マスクマンなのに「お前!平田だろ!」と「藤波辰巳」に言われて事が一番印象に残ってるというのが皮肉な結果だけど、こんなに正体がバレていても愛された覆面レスラーはいないんじゃないかしら?ヒールもベビーフェイスもこなせる覆面レスラーとして堂々のランクインよ!
ストロング・マシーンのキャリア(Wikipediaより抜粋)
デビュー当初は「ストロング・マシーン」の呼称・表記だったが現在は「ストロング・マシン」と呼称・表記される場合が多い。将軍KYワカマツに操られる設定で1984年8月24日に後楽園ホールに初登場し、後に2号も出現してマシーン軍団として活動。以降も増殖を続け、3号と4号も登場した。
マシンの本名・経歴・趣味・好きな有名人は不明だが、週刊プロレスの選手名鑑には必ず「好物は中華料理」と6年間載っていた。ブラックになってからはカツカレーに変わっている。レスラーとしての評価も高いが、ストロング・マシーンのマスクもはデザイン・機能性など評価は高い。マスクの目元や口元の開口部は大きいが、二重メッシュ(網目)構造でラメが施されている為キラキラと輝き、素顔は全く見えない。赤、緑、紫、黒系統のマスクを使い分けていた。WAR参戦時に、口の部分が開いたマスクを着用したこともある。額にはSのデザイン文字が入るがレイジング・スタッフ時代はRSとなっていた。このデザインは楳図かずおの作品「笑う仮面」に登場するマスクの不気味さに、平田自身が気に入って取り入れた。桜庭和志がPRIDEのリングに登場する際にマシン風のマスクを被って以来現在でも「仮面39ライダー」のキャラクターとして使われている。一時期、ストロングマシン39号とも名乗っていた。桜庭のほかにも、プロレスラーでは高野俊二、アンドレ・ザ・ジャイアント、マスクド・スーパースター(ビリー・クラッシャー)、ハルク・ホーガン、安生洋二、後藤達俊、石澤常光、高木功、杉浦貴、高山善廣、青木篤志などが次々とマシンマスクを被るため、マシン軍団は現在も増殖し続ける。嘗てのマネージャー若松市政(将軍KYワカマツ)は芦別市議会議員に転じたため、マシン軍団と疎遠となってしまったが、プロレス誌のインタビューで記者からこのことを聞き、「マシンは今も増えてるんですか? 嬉しいなあ」と、マシン軍団の増殖ギミックを喜んでいた。「スーパー・ストロング・マシン」となって「マシン軍団」から離れて活動するようになった以外は、外見上のデザインはほとんど変化ない。 2006年5月13日に行われた第1回WRESTLE LANDにて、久々にスーパー・ストロング・マシンとして試合を行った。今日でも会場人気は高く、「おまえは平田だろ〜」という野次が絶えない。これに対してS・S・マシンは「誰が平田だ?」とやり返す。永田裕志率いる青義軍に加入してからは、マスクの色をメタリックブルーに改めた。 対戦相手が不甲斐無い試合をして負けると、試合後に「○○(対戦相手の名前)が、しょっぱい試合ですいません」と、対戦相手を揶揄するマイクパフォーマンスをする。 また2009年に放送された「アメトーーク」に取り上げられて以来再び注目を集めている。2014年以降試合に出場していない。
6位 エル・カネック
あたしたちの時代で、ヘビー級の外国人マスクマンと言えば「ミル・マスカラス」と「エル・カネック」よね。この人、いまいち強いのか弱いのかわからない所があったのだけど、晩年長い間「UWA世界王者」を保持していたことを考えると、やはり実力者だったのよね。だって、「カール・ゴッチ」を師とし、「ルー・テーズ」を破った男ですもの!
エル・カネックのキャリア(Wikipediaより抜粋)
1971年に「青い王子」を意味するプリンシペ・アスールの名義でデビュー。その後、1973年3月24日にカネックのリングネームで再デビューするが、試合にはほとんど出場せず、中国系メキシコ人レスラーのハム・リーのジムでトレーニングを積んだ。1975年1月29日、LLI / UWAの旗揚げ興行に出場、セミファイナルの6人タッグマッチでドリー・ディクソン&スニー・ワー・クラウドと組み、ミル・マスカラス、エル・ソリタリオ、レイ・メンドーサ組と対戦。以降UWAを主戦場に、1976年12月17日にホセ・トーレスから北部ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす。1978年3月、新日本プロレスに初来日。その後カール・ゴッチの指導を受け、同年8月27日、バラシオ・デ・ロス・デポルテスにてルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。メキシコの団体において初の自国人ヘビー級王者となる。1978年3月の初来日以降、日本では新日本プロレスの常連外国人選手となって活躍。藤波辰巳とは1977年の藤波のメキシコ初遠征以来の因縁があり、日本とメキシコを股にかけて抗争を展開した。カネックは1978年3月の初来日時、いわゆる「敵前逃亡事件」を起こしている。これは、3月30日に予定されていた蔵前国技館での藤波辰巳とのWWFジュニアヘビー級王座戦への出場を当日になって急遽キャンセル、そのまま独断で帰国してしまったものである。やむなくタイトルマッチは中止となり、当日、藤波はイワン・コロフとのシングルマッチを行った。前代未聞の敵前逃亡として話題になったが、カネックは来日中、3月18日の藤原喜明戦および翌19日の木戸修戦で勝利したものの膝を負傷し、その後の6大会を欠場するほどの怪我を負っていた。また、この事件の背景には、新日本サイドがカネックの覆面と藤波のWWFジュニア王座を賭けて戦うコントラ・マッチを直前になって一方的に通告してきたこと、さらに、同じシリーズに参戦していた一部のアメリカ人レスラーが、メキシコ人に対する差別意識から、タイトルマッチ直前の28日深夜に宿泊先のホテルでカネックに暴行を加えていたことなどが発覚している。これらの諸事情が判明したことから、翌1979年4月にカネックは再来日を果たし、藤波のWWFジュニア王座に2回挑戦。以降も常連外国人選手として活躍するなど、敵前逃亡の汚名を返上した。1979年4月の再来日ではMSGシリーズの第2回大会に出場、1981年11月の来日では初代タイガーマスクとも対戦。1983年5月にはIWGP決勝リーグ戦に中南米代表として出場している。1979年4月22日にはUWAの総本山エル・トレオにてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1981年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦した。同年は新日本プロレスのブッキングでアメリカのWWFにも出場し、8月24日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダから勝利を収めた。1984年はアンドレ・エル・ヒガンテことアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、1月15日のタッグマッチと2月12日のシングルマッチの2試合において、アンドレをボディスラムで投げることに成功している。同年9月2日にはエル・トレオにてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦、UWAとWWFの両世界王者対決が行われた。1988年からはビッグバン・ベイダーとの抗争を開始。1989年11月22日にベイダーに敗れUWA世界王座から陥落するが、翌1990年12月9日に奪回。以後、1990年代はグレート・コキーナ、ブルー・ブレイザー、バンピーロ・カサノバ、ヤマト、ブラック・マジック、ミゲル・ペレス・ジュニアなどの外敵を迎え撃った。1992年にはW★INGプロモーションに来日、ミル・マスカラスとの日本における初対決が実現し、マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座とカネックのUWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われた。1995年にはレッスル夢ファクトリーの旗揚げ興行に参戦している。1996年のUWA崩壊後はAAAに主戦場を移したが、以降もUWA世界王座を自身の象徴として保持、2004年6月18日にドクトル・ワグナー・ジュニアに敗れるまで戴冠を続けた。2001年12月23日、DEEP2001に出場予定だったドス・カラス・ジュニアの代打として久々に来日し、総合格闘技に初挑戦。大刀光と対戦し、1ラウンド4分55秒、パウンドでTKO勝ちを収めた。
5位 ザ・デストロイヤー
日本人で「マスクマン」又は「覆面レスラー」と言ったら年配の方はこの「ザ・デストロイヤー」をあげる方が多いのではないかしら?実力があるレスラーながら、日本のバラエティー番組に出演したり、CMにも出演したのわ有名よ。全日本プロレスでの「ジャイアント馬場」没後の引退試合での日本語での挨拶にはあたしも涙したわ。
ザ・デストロイヤーのキャリア(Wikipediaより抜粋)
1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒールの覆面レスラー「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー」に変身。ロサンゼルスのWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界ヘビー級王座を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。1964年には7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、世界タッグ王座にも2回戴冠した。NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションやニック・ボックウィンクルと抗争。テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラーと組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している。1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座に挑戦。1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた。以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、クラッシャー・リソワスキー、ビル・ロビンソン、レッド・バスチェン、ワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した。全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどと名勝負を残した。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田や大仁田厚、渕正信らが教えを受けている。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダのトロントやモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ビル・ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFのハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している。アメリカに戻ってからは年1回、全日本プロレスの「サマー・アクション・シリーズ」での特別参戦を続け、1993年に引退。その後アメリカ・アクロンの高等学校で体育教師、水泳教室のインストラクターも務めた。その後もたびたび来日し、日本のプロレス界やマスコミに登場を続けている。2007年には「レッスルキングダム2」の宣伝のためにブッチャーと共に登場した。同年12月20日に有明コロシアムで行われた、アントニオ猪木が主催するIGFプロレスリング「GENOME2~猪木 Fighting Xmas~」に特別立会人として来日。カート・アングルとケンドー・カシンの一戦では、場外でイスを振るおうとしたカシンを制止し、会場のファンから大歓声を浴びた。2011年8月27日、『ALL TOGETHER 東日本大震災復興支援チャリティープロレス』に登場。「デストロイヤー杯争奪 ALL TOGETHER スペシャルバトルロイヤル」の立会人をつとめた。
第4位 タイガーマスク(二代目)
あたしにとって「タイガーマスク」はここまでなの。そして、最も哀しい「タイガー」はやっぱり二代目よね。本当にやりたいプロレスが出来なかった事や、作られた「ビジネスタイガー」がのちの悲劇につながって行くと考えるあたしは、肩入れしすぎてるのかしら?もっと彼のプロレスが見たかったわ。
タイガーマスク(二代目)のキャリア(Wikipediaより抜粋)
1984年8月26日、田園コロシアムでのラ・フィエラ戦[で2代目タイガーマスクとしてデビュー。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、1985年8月31日に小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得したが、同年10月にヘビー級に転向。1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" に御大のジャイアント馬場と組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートを破るも、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した。翌20日にはミネソタ州ミネアポリスのメトロドームで開催されたAWAの "WrestleRock 86" に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた。1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。空中技を多用したことで膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会参戦。なお、全日本プロレスは「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、技の名前には「タイガー・スープレックス84」といった具合に開発年がついている。