プロレス総選挙2017 マツド・デラックス的プロレス総選挙!その4 Jrヘビー級日本人レスラー編
2017年5月14日 更新

プロレス総選挙2017 マツド・デラックス的プロレス総選挙!その4 Jrヘビー級日本人レスラー編

さあ「プロレス総選挙2017」!!本編については、もういいわよね!部門別にランキングする事に意外なレスラーがランキングするわ!マツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみると、本当に楽しくてしょうがないわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆にも投稿してもらいたいわよ!それで思い出すレスラーもいるわ!今回は、前回までの「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」「覆面レスラー」に続く「Jrヘビー級日本人レスラー」よ!!

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プロレス総選挙2017の順位結果を発表のおさらいは「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」「覆面レスラー」編で確認を!

前回のまでの「プロレス総選挙2017」の結果、「日本人ヘビー級レスラー」「外国人レスラー」「覆面レスラー」はいかがだったかしら?そこで今回は「Jrヘビー級日本人レスラー」をピックアップして「マツド・デラックス」的にベスト10を作っていきたいと思うわ!この部門は「賛否両論」になると思うわ!だってあのレスラーをワザワザこの階級で紹介するのだもの。あいかわらず自分の好みに偏ってしまうけど、暖かい目で見守ってちょうだい!好きなレスラーに順位をつけるなんてと言うかも知れないけどあえてここでも10人選ばせてもらうわね!

第10位 星野勘太郎

星野勘太郎

星野勘太郎

「突貫小僧」
via imgur.com
「星野勘太郎」と言うとあたしにとってはやっぱり「ヤマハブラザーズ」よね。でも、世代によっては「魔界倶楽部総裁」なのかしら?悪役のイメージを持ってる方もいるかと思うけど、新日の「鬼コーチ」の一人で、尚且つ新日の当時流行った「5対5」では、「正規軍」(ナウリーダー)で活躍していたのよ。「タイガーマスク」が出てくるまでの「ジュニアヘビー」を支えた一人よ!
1961年10月に日本プロレス入門。同年12月22日、東京・リキ・スポーツ・パレスにおける駒厚秀戦でデビュー。1967年4月にアメリカで山本小鉄とタッグチーム「ヤマハ・ブラザーズ」を結成。小型でもパワフルであると評判だったヤマハのオートバイにあやかって名付けられたチーム名で力強いファイトを展開した。テネシーでは観客に発砲されたり、ナイフを脳天に突き立てられた事もある。老人で力が弱かったため深く刺さらず事なきを得た。帰国後の1970年にはアントニオ猪木とのコンビで第1回NWAタッグ・リーグ戦に出場、決勝戦でニック・ボックウィンクル&ジョニー・クイン組を破って優勝している。なお、星野はニック&クイン組とのこの試合を生涯のベストバウトに挙げている。日本プロレス崩壊直前に海外武者修行へ出発し、修行先で崩壊を迎える。帰国後は1974年1月より新日本プロレスに入団し、山本とのタッグを復活させて活躍。1979年1月には国際プロレスのグレート草津、アニマル浜口組からIWA世界タッグ王座を奪取した。当時の新日本の看板タッグ王座は坂口征二・ストロング小林の北米タッグ王座で、新日本では中堅のヤマハが国際の看板タッグ王座を奪取したことで国際の評価は大きく傷付いたという。1980年4月4日には、ヤマハ・ブラザーズで山本の引退試合を行っている。山本が引退後も新日本プロレスで一番の喧嘩屋として「突貫小僧」の異名をとり、UWF軍団との抗争等など外敵退治に活躍する。特にUWFの総大将・前田日明に対しては若手時代から目をかけていたこともあり、敵対心は相当なものであり、試合終了後に単身前田の控え室に殴りこみに行ったこともあった。アントニオ猪木を心から敬愛し、神とあがめるほど。その精神は、乱闘などで猪木を止める際に、前からではなく後ろから抱き着いて止める姿に如実に表れている。1995年2月19日に、両国国技館で木戸修戦を最後に現役を引退。その後は本職では地元の神戸でプロモーターを務める傍ら、2002年8月から「魔界倶楽部」の総裁として現場復帰。リング外での乱闘でボクシング仕込みの自慢のパンチを繰り出していた。決めゼリフの「ビッシビシ行くからな!」は大流行し、プロレス流行語大賞を受賞した。また、この時期の東京ドーム大会における新日本OBバトルロイヤルでは他団体に転出した現役選手も出場した中で見事ヤマハ・ブラザーズで最後の二人に残り、「ヤマハは二人で一つ、二人で優勝」という名台詞で締める場面もあった。魔界倶楽部活動停止以後は、一線から離れていたが、2005年にビッグマウス・ラウドが旗揚げされてからは、再び総裁としてリング外乱闘に復帰した。また新日本プロレスが、過去のギミック・キャラクターを再利用している興行「WRESTLE LAND」を開始し、それに伴い魔界倶楽部も復活した。魔界倶楽部総裁としては常に黒い上下のスーツを身に纏い、悪の総帥を装うが、リングに登場し現役時代から得意であったコーナーポストからのダイビング・ボディ・プレスを見舞おうとする時によく足を滑らせコケたり、登ったのはいいが、やはり足をすべらせて転倒することが多く場内の失笑を誘った。また、横浜ベイスターズの三浦大輔を魔界18号に任命した。また、魔界倶楽部総裁としては、場外乱闘や試合への乱入も辞さない悪の総裁としてのイメージがあるが、元来は反則攻撃の類を嫌っており、2008年9月21日の武藤敬司対真壁刀義のIWGPヘビー級王座選手権では当初は新日本所属の真壁の肩を持つ発言をしていたが、試合ではG・B・Hのあまりのラフファイトぶりに怒り、G・B・Hを鉄拳パンチで制裁した。この事件からG・B・Hの外道との抗争に火が付き、内藤哲也・裕次郎対邪道・外道のIWGPジュニアタッグ王座戦では内藤、裕次郎に味方し、反則攻撃を繰り返す外道を制裁した。一連の外道との抗争に決着をつけるべく、2008年12月22日には「ストリート・ファイト エニウェアフォールマッチ」での外道とのシングルマッチが行われ、ピンフォール勝ちを収めた。プロレス入り前はボクサーを目指していた事もあり、もし自分が全盛期の頃に総合格闘技が存在していたら、挑戦したかったと晩年に語っている。2009年2月4日、都内で倒れ病院に搬送され、脳梗塞と診断された。病後は言語障害が残り、病院でリハビリテーションに励んでいたが[2]、2010年11月25日に入院先の病院にて肺炎のために死去したことが11月27日に新日本プロレス関連会社の新日企画のホームページにて公表され、その後に新日本プロレス公式サイトにて正式な死去告知が行われた。67歳没。ヤマハブラザーズのパートナー、山本小鉄逝去から3ヶ月後、後を追うような最期であった。

9位 山崎一夫

山崎一夫

山崎一夫

「カミソリシューター」
「キックの狙撃手」
via imgur.com
最近ではもっぱら「解説者」のイメージがついてしまった「山ちゃん」だけど、現役時代のギラギラさは誰にも負けなかったんじゃないかしら?「山ちゃん」をジュニア?って思う人が多いかもしれないけど「高田伸彦」との若手時代の名勝負は有名だったわ。新日本時代にジュニアのタイトルを取れなかったのが不思議なくらいのレスラーよね!
1981年に新日本プロレスに入門。細身ながら、同じ頃に若手だった高田延彦らと名勝負を重ねる。この頃の得意技はミサイルキックで、初勝利もこの技でフォールを奪っている。同じ技を得意としていた高田との試合は「青春のミサイルキック合戦」と言われ、第1試合でありながら観客の入りが良く、評価が高かった。この頃に佐山サトルの付き人を務めており、このことが後のプロレス人生やファイトスタイルに大きな影響を与えた。初代タイガーマスクが小林邦昭にマスク剥ぎをされた際には、替えのマスクを持った山崎がリングに上がり、タイガーに被らせる場面がテレビに写され、二度目以降のマスク剥ぎの際には、会場から「山崎(山ちゃん)、早く〜」という悲鳴が上がるようになった。佐山引退後も新日本に残留して前座を沸かせていた。1984年、佐山が第1次UWFへ参加することが決定した際、一緒に入団。前田日明、高田延彦、藤原喜明、木戸修らと活動する。1985年、佐山の第1次UWF退団時に佐山と袂を分かちUWFに残留するも同年12月、団体崩壊に伴い、他選手たちと古巣の新日本に復帰。主にIWGPジュニアヘビー級戦線やタッグ戦線などで活躍し、藤原喜明と共にIWGPタッグ王座を獲得したこともある。1988年、前年の顔面蹴撃事件を元に新日本を退団していた前田が第2次UWFを旗揚げすると、これに賛同し新日本を退団。高田延彦と共に同年5月の旗揚げ戦から参加。以後、主要メンバーの1人として活躍する。特に旗揚げ戦ではメインイベントで前田と対戦し、それまで特に目立った活躍が無かった山崎が、切れ味鋭いハイキックで再三ダウンを奪うなど、エースの前田と互角以上の戦いを繰り広げ、新生UWFのカラーを決定付けた試合として高い評価を受けている。1990年12月第2次UWFは崩壊。1991年、高田延彦らとUWFインターナショナルの旗揚げに参加。高田に次ぐ2番手のポジションに就いた。強豪外国人が参戦した際は高田の前に対戦し、間接的に相手の情報を与えるなど、影のフィクサーとして活躍。目玉選手がいないときは自ら高田の相手となり、「困ったときの山ちゃん頼み」と言われた。1995年7月にUインターを退団し、フリー宣言。古巣・新日本への殴り込みを表明、再復帰を果たした。同年7月25日に当時新日本の別働隊だった平成維震軍興行における後藤達俊戦がフリー第1戦。立場上ヒールの振る舞いを見せていた山崎だったが、ファンは皆彼の「いい人」ぶりを知っており、リングに立った瞬間に大「山崎」コールを送った。またこの年の年末、大阪城ホールで行われた『突然卍固め』興行において、対抗戦で武藤敬司に破れた高田延彦を元気付ける、という名目で組まれた『アントニオ猪木&高田延彦 vs. 藤原喜明&山崎一夫 60分3本勝負』の2本目に、ハイキックからの体固めで猪木よりフォール勝ちをスコアする。これは、1998年に引退した猪木の最後のフォール負けとなる。この後新日本本体の興行にも参戦し、フリー的立場を貫いていたが、所属選手となり新日本本隊と合流。1998年のG1 CLIMAXでは、藤波辰爾、佐々木健介、蝶野正洋と過去のG1タイトルホルダーを破り決勝進出。橋本真也との優勝戦では大激闘の末破れるも、その厳しくもけれんみの無いファイトに多くのファンが惜しみない拍手を贈った。これがレスラー人生最大の晴れ舞台だったと言ってよい。またそれ以降はタッグ戦線での活躍が増え、橋本、飯塚高史(第27代IWGPタッグ王座)、佐々木健介(第32代IWGPタッグ王座)、他にUWF色の強い永田裕志、木戸修とも組み、飯塚高史を加えたユニットは「山崎隊」と呼ばれていた。特にタッグにおいて名勝負が少ないと言われた新日本マットにおいて、蝶野正洋&天山広吉組と山崎&飯塚組のIWGPタッグ王座を巡る攻防は毎回名勝負となり、ファンを沸かせた。2000年1月4日の対永田裕志戦で引退。現在は神奈川県綾瀬市で整体治療院を経営する傍ら、NHKで番組の司会を務めたり、テレビ神奈川でレスラーや関係者との対談番組「最強漬」を持つなど、芸能活動も行っている。またワールドプロレスリングレギュラー解説者としても活躍している。元プロレスラーらしからぬ、とても優しく判り易い口調で喋るのが特徴。一方で熱が入ると選手にマイク越しで発破を掛けることもある。特に2000年4月7日の橋本真也 vs. 小川直也戦ではヒールホールドを極める橋本に「絞めろ絞めろ!」と発破を掛けた。2005年10月、長州力が新日本プロレス現場監督に就任したことを受け、同社道場コーチに就任。

8位 ヒロ斎藤

ヒロ斎藤

ヒロ斎藤

「ミスターセントーン」
「新金狼」
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初めて彼を見た時は「上田馬之助」の二番煎じとしか見てなかったの。ジュニアの中でも地味な存在だった彼だけど、「山本小鉄」に鍛えられた彼のレスラーセンスは素晴らしかったわ。ヒールでありながらジュニアヘビー級の王座を二個も獲るってことは並大抵ではないと思うの。そして得意技が「セントーン」よ!「マイティ井上」の「サマー・ソルトドロップ」と並びあたしにとってはたまらない「技」のひとつなのよね!よってここにランクイン!!
父が厳しく、家を早く出たいと思っていた中学生時代に川崎市体育館で新日本を観戦して「これだ!」と直感しプロレスラーを志す。中学卒業後、アルバイトをしながら山本小鉄に入門を直訴し、1978年に新日本プロレスに入門。1978年8月26日、飯山市民体育館の魁勝司戦でデビューを果たした。当時の若手はジョージ高野、前田日明、平田淳二、保永昇男、高田延彦、高野俊二、新倉史祐、仲野信市など逸材揃い。ニックネームはチョビ。若手時代は、藤波辰巳の付き人を務めた。
1981年、島流し同然でメキシコ遠征に出され現地でグラン浜田、小林邦昭、ジョージ高野とタッグを組む。2年後の1983年、会社とのトラブルでプロレスを辞めようと決め、ジョージがカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングへ転戦する際に仲のよい高野俊二に挨拶しようと同行したところ、ジョージの対戦相手である俊二が急病のため、急遽一試合だけとのことでリングに上がったところ、プロモーターのスチュ・ハートに絶賛され、プロレスを続ける。その際プロモーター側から髪を金髪にするよう要求され、ヒロは「日本人の金髪レスラー」の先人である上田馬之助に許しを得るべく連絡を取り、上田との関係ができる。上田とは日本帰国後も行動を共にし、「人のマネはするな」「大きいやつが小回りきかないようなことをやれ」などレスラーとしての心得を伝授され、スタイルの礎を築く。新日本の大量離脱によって帰国命令が出され、1985年1月に帰国。ザ・コブラのライバルとして台頭し、5月20日には第12代WWFジュニアヘビー級王座を奪取。同じヒール軍団であるマシン軍団と共闘するが、ワカマツらマシン軍団と仲間割れを起こす。8月、新日を離脱しスーパー・ストロング・マシン&高野俊二(現高野拳磁)とカルガリーハリケーンズを結成、全日本プロレスを主戦場にする。フリーのプロダクション形式でどこのリングにでも上がるという現在のプロレス界に多いプロダクション形式の礎となった。1986年7月31日、ブラッド・アームストロングを倒し初代世界ジュニアヘビー級王座となった。1987年4月、全日から新日へUターンの際はカルガリーハリケーンズは解散し、長州力率いるリキ・プロダクションの一員として参加。新日正規軍、長州軍の枠組みが無くなってからは後藤達俊、保永昇男らとヒール・ユニットブロンド・アウトローズを結成。かつての盟友スーパー・ストロング・マシンが加わってからユニット名をレイジング・スタッフに改名。1990年にスーパー・ストロング・マシンと組み第14代IWGPタッグ王座を奪取するも、1993年10月にレイジング・スタッフは分裂、その後しばらくはジュニアタイトル保持の保永をサポート。1995年に蝶野正洋、天山広吉、サブゥーと狼群団を結成。その後nWo JAPAN、TEAM 2000、クレイジー・ドッグスと独自のヒール道を邁進している。2000年にG1 CLIMAXに初出場。予選リーグでは全試合で両者リングアウトを予告、実現させ、リーグ戦を荒らした(その中には優勝者の佐々木健介、当時の同士であった小島聡も含まれる)。これに影響を受けた望月成晃は闘龍門のリングにおいて「両者リングアウト推進委員会」を宣言する。2006年1月末で新日本プロレスを退団。直後から西村修と行動を共にするようになり、その縁あって無我ワールド・プロレスリングへの参戦、後に正式入団する。その後、無我がドラディションに名前が変わった時は藤波辰爾と行動を共にし、レジェンドレスラーの一人として、今なおリングに上がり続ける。2014年12月9日に椿山荘で開催された「X'mas チャリティ・プロレス・ディナーショー!」にザ・グレート・カブキとタッグを組み、天龍源一郎&西村修と対戦した。2016年に再旗揚げされた無我伝承にも西村修と参戦。

7位 保永昇男

保永昇男

保永昇男

「異能の戦士」
「金髪の鷹」
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遅咲きのジュニアヘビー級王者よね!正直、若手の頃は「やられ役」的な立場だったり、おとなしいというイメージが強かったんだけどいつの間にか(笑)「金髪のパンチ」になってたわよね。そして、長年の努力で「ライガー」や「ペガサス・キッド」のライバルとなり「IWGPジュニアヘビー級王者」になるのよ!この人の「フライング・ネックブリーカー・ドロップ」は切れがあったわよね!
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