大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。
2017年3月28日 更新

大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。

「どんな人でも夢を持たない人間はいない。 夢は人間を前進させ、幸福にする。 唯、夢がその人を幸福にするかしないかは、その人の夢の実現に対する永続的な努力と情熱にかかっている。」

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実をいうと僕は学生を1人殺したんだ。

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「努力家の選手を教えるのは実に楽なのです。
その選手の課題を自覚させ、そのために練習させると、いつまでもやっている。
性格的にも素直で吸収が早い場合が多い。
だが数は少ないけど天才みたいな選手もいる。
天才みたいな人は本当に怖いですよ。
ある1つのことを理論的に、こういう風に練習したら、これはできるぞと言っただけで、普通の人ならまず2週間はかかると思っているのに3日か4日でやってのける。
教えていくとどんどんいろんなことを覚えていく。
だからあるところまでくると教えるものがなくなってしまう。
そういう人がいます。
そういう人が本当に才能のある、優秀な人なのですね。
個性的にちょっと変わった優秀な人がいると、チームプレーに影響があるという意見もありますが、逆に個性的な秀でた人がいるときは、それにどのように協力させるかということをほかの者に教えればいい。
強烈な個性をもっているやつはケンカするかもしれない。
天才プレーヤーみたいな人がいると、その人とほかの人がどうしても合わないという場合がある。
どちらかがうまく合わせてやるといいのですが、両方ともうまいものだから、両方とも生かそうとすると失敗するでしょう。
かえって火花を散らせて競争してもいいように思えるけど、うまくいかない場合が多いです。
だから名プレーヤーが2人いても、片方が追従してこれを生かしてやるように動いているということが多いですね
それぞれ選手の個性は秀でたほうを生かせるように協力させたほうがいいわけだ。
また同時にラグビーはチームプレーである。
そこのバランスをうまくとるというのは監督の力量だろうね。
本当は天才プレーヤーみたいな人がキャプテンになると大変困るのです。
キャプテンと監督と2人いるようになってしまう。
早稲田の歴史の中でもそういう時代がありました。
天才プレーヤーがいて、ほかの者の言うことを聞かない。
それで監督が非常に困ったということがあった。
選手がいくら練習しても行き詰まるときがある。
その時はやはり抜け道というか、それを打開する道を、これじゃないかと少しずつ与えて、それがわかるまで待つより仕方ないでしょう。
ところで技術的なことはわかるけど、プライベートな問題で、恋愛の問題とか、家との関係とか、会社がつぶれて家がだめになってしまうとか、そういう問題になってくると本当に困りますね。
この頃は少ないけれども、戦後のあるときなど、社会の変化と経済的な変動によって、いつ家がつぶれてしまうかわからない。
そういうのがたくさんいました。
家がつぶれてラグビーをやめるしかしようがないといった人には、OBのみんなから金を出させて援助して卒業させた人もいました。
実をいうと僕は学生を1人殺したんだ。
それは天才的な選手で、僕が教えたうちですごく伸びていったという意味ではまったく天才みたいな人だった。
早稲田の1年の秋のシーズンが終わったらAll関東の代表になるまでいったんです。
ところが1年でAll関東の代表になったときに粟粒結核になってしまって入院してしまった。
みんなで話して、絶対治るからといって、いろいろ励まして、その入院は1年間で、死線を超えて治って帰ってきた。」
自殺について | ショウペンハウエル

自殺について | ショウペンハウエル

自殺について | ショウペンハウエル, 河井 眞樹子 | 本 | Amazon.co.jp
「よかったなというわけで僕らも非常に喜んだけれども、粟粒結核やったものだから医者がどうしてもラグビーはやめさせなければいけないというわけだ。
本人は帰ってきて、背も高くなったし、みんなと会ったからラグビーをやりたくてやりたくてしようがないわけです。
そこが天才と凡才との分かれ道になってしまうところですが、何回も僕に向かって
「先生やらせてくれ。
死んでもいいからやらせてくれ。」
という。
けれども彼は将来性のある青年だったし、ちゃんと医者もついていて、そんなものやらせたらいけないというので、僕は困ってしまって、やったらいけない、絶対やったらいかんといったんだ。
そして4月に帰ってきて5月だったから学校へも行って勉強していたけれども、5月になったら家へフラリとやってきて、どうしてもやらせてくれないかというわけだ。
それはアカンといろいろ話をして
「それなら帰りますわ。
さようなら。」
といって帰った。
そしてその晩、従容と毒をあおって死んでしまった。
僕はその天才というやつの気分をわからなかった。
後からみたらショウペンハウエルの『自殺について』なんていう本を読んでいるんだ。
そういうのに影響されたのだろう。
本棚のなかにその本がある。
才能のある人間が、ピアニストが片手を切られたからその人生はないのだ。
その才能がなくなってしまった人間というのはモヌケの殻で、全然存在価値がないのだということを本を読みながら考えたのだろうか。
俺からラグビーを除いたら、ほんとに生き甲斐がないというので死んでしまったのだろうな。
現在、台湾ラグビー界のリーダーである柯子彰は、変則的なステップと名人芸のパスワークで一世を風靡した。
後に続いた川越藤一郎はすべてのプレーに秀でていた。
この2人の13番が戦前を代表するプレーヤーなら、彼はあのままプレーしていたら、戦後を代表する13番になっただろう。
彼がもし生きていたら早稲田のラグビーは変わっていたと思う。
将来早稲田のコーチでもやってたら、一生先生でもやってくれていたら、あれだけの天才が教えていたら、すばらしいラグビーができたのではないかと思うのですが、本当にあのときだけは凡才は天才のことがわからないと後悔しました。」

ナショナルチームの養成について

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昭和30年代、オーストラリア学生選抜、ニュージーランドのオールブラックス・ジュニア(23歳以下)A、カナダ、オックスフォードとケンブリッジの混合チームなど、海外から多くの強豪チームが来日し、日本代表チームと対戦した。
しかし日本代表は全然勝てなかった。
大西は朝日新聞に文を寄せた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本ラグビーはいまや、国内の優勝争いに終始するか、あるいは国際的に進出するか 、岐路に立たされている。
国際的進出を真剣に考えるなら、数回の来日国際ゲームを十分に再検討して、小中高大学および社会人の各ラガーマンに一貫した指導方針を確立し、具体的な指導方針を研究すべきであろう。
日本ラグビーは伝統の精神的規範を守ることが因習化し技術的には固定化と画一化の方向をたどってしまったといえる。
日本ラグビーの将来は若きラガーマンがこうした因習をいかに日本人のものとして改造していくかということにかかっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「僕の言い分は、世界の情勢は各国が自分のところのナショナルチームを養成しそれを世界との試合に出している。
日本はそれまでどこかのチームがやってくると、そのときに全国のいろいろなチームから人を選んで、それでチームをつくって試合をしていた。
そんなやり方ではとても勝てない。
ちゃんとAllジャパンを平静からつくり、練習して、それを来日したチームと当てないと勝てないと言った。
ところがなかなか聞いてもらえませんでした。」

2度目の早稲田大学ラグビー部監督 「土方ラグビーをやる。」

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早明戦の人気は低迷し、昭和35年の早明戦の観衆はわずか1235名だった。
昭和36年、中央大学、法政大学などの新興勢力が台頭し、早稲田大学ラグビー部はBグループへの転落した。
部員数も激減した。
これに危機感を感じた早稲田OBは、総長秘書をしていた大西鐡之祐に再び監督になってくれと頼んだ。
こうして2度目の監督就任が決まった。
「監督を引き受けるとき条件として、「(1年でAグループに戻るために)土方ラグビーをやる」と僕は宣言し、OBがそれに反対しないという確約を取りつけました。
「土方ラグビー」とは、言葉が適切かどうか知らんが、どうやってもとにかく勝つラグビー、なりふり構わずやるラグビーという意味です。
というのは全勝しなければAグループに復帰できないから必死だった。
どんな条件下でも、どんな実力の差があろうと、ベストを尽くすというラグビーの精神からいうと、A、Bなどと区別するのは邪道だと思うんだ。
対抗戦という形が望ましい。
でも当時のシステムはそうなっていないので、とにかくAグループに復帰することが先決でした。」
また大西鐡之祐は、部員減少を食い止めるため週休2日制をとった。
そして自信を失っているチームに自信を取り戻させるため、春先からベストメンバーで勝ちに行った。
しかし今1つ成績はふるわなかった。
木本健治

木本健治

現役時代に、低迷する早稲田大学ラグビーを、大西鐡之祐と共に改革し、番狂わせを演出。
日本代表選手にも選出。
監督として、早稲田大学ラグビー部を16年振りに学生日本一。
日本ラグビーフットボール選手権大会(日本選手権)で東芝府中(現 東芝ブレイブルーパス)を破り、16年ぶり4度目の同大会優勝。
主将の木本建治は燃えた。
木本はAグループ復帰はもちろん、日本一も視野に入れ、下級生を鍛えに鍛えた。
練習後、部員がグラウンドに倒れ込んでしまうまで引っ張った。
「タコやん(大西)といえば、理論家であり、勝負師であり、教祖だったっちゅうことかな。
トコトン考えて考え抜いとったね。
そしてそれが90%当たる。
自分のものを確立していた。
人を暗示にかけようと思ったら、まず自分がかからないとダメなんだ。
その点でも類まれな指導者だろうね。
監督とキャプテンは一心同体だから、何かを教わったというより一緒に苦労したなという感じだった。
自分が監督をやるようになってもそれは生きてるよ。
こういうときオヤジはこう考えるやろなとかね。
あの年(昭和36年)はね、別に汚いことをやったわけじゃないんだ。
要するに早稲田ラグビーを封印して、負けない試合をやるということに集中した。
敵陣までは全部タッチに出していく。
見てて面白くない。
でも勝つために近道に徹する。
やっぱりチームの力が落ちとったんだよ。
その前の富永キャプテンのときに優勝したチームは、谷口さんというセンターがゲインラインを切って
ウイングに回し、豊岡、尾崎の両フランカーにリターンパスしてトライを取る、という強い選手を核にした点を取るパターンがあったんだ。
ところが早稲田が弱いときの典型的な例なんだが、ただ外に展開するだけでゲインラインを突破できないという「ゆさぶりの誤解」というか弊害が出た。
大西さんは、型よりもまずゲインラインをどうやって超えるかを重視していたから、その年のメンバーではゆさぶりを捨てざる得なかったんだと思う。
まず言われたのは「お前らは非力だからウエイトトレーニングをやれ」ということ。
ウエイトリフティング部に練習しにいったよ。
後、昔は春のゲームは2軍戦といって、4年生やキャプテンなんかは出なかったんだが、勝ち犬にするために全員出場させてとにかく勝ちにいった。
敵陣に入ってから1発でトライを取るために「カンペイ」も考えた。
それと夏合宿を10日くらいしかやらなかったんだ。
普通は2週間以上やるんだが、「お前らにそんな力はない」ということでね。
あの人はね、あまり細かいことは言わないんだ
「展開・接近・連続」もそう。
それを具体的にしていくのが僕らの仕事だと思っている。
でもゲームでは細かかった。
あの頃、本を書いたりしていたから蓄積があったんだろう。
「こう行け!」と言い切っていたよ。
みんなは勘というけども、僕は違うと思う。
自分の洞察力で読み切っていたんだ。
そこがすごい。
「僕が責任を取る」が口癖だったな。
コーチは潜在的にもっと選手に練習させたいものなんだ。
自信がないと特にそうなる。
例えばゲームに負ける。
お前らに気合が入っていなかったんだと反省練習をさせる。
これはおかしんだよ。
そうならないようにチームと選手を導くのがコーチなんだから。
大西さんには戦争体験という下地がある。
弾の下をくぐってきたわけだから。
判断が間違ってたら死んでしまうんだ。
これからはそんな経験を持っている人がいなくなる。
じゃあ何かと言えば選手に昨日までの自分と違う自分を見せてあげられるかどうか。
その辺りが大切なんじゃないかな。
あのBブロックで全勝した年はね。
異常な雰囲気だった。
勝っても恥ずかしそうに合宿に帰ってすぐに布団に入って寝るようなね。
だからBブロック優勝が決まって早慶戦の前に大西さんに言いにいったんだ。
「たまには好きなことやらせてくれ」とね。
大西さんは「好きにやれ」と言った。
試合では5-6で負けたけど、何か爽快だった。」
(木本建治)

カンペイ

 (1758527)

「チーム全体の問題もあるのですがバックスの決定力不足が気になりました。
練習でバックスを集めて「お前たち何か手はないか?」と聞いたのです。
必ずトライにつながるような戦法を考えられないかということです。
そうしたら4年のフルバックの中村が、こうやっておとりを使ってフルバックにパスしてくれたら絶対にとれる、というのです。」
これがきっかけになって早稲田のお家芸といわれる「カンペイ」という新戦法を生まれた。
早稲田はBグループを全勝優勝し、Aグループ全勝の明治にも勝った。
マスコミは「大西マジック」と称えた。
「土方ラグビーというだけあって、フォワード戦重視、キック攻撃重視という早稲田らしくない試合運びが多かったのですが、とにかく立ち直るきっかけはつかみました。
しかし翌年(昭和38年)からは、明治が長い低迷期に入ります。
一方、この時期、全盛期を迎えていたのは法政で38、39年は打倒法政を目指して猛練習したんだがかなわなかった。」

カンペイ(菅平)

ラグビー・オール・ジャパン Rugby All Japan

 (1760661)

昭和39年、カンタベリー大学(ニュージーランドの大学)チームが来日し、全日本代表チームは負けたが、大西鐡之祐の早稲田は勝った。
大西はラグビー協会会長に自らの構想を進言し、「オールジャパン」の結成が決まった。
そして昭和41年、大西はオールlジャパンの監督になった。
この日本代表監督は、昭和41年~46年まで続いた。
大西は、寄せ集め的なチーム編成に異議を唱え、日本代表の強化・セレクションの基礎を作り上げ、学閥やポジションに偏らないチーム編成を行った。
「従来のオールジャパンの選手は、いろいろなチームからセレクションしてきました。
だから早稲田の者は早稲田の者、明治の者は明治の者、みんな考えが違う。
そうしても1本にならない。
1つのチームとしてやる場合、かえってコンビがうまくいかなくて負ける。
単独チームの方が強い。
単独チームのようにするには戦法、やり方、戦い方を統一しなければいけない。
僕はその戦い方を「展開・接近・連続」という言葉で簡単にあらわして彼らに説明した。
ラグビー先進国の模倣ではなく、その国の土壌の上に成り立った戦い方を考えていくのだ。
よそのものを持ってきて日本でやってもそれは借り物だから勝てない。
そこで日本選手の特質をしっかり考えろと教えた。
体のでかい外人とフォワードが揉み合っているようではロスである。
日本人はどういう特質を持っているかというと、体格の大きさでは負ける。
だからスクラムから早く球を出して展開をなるべく速くして、その展開の中で相手と接近して、その接近する間に相手を抜くということを考えた。」
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