大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。
2017年3月28日 更新

大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。

「どんな人でも夢を持たない人間はいない。 夢は人間を前進させ、幸福にする。 唯、夢がその人を幸福にするかしないかは、その人の夢の実現に対する永続的な努力と情熱にかかっている。」

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大西鐡之祐は今後、増えていくだろう国際試合について、日本ラグビーに対して、5つの点を問題提起した。
これは後に大西がAllジャパン(全日本代表チーム)を指導するときも、重要視したポイントとなった。

1 ラグビーは合理的な理論と戦法で技術をマスターしてゲームをやらばければいけない。
2 体力と走力と粘りによってゲームを寸断することなく相手を疲労混乱させるように練習しなければならない。
3 プレーヤーに各ポジションの任務と分担範囲を理解させ、キャプテンはチーム全体を有機的組織体として運用できるようにならなければならない。
4 チームは組織でゲームしなければならない、チームとしての組織的な動きを身につけることが基礎プレーである。
5 以上の点を身につけることでゲーム中、冷静な情勢判断によるプレーができるようになる。

「展開・接近・連続戦法の欠点は、球の奪取が抜けているということである。
身体の小さな日本人が外人と対戦する時にふさわしい戦術はそんなにない。
チームで組織的に目標を定めて集中的にやらなければ到底かなわない。
個々に勝手に努力しても無理である。
フォワード戦はなるべく避けて、展開、接近して、集中する地点を決めて連続的に球をとる。
連続プレーを休まず行うことが大事である。
ゲインライン突破のための新戦法を考えよ。
例えば、バックスのダブルライン。
第1ラインをスタンドオフ-センター-ウイング、第2ラインをスタンドオフ-フルバック-ウイングとし、第1ラインで相手をかく乱し第2ラインでゲインライン突破-連続攻撃。
また例えば、第1ラインをスクラムハーフ-スタンドオフ-ウイング、第2ラインをスクラムハーフ-フルバック-センターとし、第1ラインで相手をかく乱し第2ラインで突破する。
こうしたダブルライン攻撃は防御が厳しくなればなるほど有効となってくる。
例えば、フォワードの集中地点を設定。
サインプレーでその地点にラックをつくり、連続的に球をとって攻撃、戦略パターン攻撃を続ける。
こうしたサインによる創造的プレーの連続が必要であろう。
またセブンフォワードの早いヒールアウトは、創造的なプレーを考える場合にいろいろなヒントとなる。
こうした先人の試みてきた栄光のプレーに挑戦し、それを土台にチームプレーの基本的タイプとリズムを呼び起こすこと。
新しい創造的戦法を大胆に採用し実施することにより、チームの士気を鼓舞することも有効な方法である。
いずれにせよ、国際試合においては、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の心を忘れた選手、ひたむきにタックルすることを怠る選手は、桜のジャージを着る資格がない。」

明治大学ラグビー部

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この年(昭和27年)の早稲田vs明治戦は、奥村竹之助協会理事が興奮して卒倒するほど、伝説の名勝負となった。
「監督の僕にしてみれば、明大選手が骨折で退場したため、14名の相手に勝っても本当の満足は得られなかった。
当時はまだ怪我で退場してもリザーブ選手の交代出場が認められていなかった。
ラグビーは勝敗ではなく与えられた条件でベストを尽くせばいいという考え方だった。
このあたりがラグビーらしいところなんだ。
僕はむしろゆさぶり戦法とオックスフォードから受けた影響を研究することで勝利した早明戦が記憶に残っている。
3・4・1のフォワードシステムの研究を重ねたが、右プロップとこれを押すフランカーの押力の方向がうまくいかない。
そこで右フランカーを下げて3・3・2の変則システムで戦うことにした。
ラインアウトはダイレクトで直ちにスクラムハーフに返すことにし、密集戦はなるべくモールにして球を早く出し展開を図る。
バックスのシザースプレーはセンターとウイングのクロスを行い、フォワードのサポートを助けて連続プレーに持ち込みゆさぶりをかける。
防御はシャローラインを中心にして攻撃的タックルを敢行。
それに適合した防御網を張る。
こうした攻防理論を立て練習し得た1つの攻撃法は、3・3・2に最も適したホイール攻撃だったのです。
例年、明治戦で手こずるのは直進して体当たりで攻めてくること。
いくらゆさぶっても敵バックスはフォワードの密集に巻き込まれず。
速やかに自分のポジションに帰り再度タックルに来ることでした。
そこでこの年はまずホイールでサイド攻撃をかけ、早い浅い相手防御ラインを後退させ、その時球を出しオープン攻撃。
速やかにセンターとウイングでシザース。
それにフォワードがサポートして連続攻撃を敢行する。
こうした戦法で明治に臨んだのです。」
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早稲田大学と明治大学は実力伯仲で常に優勝を競い合った。
明治の北島忠治監督は、
「前へ」
を信条とし、FWで押しまくるスタイルを追求した。
北島は昭和4年(1929)から平成8年(1996)5月に95歳で亡くなるまで67年間明治大学ラグビー部監督をつとめ、大学選手権優勝20回、準優勝10回という成績を残した。
明治大学ラグビー部には「明大ラグビー部10訓」がある。
北島は自分の作ったこの訓戒を自らも実践した。

(1)監督・委員の命を守れ
(2)技術に走らず精神力に生きよ
(3)団結して敵に当たれ
(4)躊躇せず突進せよ
(5)ゴールラインに真っ直ぐ走れ
(6)勇猛果敢たれ
(7)最後まであきらめるな
(8)低いプレーをせよ
(9)全速力でプレーせよ
(10)身を殺してボールを生かせ

これらのもとで激しい練習が世田谷区八幡山グラウンドで繰り広げられた。
北島は大学生時代、相撲部だったが、部員不足でスカウトされラグビーを始めた。
スクラムセンター(フッカー)として活躍し、4年生時には主将となり、卒業と同時に監督に就任した。
日本が戦争に敗れ、学生たちは困窮のドン底にあった。
新潟に疎開していた北島は、
「敗戦後に目的を失った青年を鍛えるのはラグビーしかない」
といって世田谷の合宿所を再開した。
部員と共に畑を耕し、野菜をつくり、基本的にグラウンド上では学生の判断に任せるが、手抜きは許さず、手抜きを見つけた場合は即刻グラウンドから退場を命じた。
自宅に選手が来ると、
「ご飯食べたか?」
といって自ら味噌汁を作り、ご飯を出す。
選手のために労を惜しまなかった。
火事で合宿所が焼けてしまったときも
「家の一軒くらい惜しくない。」
と新潟の実家を売り払い、金をすべて合宿所につぎ込み、新たに合宿所が建て直し再スタートさせた。
監督の心意気に選手は燃えた。
彼らは試合に勝つことで新しい宿舎に大きな土産をもって帰った。
火災から12年の歳月がたち、成長した選手たちは皆で金を出し合宿所のわきに監督の家を建てた。
また卒業してからも何度も厳しくも温かい北島の元を訪れ続けた。
明治大学の男子トイレの小便器  北島忠治監督の魂の言葉...

明治大学の男子トイレの小便器 北島忠治監督の魂の言葉、「前へ」!

しかし大きな試練が、明治大学ラグビー部にはあった。
ライバル、早稲田大学ラグビー部の存在である。
早稲田は、毎年のように大学選手権を勝ち取り、大西鐵之祐監督の斬新な戦術は、ラグビー界を席巻した。
それに対し基本に忠実な北島忠治監督は「時代遅れ」、「化石」ともいわれた。
その頃を北島はこう回想する。
「苦しい時だからこそ明治のスタイルを変えてはならない。
そんな気持ちだった。」
北島は不振だからこそ基本に立ち返った。
土台が完成すればどんなプレーもできるからと、走り方、ボールの持ち方、パスの出し方・受け方、反則に対する厳しいチェック、など選手に徹底して基礎を教えた。
それに対して早稲田は、技を磨き、戦法を磨き、ひたむきで果敢、俊敏なプレーこそが早稲田ラグビーの真骨頂だった。
強力フォワードを擁した「縦の明治」に対して、軽量フォワード・バックス中心の展開ラグビーは「横の早稲田」といわれた。
そして早稲田の自陣ゴール前で見せる厳しく粘り強いディフェンスは「ゴール前3m の奇跡」、
必殺のタックルで相手プレイヤーを倒し、一気に攻守を逆転する様は「アタックル」と呼ばれた。

「激突!早明ラグビーのすべて」

もっと新しいラグビーを考えなければいけない

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昭和28年、大西鐡之祐は1冊の本に出会った。
それは南アフリカのラグビー協会のダニー・クライブンが書いた本だった。
ダニー・クレイブン(Danie Craven)は、南アフリカ代表のスクラムハーフで、人類学、心理学、スポーツ学の博士号を持つ学者である一方、はじめてダイヴィングパスをやったり、『ダニー・クレイブン・オン・ラグビー』など多くのラグビー文献を残し、1956~1992年、南アフリカラグビー協会会長をつとめた人物である。
「これはすごい本だと思った。
これ1冊読むだけでラグビーの理論や戦法についての考え方が一新された。
僕の考えてきたラグビーとは全然異質なもので、しかも非常に理論的だった。
それで僕はこれは何とか日本も考えなくてはならない。
早稲田式とか慶応式とか京都大学式とか各校の特色だけではいけない。
もっと理論的なレベルで新しいラグビーを考えなければいけない。
ラグビーは、オープンに展開して、フォワード、バックスが一体となって展開攻撃するゲームで、そのためにはフォワードはフォローしやすいように従来の3・2・3システムを3・4・1システムに変える必要がある。
攻防理論の第1歩はゲインラインの突破にある。
攻防のバックラインは深いラインをやめて浅いラインを使用する。
ラインアウトは展開を主眼とし、頭進結合方式を背進結合方式に変えるわけです。
密集戦はモール(ボールを持ったプレーヤーの周囲に、双方のプレーヤーが立ったまま身体を 密着させて密集する状態)をつくるようにする。
球を地面に落としてラックにせず、球を持ったままモールにする。
攻撃方向は一定方向のみに偏らず、特にバックスはシザースプレーを敢行し方向転換を行い、フォワードのサポートプレーを助ける。
こうしたボールの獲得-展開-方向転換-連続プレーを目標とした近代ラグビー理論が、ダニー・クレイブンの理論です。
ラインアウトで球をキャッチした選手が敵に背を向けることは、球を確実にバックスに供給するために絶対欠かせないことは今ではわかりきっている。
実際にプレーしている人ならそれが合理的だとよく知っている。
ラインアウトで前が球をとるのだけど、敵は球をとることは最初からあきらめて、彼が球をとると同時に腹にまとわりついてモールから球を出させない。
彼は困ってしまってキャッチした球をハーフに直接パスしていいかと僕に言ってきたことがある。
今ならスクラムハーフに球を送る。
しかし当時はそれが当たり前ではなかったんだ。
敵に背を向け球をハーフに渡すというのは大和魂に反すると一蹴されたのだ。
そういう古びた考えにとらわれていた中でダニー・クレイブンとめぐりあったのである。
日本のラグビーは、エイトとセブン両システムの拮抗によって発達してきたといえる。
早稲田のゆさぶりと明治の戦車フォワードも、その中でしのぎを削ってきたわけです。
しかしその両者にしても、ただ相手を打ちのめす研究に腐心する傾向がありました。
もちろんワセダラグビーは戦前からラグビー理論や戦法を研究してきたわけですが、国際的なラグビーを目指すまでには至らなかった。
これに対しダニー・クライブンは、それ以前のラグビーの理論的欠陥を矯正し、国際的ラグビーの目指すべき方向性を示したといえる。」
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昭和29年、大西は最初の本「ラグビー」を出した。
「その本には僕のラグビーに対する考え方と日本が今までやってきたラグビーのやり方と、それからダニー・クレイブンのラグビーのやり方と一緒に書いた
その本を出してから、これは何とかして僕がやらなければ日本のラグビーはダメになってしまうぞと1つの自負が起こってきた。
それでも日本には僕より先輩がたくさんいるわけだ。
この人たちが何やかんやいってくる。
論争しなければならない。
まだ若かった僕はそういう先輩との間でも、日本ラグビーを進化、発展させていくためには激しい論議をしていく必要があると思っていました。
ある時はケンカし、先輩たちにいろいろ挑戦しながら、何とかジャパンチームをつくり上げていこうとしたのです。」
日比野弘

日比野弘

早稲田大学ラグビー部1年時からレギュラーを獲得し、日本代表・全早大のウィングとして活躍。
早稲田大学ラグビー部監督、早稲田大学人間科学部教授、ラグビー日本代表監督、日本ラグビー協会理事。
「私は29年4月に早稲田に入学し、大西監督の下でラグビーを始めました
その年は早稲田が3連覇を目指した時で、私は1年生ながら試合に出してもらいました。
早慶戦では19対19で引き分けましたが、私自身3トライし、
「1年生にしてはよくやった。」
とほめられました
早明戦の前にはタックルダミーに明治のジャージを着せて練習します。
当時、私のトイメン(対面)はラグビー界のスーパースターといわれた宮井邦夫さんでした。
練習のとき、監督はこわい顔をして、
「日比野、トイメンは誰だ。」
というわけです。
「宮井です。」
と答えると、
「お前、宮井にタックルするときどこを見てる?」
「目を見てます。」
というと
「へそを見ろ。
へそは動かない。」
と教えられたのです
試合当日はどしゃぶりで敵味方の区別もつきません。
その中にあって宮井の姿を求め走り続けたのですが、14対8で負けてしまいました。
試合後、高田校舎で監督が
「今日は精一杯やった。
でもお前たちの中で今年1年やれるだけやったと言い切れる者はいるか?」
といわれたのです。
この言葉は私の胸に深く突き刺さりました。
その後何度も試合に出ましたが、この負けた明治戦が1番印象に残っていますね。」
(日比野弘:早稲田大学ラグビー部1年時からレギュラーを獲得し、日本代表・全早大のウィングとして活躍。
早稲田大学ラグビー部監督、早稲田大学人間科学部教授、ラグビー日本代表監督、日本ラグビー協会理事。)

ラグビー部監督から早稲田大学総長の秘書に

大濱信泉総長

大濱信泉総長

大西は昭和25年に初めて早稲田の監督になり全国制覇。
26年は明治に敗れるが、27、28年と2連覇し、29年までラグビー部監督を務めた。
そして昭和30年から大濱信泉総長の秘書となった。
以後、数年間は「必勝」の呪縛を解かれ牧歌の時代を過ごした。
大浜はフェミニストでどこに行くのも奥さんを同伴していた。
総長秘書といっても、寝台車に乗って、地方に出張にいったときなど、いびきをかいて寝ている大西を総長が
「大西君、着いたよ」
と起こしたこともあったという。
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