やはり「タイガーマスク」を語る時に「ブラック・タイガー」を語らない訳にはいかないわよね!それもやっぱり「初代」よ!あの、冷徹さや技の重さは他の「ブラック・タイガー」とは一味違うと思うの。「二代目」も、のちのちの大スター「エディ・ゲレロ」な訳だけどあたしは「ロコ」が大好きだったわ。あ、言っちゃったわ!
ブラック・タイガー(初代)のキャリア(Wikipediaより抜粋)
ドロップキックの名手として活躍した父のジム・ハジーからはプロ入りを反対されていたが、父のツアー中に密かにコリン・ジョイソンのトレーニングを受け、1970年2月25日に英国マットにジョイソンを相手にデビュー。マックス・クラブトリーが運営を引き継いだデール・マーティンズ・プロモーションズを主戦場にヒールのポジションで活動し、1977年にはダイナマイト・キッドと抗争を繰り広げた。1979年9月には "ローラーボール" マーク・ロッコのリングネームで国際プロレスに初来日、阿修羅・原のWWU世界ジュニアヘビー級王座に2度挑戦している。1980年から1981年にかけては、当時イギリスで武者修行中だったサミー・リーこと佐山聡と抗争を展開しており、佐山がタイガーマスクとして凱旋後の1982年4月には、覆面レスラーのブラック・タイガーに変身して新日本プロレスに初登場、タイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦した。同年5月6日にはグラン浜田を破り、タイガーマスクの負傷による返上で空位となっていた同王座を獲得。20日後の5月26日にタイガーマスクに敗れ短命王者で終わったものの、以降1980年代は新日本マットを日本での主戦場に活動。アントニオ猪木に頼まれ、ハルク・ホーガンにレスリングの基本をコーチしたこともあったという。1983年8月のタイガーマスク引退後はザ・コブラのライバルとなり、1984年12月28日にはWWFの本拠地ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、コブラとのWWFジュニア王座決定戦を行った。1986年からは地元の英国マットでフライング・フジ・ヤマダこと山田恵一と世界ヘビーミドル級王座を争い、1987年8月には凱旋帰国した山田を追って素顔のマーク・ロコとして新日本に参戦。1989年7月には再びブラック・タイガーに変身し、獣神サンダー・ライガーのIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦した。1990年1月に最後の来日を果たしてからは英国のオールスター・プロモーションズに定着したが、1991年のデイブ・テイラーとの試合で脊髄を負傷、同年のワージングにおけるデイブ・フィンレイ戦を最後に現役を引退した。なお、共にヒールのポジションにいたロコとフィンレイは欧州では頻繁にタッグを組んでおり、1988年6月にはオーストリアのリンツにて、トニー・セント・クレアー&ミレ・ツルノを相手にCWA世界タッグ王座を争った。1989年10月に行われたWWF英国遠征の前座試合にも、揃って出場している。引退後は、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島に居住。英国の各団体にもレジェンドとして招かれてり、2003年2月と2006年8月にはオールスター・レスリングの主催したリユニオン・イベントに登場している。2015年10月3日にレディングで行われたリボリューション・プロレスリングと新日本プロレスの合同興行では、獣神サンダー・ライガーとの久々の再会を果たした。
第2位 ミル・マスカラス
入場テーマ曲と戦うスタイルが、これほどピッタリなプロレスラーはいないと思うの。「ジグソー」の「スカイ・ハイ」はまさに「マスカラス」の為にある曲よね。(本当は映画「スカイ・ハイ」のサントラ)今までテレビで見ていた「プロレスラー」とは全く違うと、子供心に思っていたのは、あたしだけじゃないと思うわ。「千の顔を持つ男」はあたし達のプロレス感も変えたのかも知れないわね。
ミル・マスカラスのキャリア(Wikipediaより抜粋)
レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。1965年7月16日にメキシコの大会場アレナ・メヒコにてデビュー。空手や柔道なども日本から遠征して来た渡辺貞三から習った。1968年から1971年にかけてはアメリカのNWAロサンゼルス地区を主戦場に活動し、NWAアメリカス・ヘビー級王座を通算4回獲得。1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。なお、ロサンゼルス時代のマスカラスは絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから、日本においては "悪魔仮面" などと呼ばれていた。1970年はロサンゼルスを一時離れ、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス東部のNWAビッグタイム・レスリングに参戦。初来日は1971年2月19日に日本プロレスで行われたダイナミック・ビッグ・シリーズの開幕戦。このシリーズは3月10日まで行われ、全13戦の短いシリーズであったが、日本にミル・マスカラスの名前を大きく刻み付けた。1973年10月からは全日本プロレスに参戦し、ジャンボ鶴田やザ・デストロイヤーと好勝負を展開。1977年8月25日に田園コロシアムにて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した試合は、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。全日本では1970年代後半から1980年代前半にかけて、『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに例年参戦しており、ドス・カラスとの兄弟コンビでの来日は全日本プロレスの「夏の風物詩」ともいわれた。1980年9月12日には、全日本のリングでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。WWFには1970年代から1990年代にかけて不定期に単発参戦し、1978年には当時のWWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦。3月20日の定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント&ダスティ・ローデスと豪華トリオを組み、ケン・パテラ、ミスター・フジ、プロフェッサー・タナカ組と6人タッグマッチで対戦。1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米侵攻サーキットにも、アメリカでの主戦場だったカリフォルニアや中西部地区のビッグイベントを中心に出場。同年6月15日にはセントルイスのキール・オーディトリアムにてS・D・ジョーンズをパートナーに、ディック・マードック&アドリアン・アドニスが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦している。1997年1月19日には、メキシカン人口の多いテキサス州サンアントニオで行われたロイヤルランブル(第10回大会)にも出場した。アメリカや日本のみならずヨーロッパにも遠征しており、1974年10月には西ドイツのミュンヘン・トーナメントに参加。同年8月に新日本プロレスでデビューしたばかりの吉田光雄やローラン・ボックと対戦した。1986年6月の全日本プロレス参戦を最後に日本マットへの登場は途絶えていたが、1990年代はW★ING、FMW、WAR、みちのくプロレスに来日。2000年2月にはバトラーツ、2001年1月と2002年7月には全日本プロレスへ久々に参戦し、2006年9月には大阪プロレスに登場した。その後も2009年3月の『仮面貴族FIESTA2009〜ミル・マスカラス華麗ナルゴールデンタイム伝説〜』に来日、初代タイガーマスクとタッグを組んで藤波辰爾&グラン浜田と対戦している。2013年4月には、女子プロレス団体のスターダムが開催した『STARDOM MASK FIESTA』に出場した。俳優としても活動しており、これまで20本以上の映画(ルチャシネマ)に出演している。日本では『愛と宿命のルチャ』がBOX東中野で公開され、TBSの深夜映画枠で『ミル・マスカラスの幻の美女とチャンピオン』が放映されたことがある。2007年には久々に主演作品 『ミル・マスカラス対アステカのミイラ』が製作・公開された。2011年10月16日、メキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスで行われたWWEのスマックダウン収録に登場。2012年にはWWE殿堂に迎えられ、甥のアルベルト・デル・リオが殿堂入り式典のインダクターを務めた。2016年11月28日、東京愚連隊の後楽園ホール大会に来日。NOSAWA論外を挑戦者に、1975年以来保持しているIWA世界ヘビー級王座の防衛に成功した。
1位 タイガーマスク(初代)
なんと言ってもあたしたちの時代の覆面レスラーと言ったら「タイガーマスク(初代)」じゃないかしら?だってプロレスを知らないあたしの母親も「ぴょんぴょん飛んで面白い」と全く見なかったプロレス中継をテレビで見てたわ。それだけ世間にブームを巻き起こし「ダイナマイト・キッド」や「ブラック・タイガー」との戦いは本当に凄かったの。あたしもこの時代は「タイガー」に首ったけだったのよ!
タイガーマスク(初代)のキャリア(Wikipediaより抜粋)
梶原一騎原作の漫画『タイガーマスク』から現実のヒーローとして、新日本プロレスに彗星のごとく登場した。また、この時期テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、メディアミックス展開も行っている。初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、1981年4月23日、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦。タイガーとキッドにとって、両者は互いに良きライバルと言え、今なお語られる数多くの激戦を繰り広げた。デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレの空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。そのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」、「四次元殺法」と形容された。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していた。1982年は、1月1日に王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りWWFジュニアヘビー級王座を獲得。5月25日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取し、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。この時期の代表的な好敵手としては、デビュー戦の相手でもあったダイナマイト・キッドをはじめ、ブレット・ハート、ブラック・タイガー、スティーブ・ライト、ピート・ロバーツ、小林邦昭などが挙げられる。また、アントニオ猪木や藤波辰巳と組んでの6人タッグマッチにも出場しヘビー級の外国人選手とも対戦した。ジュニアヘビー級王者としてアメリカのWWFにも遠征し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンやフィラデルフィアのスペクトラムにおいて、ダイナマイト・キッド、カルロス・ホセ・エストラーダ、エディ・ギルバートらを相手に防衛戦を行ったこともある。1982年11月から12月にかけてのWWFサーキットでは、12月4日にマサチューセッツ州スプリングフィールドにて、当時のWWFヘビー級王座のトップコンテンダーだったプレイボーイ・バディ・ローズを下し、12月7日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、当時WWFを主戦場としていたミスター・サイトーことマサ斎藤からも勝利を収めている。サーキット中は、斎藤のパートナーだったミスター・フジや若手時代カート・ヘニングとも対戦した。人気絶頂の最中、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年5月に漫画『タイガーマスク』の原作者である梶原一騎が講談社編集者への暴行容疑で逮捕され、社会的影響度から改名問題が浮上する。8月4日、デビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦の試合前に改名を予告し、ファンに新リングネームを当てさせるクイズ企画も用意された。しかし、8月10日に新日本プロレスに対して契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言した。契約解除の通告書では、タイガー人気で得られた収益が猪木の個人事業「アントン・ハイセル」へ流用されていることを糾弾した。佐山個人は結婚式を海外で極秘に挙げるようフロントから強要されたことに憤りを感じており、タイガーブームの仕掛け人である新間寿と佐山の個人マネージャーだったショウジ・コンチャが対立していたという事情もあった。9月21日付の東京スポーツに素顔の写真が掲載され、タイガーマスクの正体が佐山であることが公開される。テレビ朝日系のバラティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はダイナマイト・キッドをフェンスアウトさせての反則負けであり、シングルとタッグを含めて一度もフォール負けがない。
みなさんいかがだったかしら?「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」に続き、自分の好きなレスラーは入っていたかしら?「プロレス総選挙」を細かく分けていくと意外な選手がランクインするかも知れないわ!あなたもやってみたらどうかしら?次は「日本人ジュニアヘビーレスラー」編でお会いしたいわ!