人選手の特質を生かした戦い方、日本のラグビーを貫いて、たとえ負けても評価されるように、外国のチームが持っていない日本人しか出来ない技術を見せるのがラグビーではないかと思っている。」
(坂田)

衝撃のラグビー王国(ニュージーランド)遠征

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大西鐡之祐がオールlジャパンの統一を図り始めて2年過ぎた頃、ニュージーランドの大学協議会から親善試合のオファーが来た。
「まだちょっと早いと思ったけど、いっぺん行ってやろうじゃないか。
そしてこのやり方が外人チームに合うかどうか試してこようということになった。」
昭和43年5月、オールlジャパンはニュージーランドへ渡った。
日本ラグビー史上、初めて計画的に強化育成した大西監督率いる日本代表が、「世界と戦う日本ラグビー」を体現すべく行ったラグビー強国への初遠征。
勇んでラグビー王国ニュージーランドに乗り込んだものの、言葉も通じず、食事も合わず、慣れない生活がたたって力を出し切れず、第1戦からいきなり4連敗した。
修正練習をしようとしても、2名1組で民泊し、各家で手伝いをしながらの転戦のため、朝2時間の全体練習以外は時間を取れない。
追い討ちをかけるように、記録的な豪雨や、マグニチュード7の大地震に襲われた。
国土の大きさでは日本の方が大きいのに、人間のサイズはジャパンのほうがが小さかった。
最も大きな選手が185cm85kg。
フォワード8人の平均体重76kg。
フォワードの第1列で1番重い選手で78kg。
バックスは大半が170cm以下で、1番重い選手が73kgだった。
選手は職場や家族の理解があって実現した長期の遠征だけに、みんな「このままでは、日本に帰れない」と思い詰めていた。
メンバーの1人、小笠原はホームスティ先の家で
「日本に勝算はない」
といわれ
「いい死に場所ができた」
と奮い立ったという。
同じくメンバーの井沢は、まだ早稲田大学の3年生でチーム最年少だった。
まだ実績も経験も不足していると言われていた彼は、恐怖に近い気持ちがあったという。
「体力、技術において劣る日本人が相手に食い下がるためには、どうしても気合、気迫が欠けていては問題にならん。
友好を目的に我々はニュージーランドまでラグビーをしに来たんじゃない。
日本のラグビーが世界に通用することを試すんだ。
日本ラグビーの新しい歴史を切り拓くんだ。
そういって選手を叱咤激励しました。
そんなこというとハッタリとか精神主義とか思われるかもしらん。
だが戦法や技術をトコトン磨くだけで勝負に勝てるか。
それなしでは勝負にならんでしょう。
最後は勝ちたいという気持ちが強いほうが勝つというのもまた真理なのです。」
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昭和43年6月3日、第5戦はウェリントンのアスレチックパークラグビー場で行われた。
相手はこの遠征で最強のAll Blacks Jr.(オールブラックスジュニア)だった。
「ジュニア」こそついていたが、後に11人が世界最強の軍団:オールブラックス入りを果たす準代表チームである。
観客は16000人、うち50人が日本人だった。
その中には、船から日章旗をはずして持ってきた漁師、コンビーフ会社の技術者、鉄道技術者などもいた。
試合前、大西鐡之祐は選手にジャージを渡した。
「死ぬ気のねえ奴はジャージを返してくれてもいいから」
そして選手が一口ずつ回した水杯を床に叩きつけて粉々にした。
「日本ラグビーのために死んでくれ!」

All Japan vsNZ Universities

前半2分、オールブラックスジュニア、ペナルティゴールで0対3。
3分、日本のキックオフのボールをオールブラックスジュニアがとって、モールからパントキックで日本の背後に入れてトライ、0対8。
6分、日本はオールブラックスジュニア陣内でペナルティをとるがペナルティゴールを失敗。
7分、オールブラックスジュニア陣内の中央でスクラム。
日本が押したためにオールブラックスジュニアのバックスがオフサイド。
日本はペナルティキックを決めて3対8。
10分、オールブラックスジュニアの右オープン攻撃を日本バックスがタックルで阻止し、日本がこぼれ球を拾ってトライ、6対8。
17分、オールブラックスジュニア陣内で日本オープン攻撃からゴロキック。
オールブラックスジュニアがボールをハンブルしたボールを日本が拾ってトライ、11対8。
25分、日本はオールブラックスジュニア陣内隅のスクラムからオープン攻撃から縦に突いてトライ、14対8。
27分、オールブラックスジュニアがペナルティキック、14対11。
35分、オールブラックスジュニア陣内で日本ボールのスクラムからオープン攻撃、トライ、17対11。
後半16分、オールブラックスジュニアが自陣よりオープン攻撃からパントキック。
日本がハンブルし、それを拾ってトライ、17対16。
25分、日本はオールブラックスジュニア陣内で右にオープンしトライ、20対16。
30分、日本は中央ラインのラインアウトから左へオープン攻撃からトライ、23対16。
34分、日本陣内でオールブラックスジュニアが左へオープンしクロスプレーからトライ、23対19。
こうして試合終了し、オールジャパンは初勝利で大金星をあげた。
「ニュージーランドでは全部で10試合やりました。
試合前は相手はどんなチームかわかりませんでした。
日本にもニュージーランドのチームが来ていたので、だいたいニュージーランドはこういう戦い方をするということはわかっていましたが、それぞれのチームの詳しい特徴はわからない。
僕がいまやってる、展開・接近・連続というやり方が外人チームに合うかどうかわからない。
だから10戦同じやり方でやって、それが通じるかどうかテストするという作戦で行きました。
だから10戦とも1つもやり方を変えずに展開・接近・連続の戦法で押し切りました。
そして最初の5戦は負けましたが、6戦目からずっと勝って、オールブラックスジュニアというニュージーランド代表のオールブラックスの次に位置するチームに勝ってしまった。
だから日本の人はびっくりする。
向こうも日本から来たやつがこんなに勝ってとびっくりしたわけです。
もう1つ、その頃、ニュージーランドのアップ・アンド・アンダーというキックとフォワードラッシュを繰り返す作戦に対し、ニュージーランド本国でも疑問が出ていたのです。
そこに日本がやってきて、キックをあまり使わずなるべくパスを回していく展開のオープンプレーで勝ったものですから、向こうもこれこそ我々の目標とするラグビーだということになり非常にほめたたえてくれました。
オールブラックスジュニアというのはオールブラックスとやっても大接戦するようなチームですから、世界中もびっくりするし、日本でもあいつの言うことはだいたいわかってきたと評価されて認められたわけです。
これが僕のラグビーの歴史からいえば1つのエポックだったでしょう。
傑作だったのは、この試合の記録が残っていないのです。
実はリザーバーの島崎(文治)に8mmの撮影をやるようにいっていたのですが、島崎は途中から引き込まれてしまったらしい。
途中から撮影を放棄しまったらしい。
その8mmにはコンクリートばかりが映っている。
ブンジのとっては同じポジションの先輩である尾崎と横井のプレーを肉眼で見たかったのだろう。
そしてブンジが2人の後継者になるために、それでよかったと思っています。
ニュージーランド側はこの試合のビデオテープを持っているはずなんだ。
でも後に複数の日本の関係者が問い合わせても、そんなものはないと言われたり閲覧を拒否されている。
幻の試合となっているわけです。」

ラグビー母国(イングランド)の襲来

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昭和46年9月24日、ラグビー母国:イングランドが、ニュージーランド遠征でオールブラックスジュニアを破って、世界的な評価を得た日本を「ラグビー協会設立100周年を記念すべき相手」として選び、来日した。
イングランドの緒戦はオール早稲田戦だった
早稲田が、ゴロパントで1トライとった他はイングランドのなすがままだった。
翌日の朝刊のスポーツ欄には「早稲田ラグビー最悪の日」と書かれた。
その後、イングランドはジャパンと花園と秩父宮で2回対戦することになっていた。
オールジャパンはニュージーランド遠征から2年が過ぎていた。
その間、「展開・接近・連続」がさらに検討され、
1 まずボールをとること
2 ゲインライン突破に多彩なプレーを敢行すること
3 防御網を完備すること
4 漸進的な攻撃を加えること
が加味され、練習を重ねた。
またオールジャパンのフォワードは、平均180cm、80kgとかなり大型化が進んだ。
しかしそれでも対するイングランドのフォワードの平均は、188cm、96kgだった。
「攻撃は大胆不敵にやる。
防御は組織を崩さず、捨て身のタックルを敢行。
まず球をとらねば攻撃は不可能。
したがってフォワードは非常に危険性はありましたが、真正面から対決をして球をとることに専念せよと厳命したのです。
フォワードの平均体重1人当り16kgの差を考えればまことに過酷な命令であり1つの賭けでした。」
B l o g 和 の 菓 (1761684)

日英親善ラグビー第1戦、イングランドvsジャパン。
花園ラグビー場は、太陽光がカンカン降り、当時、まだ芝生ではなかったグラウンドは、土ぼこりが舞った。
試合は、イングランドが点を入れれば、すぐにジャパンが点を入れるという大接戦になった。
そして結局、19-27でノーサイド。
敗れたもののオールジャパンはラグビーの本場イングランドから2トライを奪った。
「第1戦はもう何も言うことはありませんでした。
それよりも疲労を回復し、緊張を解き解すことに専念した。
第2戦は必ずやるという気持ちがヒシヒシと選手たちの皮膚を突き破って感じられたからです。
細部の打ち合わせ慎重にやったけど、作戦の大網は変えていません。
ただ今回のイングランドの主な作戦は、第1戦の経験から次の4つだとわかったので、その対応策を充分研究しました。
1 スクラムサイド攻撃、とくに2回繰り返して攻めてバックスに球を送る
2 バックスはゲインラインを突破するためにクロスして中に切れ込んできてモールをつくり再度攻撃
3 キック・アンド・ラッシュ、とくにハーフで前に蹴りモールをつくる
4 キックで前進、ゴール前では体当たり戦法でトライをとる」
ラグビー場がのどかだった頃 小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)|コラム|RUGBY REPUBLIC(ラグビー共和国) (1760906)

昭和46年9月28日、日英親善ラグビー第2戦、大西鐵之祐監督率いるジャパン vs 大型フォワードを擁するイングランド。
秩父宮ラグビー場には、定員17500人のところ23000人が押しかけたため、グランド周囲の芝生にも観衆を入れれざるをえなかった。
(この超満員の教訓がきっかけとなり秩父宮ラグビー場は大改修が行われることになった。)
19時7分、ジャパンのキックオフ。
イングランドが激しく攻め、アッという間にジャパンのゴールライン前まで迫り、ボールを抱えて力まかせに突進した。
ロールスロイスがトップギアで走っているようだった。
3人ぐらいのジャパンがすがりつくが、ゴールラインへ体を預けるように倒れこんだ。
しかしノートライ。
その後もイングランドは攻め続け、ジャパンは守り続けた。
ジャパンのディフェンスはよく守り、イングランドの攻撃をバシバシ止めた。
しかし所詮それは自陣に攻め込まれての苦しい防戦だった。
18分、ジャパンのペナルティーに対し、イングランドは60ヤードの長いペナルティーゴールを決め先制、0-3。
その後、一進一退で点が入らない。
ジャパンのディフェンスにイングランドは左へ攻めた。
「バシッ!」
突き刺さるような音がして、ジャパンの選手がイングランドの大男をヘッドオンで抱え上げた。
「ピーッ!」
笛が鳴った。
ジャパンの選手はイングランド選手を投げ飛ばした。
「ウォオオオオ!」
と観衆がどよめいた。
35分、ジャパンのペナルティにイングランドがキックを決めて、0-6。
後半、イングランドはスクラムで有利なので、スクラムからサイド攻撃を繰り返す。
ジャパンはラインアウト、ラックで勝り、そこからのパスを継いでゆさぶりと突進、横と縦の動きで攻撃する。
31分、藤本からボールをもらった伊藤が機を突いてタッチラインを快走。
「トライか?」と思われたが、残り数ヤードというところでイングランド選手に押し出された。
32分、ジャパンは左のタッチラインアウトから、ゆさぶって宮田が中央突破、再び「トライか?」と思われたが、イングランド選手が長い腕を宮田の足を引っ掛け転倒させた。
33分、ジャパンは左へ展開、カンペイが決まり、「そこだ、ゴールだ、行け」というところで、笛が鳴った。
「ピーッ!」
レフリーはスローフォワード(反則)と判断した。
「ウオー」
「殺せー」
スタンドから怒りの声が沸き起こった。
「ピーッ!」
またペナルティの笛が鳴った。
しかし今度はイングランドの反則だった。
ジャパンはキックを選択した。

名キッカー 山口良治

蹴るのは、大ヒットドラマ「スクールウォーズ」のモデルとなった山口良治。
角度は約45度、距離は約30ヤード。
山口はジッとゴールのポールをにらんだ。
そして数歩下がって息を整えた。
秩父宮は息をひそめて見守った。
助走開始、
「ポンッ!」
蹴ったボールはグンと伸びて、ゴール成功、3-6。
大観衆の手拍子の波と歓声が大きくどよめく中、1トライ逆転のチャンスとなったジャパンは懸命にパス、キックを間断なく攻めまくった。
が、ノーサイド。
イングランドの選手が両手を空に突き上げた。
ジャパンの選手の顔も輝いていた。
大観衆の拍手がなりやまない。
両チームの選手が中央に集まってジャージ交換。
すると観客がスタンドから飛び降り出し、グラウンド内に座って観戦していた客も、選手めがけて走り彼らを取り巻くように集まった。
「グランドに入らないで下さい。」
というアナウンスは無視された。
「ワーッショイ、ワーッショイ」
選手をつかまえて胴上げが始まった。
ジャパン選手もイングランド選手も関係なく全員、宙に舞う。
肩に担がれてフィールドを1周する選手もいた。
イングランドのロジャースキャプテンは日本選手、イングランド選手の2名に肩車されて退場した。
止まることを知らない日本選手の胴上げにアナウンスが鳴った。
「選手は疲れておりますのでそろそろ解放してやって下さい。」
結局、大西鐵之祐監督率いるオールジャパンは、大型フォワードを擁するイングランドをノートライに抑え、許した得点は前半に成功させた2つのPG(ペナルティーゴール)のみ。
一方、日本は、右ウイングの伊藤忠幸やセンターの宮田浩二がイングランドゴールを脅かすも、イングランド人の長い手につかまりトライに至らず。
そしてドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルとなる山口良治が1PGを決め、3点差に詰め寄るが時間切れ。
3 -6でラグビー母国に日本が肉薄した歴史的な名勝負だった。
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