「異文化を繋ぐ友情」というテーマである。
恐らく、このテーマこそが、作り手の最も強いモチーフになったと思われる。
映像のファーストシーンとラストシーンが、「出会い」と「再会」の描写によってまとめ上げられているからである。
そしてこの二つの描写、即ち、「起」と「結」を繋ぐ長い描写の間に、「キリング・フィールド」の凄惨な世界が、些か抑制的に映し出されていく。
この抑制的な描写が、却って、映像のバック・グラウンドとなった歴史の現実をリアルに炙り出す効果となっていて、物語の「承」と「転」の部分の重量感を保証したのである。
そしてこの、「承」と「転」の状況描写を、二人の主人公の交叉する感情が複雑に絡み合い、時には縺(もつ)れ、時には重なり合って歓喜する魂の、優しくもシビアな触れ合いの時間が駆け抜けていく。
この映像の一つのクライマックスは、プノンペン陥落を間近にした二人の職業意識の振れ方に関わる描写だった。
記者の使命感によって、取材の継続を選択したシャンバーグに対して、陥落後の険悪な事態の展開が予想される中で、知識人としてのプランは、その態度の決定を迫られていく。
既に家族を米国に脱出させていたプランは、最も信頼する相棒によって選択を迫られた結果、「俺も記者の端くれだ」とその真情を吐露したのである。
プランの決断によって、二人の思いは、そこに僅かに生じていた異文化の隙間を埋めることになった。
プランは、シャンバーグの取材の継続のためにアメリカへ脱出しなかったのは自己決断でした。しかし、それが結果的に最悪な事態になるわけですが、プランにとって、シャンバーグは最も信頼し、その思いを深く繋いだ相棒でした。なので、最後の二人の再会は、異文化を超えた深い繋がりを映しています。
この映画が公開された直後、本多勝一は政治的で差別的な内容であるとして、映画への批判を行なった。本多はかつて、ポル・ポト派寄りの記事を書いたことがあり、ポル・ポト政権時代からシャンバーグの批判を行ない虐殺行為についても懐疑的であった。しかし1985年の2本の記事においてはポル・ポト派の虐殺を認めている。この映画については、カンボジア大虐殺の背景や全体状況がまったく描かれていないため、観客にカンボジア情勢を誤解させるような曖昧な表現が多いこと、シャンバーグが他のカンボジア人の救出に尽力せずプランの救出のみを考えており差別的なことなどを挙げて批判している。そして、この映画に感動するのはカンボジア情勢に無知な人々だとして記事の表題にもしている。
本多と同じ朝日新聞出身である井川一久は、この映画(および原作)の欠点として、ポル・ポト政権による殺戮と文明破壊の実態を極めて不十分(せいぜい2、3割)にしか伝えていないこと、クメール・ルージュについての背景説明がまったく描かれていないことをあげながらも、現実に起こったことを非常に不十分ではあるが伝えており、かなりのところまで歴史の真実に迫ろうという意思があった。シャンバーグとプランの関係についても当時のインドシナの外国人特派員の中では最上に属する友情関係だと思うとしている。また、この種の映画が日本では1度も制作も企画もされなかったのに対して、米国でそれが可能だったところに米国の文化構造の健やかな一面を見たとも述べている
しかし、ジャーナリストの古森義久は、この映画を絶賛しています。