ザ・タイガースの原型は、瞳みのる、岸部修三(岸部一徳)、森本太郎、加橋かつみの(沢田を除く)4人で1965年6月に京都市で結成された「サリーとプレイボーイズ」。
1966年元日、沢田は正式に「サリーとプレイボーイズ」のメンバーとなり、あわせてバンド名を(バンド「リンド&リンダース」の命名で)「ファニーズ」に改称。
1966年11月15日、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちにより、ザ・タイガースというバンド名が与えられた。
1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」(録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビューする。
1970年12月7日に解散を表明する。翌1971年1月24日の日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」が事実上の解散コンサートとなる。
1981年 - 1983年、2013年再結成。
1966年元日、沢田は正式に「サリーとプレイボーイズ」のメンバーとなり、あわせてバンド名を(バンド「リンド&リンダース」の命名で)「ファニーズ」に改称。
1966年11月15日、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちにより、ザ・タイガースというバンド名が与えられた。
1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」(録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビューする。
1970年12月7日に解散を表明する。翌1971年1月24日の日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」が事実上の解散コンサートとなる。
1981年 - 1983年、2013年再結成。
メンバー
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沢田研二(ジュリー)(1948年6月25日 - )、ボーカル、タンバリン
岸部修三(サリー)(1947年1月9日 - )、ベース、コーラス
加橋かつみ(トッポ)(1948年2月4日 - )、リードギター、コーラス、ボーカル、1969年3月に脱退。
森本太郎(タロー)(1946年11月18日 - )、リズムギター、加橋かつみ脱退後はリードギター、コーラス
瞳みのる(ピー)(1946年9月22日 - )、ドラムス
岸部シロー(シロー)(1949年6月7日 - )、リズムギター、タンバリン、コーラス
1969年3月に脱退した加橋かつみに代わって参加。岸部修三の実弟。
1981年 - 1983年の同窓会時のメンバーは沢田、岸部兄弟、加橋、森本の5人で瞳みのるは不参加。
岸部修三(サリー)(1947年1月9日 - )、ベース、コーラス
加橋かつみ(トッポ)(1948年2月4日 - )、リードギター、コーラス、ボーカル、1969年3月に脱退。
森本太郎(タロー)(1946年11月18日 - )、リズムギター、加橋かつみ脱退後はリードギター、コーラス
瞳みのる(ピー)(1946年9月22日 - )、ドラムス
岸部シロー(シロー)(1949年6月7日 - )、リズムギター、タンバリン、コーラス
1969年3月に脱退した加橋かつみに代わって参加。岸部修三の実弟。
1981年 - 1983年の同窓会時のメンバーは沢田、岸部兄弟、加橋、森本の5人で瞳みのるは不参加。
ザ・テンプターズ
ザ・テンプターズThe Tempters/エメラルドの伝説(1968年) 視聴No.5→No.2
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1966年に埼玉県大宮市(現:さいたま市)で結成されたアマチュア・バンドが前身。
1965年、東京北区十条の朝鮮学校のリーダーが主催するダンスパーティーに呼ばれ、演奏した。だが、ヴォーカルの女性が腹痛で出演することが出来ず、バンドだけで出演し歌抜きの演奏をしていた所、会場からブーイングが起こった。
その時、リーダーがクローク係をしている中学生の少年を指名し、ボーカルの代わりをするよう要請した。
その中学生の少年が後のショーケンこと萩原健一だった。演奏を終えた後、ギターリストの松崎由治が萩原を誘い、萩原は前出の女性に代わりそのままボーカルとしてメンバーに加わることになった。
10月に松崎が作詞・作曲したシングル「忘れ得ぬ君」でレコードデビュー。
1970年、全国のジャズ喫茶、ゴーゴークラブ回りが活動の中心となった。同年12月27日に東京大手町のサンケイホール内にある小ホールでの公演にて解散。
1965年、東京北区十条の朝鮮学校のリーダーが主催するダンスパーティーに呼ばれ、演奏した。だが、ヴォーカルの女性が腹痛で出演することが出来ず、バンドだけで出演し歌抜きの演奏をしていた所、会場からブーイングが起こった。
その時、リーダーがクローク係をしている中学生の少年を指名し、ボーカルの代わりをするよう要請した。
その中学生の少年が後のショーケンこと萩原健一だった。演奏を終えた後、ギターリストの松崎由治が萩原を誘い、萩原は前出の女性に代わりそのままボーカルとしてメンバーに加わることになった。
10月に松崎が作詞・作曲したシングル「忘れ得ぬ君」でレコードデビュー。
1970年、全国のジャズ喫茶、ゴーゴークラブ回りが活動の中心となった。同年12月27日に東京大手町のサンケイホール内にある小ホールでの公演にて解散。
メンバー
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松崎由治(まつざきよしはる、ヨッチン、1948年4月16日 - )、リーダー、ギター、ボーカル。埼玉県大宮市出身。
萩原健一(はぎわらけんいち、ショーケン、1950年7月26日 - 2019年3月26日 )、ボーカル、ハーモニカ。2019年3月26日午前10時30分、都内の病院にてGIST(消化管間質腫瘍)のため死去。68歳没。
田中俊夫(たなかとしお、ブル、1947年11月1日 - 1997年)、ギター、キーボード。埼玉県大宮市出身。
高久昇(たかくのぼる、ノボル、1948年5月5日 - )、ベース。埼玉県大宮市出身。
大口広司(おおぐちひろし、ヒロシ、1950年11月28日 - 2009年1月25日)、ドラムス。埼玉県川口市出身。
萩原健一(はぎわらけんいち、ショーケン、1950年7月26日 - 2019年3月26日 )、ボーカル、ハーモニカ。2019年3月26日午前10時30分、都内の病院にてGIST(消化管間質腫瘍)のため死去。68歳没。
田中俊夫(たなかとしお、ブル、1947年11月1日 - 1997年)、ギター、キーボード。埼玉県大宮市出身。
高久昇(たかくのぼる、ノボル、1948年5月5日 - )、ベース。埼玉県大宮市出身。
大口広司(おおぐちひろし、ヒロシ、1950年11月28日 - 2009年1月25日)、ドラムス。埼玉県川口市出身。
ザ・ランチャーズ
真冬の帰り道 ザ・ランチャーズ
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加山雄三主演の「若大将シリーズ」が始まったころ、藤本真澄プロデューサーが加山に「会社の人間で演奏できるやつを集めてバンドをやれ。映画でも使うぞ」と指示して、加山がメンバーをかき集めて1962年結成。
1967年11月に、シングル「真冬の帰り道」でデビュー。
1971年解散。
1967年11月に、シングル「真冬の帰り道」でデビュー。
1971年解散。
メンバー
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喜多嶋修(ヴォーカル、ギター)加山雄三とは母方の従弟にあたる。妻は女優の内藤洋子。娘は元女優の喜多嶋舞。
大矢茂(ギター)「若大将シリーズ」の2代目若大将として「若大将対青大将」に出演。
渡辺有三(ベース)2014年1月2日、虫垂癌により東京都内の病院で死去した。64歳没。
手政次(ドラムス)
旧メンバー
加山雄三(ヴォーカル、ギター) 2017年6月、第8回岩谷時子賞を受賞。
二瓶正也(ドラムス) 現在はビルオーナーをしており、仕事はウルトラマン関係のイベントが多い。
津田彰(ギター)
佐竹弘行(ベース)
三木敏彦(ピアノ) 1973年のドラマ『真夜中の警視』出演の際、門岳 五郎に改名したが、現在は本名で活動している。
速水洸(スチール・ギター)
喜多嶋瑛(ドラムス)
大矢茂(ギター)「若大将シリーズ」の2代目若大将として「若大将対青大将」に出演。
渡辺有三(ベース)2014年1月2日、虫垂癌により東京都内の病院で死去した。64歳没。
手政次(ドラムス)
旧メンバー
加山雄三(ヴォーカル、ギター) 2017年6月、第8回岩谷時子賞を受賞。
二瓶正也(ドラムス) 現在はビルオーナーをしており、仕事はウルトラマン関係のイベントが多い。
津田彰(ギター)
佐竹弘行(ベース)
三木敏彦(ピアノ) 1973年のドラマ『真夜中の警視』出演の際、門岳 五郎に改名したが、現在は本名で活動している。
速水洸(スチール・ギター)
喜多嶋瑛(ドラムス)
ズー・ニー・ヴー
ズー・ニー・ヴーZoo Nee Voo/白いサンゴ礁Shiroi Sangosho (1969年) 視聴No.2
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結成当時は「ZOOM BOOM 5」という名前だった。
所属レコード会社は日本コロムビアを経てキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)。 1968年春に結成し、1971年解散。
所属レコード会社は日本コロムビアを経てキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)。 1968年春に結成し、1971年解散。