イランイラク戦争の原因は?
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宗教的にも文化的にも似ているように思われる、イランとイラクの対立の原因も宗教と石油資源でした。
イスラム教徒の中にも、スンナ派とシーア派という派閥があり、当時イラク大統領のサダム・フセインはスンナ派を信仰していたのです。
当時のイラク近隣諸国では、スンナ派がほとんどでした。
ところがイランでは、1979年にホメイニ師率いるシーア派がイラン革命を起こして、周辺とは異なるイスラム共和制の国家を建設したのでした。
イラン革命によって、対立するシーア派の政権が誕生したことを警戒し、対立を深めていきます。
またイランとイラクはペルシャ湾の油田を巡っても争っていて、イランから革命の混乱に乗じて油田の支配権を奪うことを目論んでいたのでした。
そうして、イランとイラクは宗教と油田を巡り対立を深めていきます。
イスラム教徒の中にも、スンナ派とシーア派という派閥があり、当時イラク大統領のサダム・フセインはスンナ派を信仰していたのです。
当時のイラク近隣諸国では、スンナ派がほとんどでした。
ところがイランでは、1979年にホメイニ師率いるシーア派がイラン革命を起こして、周辺とは異なるイスラム共和制の国家を建設したのでした。
イラン革命によって、対立するシーア派の政権が誕生したことを警戒し、対立を深めていきます。
またイランとイラクはペルシャ湾の油田を巡っても争っていて、イランから革命の混乱に乗じて油田の支配権を奪うことを目論んでいたのでした。
そうして、イランとイラクは宗教と油田を巡り対立を深めていきます。
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そしてとうとう、1980年イラクがイランに侵攻し、イランイラク戦争が勃発します。
ホメイニ師は、革命によって親米である前政権を倒したため、革命が他の中東諸国に波及することを恐れた大国(アメリカ・ソ連)はイランを支援しました。
そのため当初の戦況はイラクが優位でしたが、隣国のシリアがイランを支援したため、戦争は長期化していきます。
ホメイニ師は、革命によって親米である前政権を倒したため、革命が他の中東諸国に波及することを恐れた大国(アメリカ・ソ連)はイランを支援しました。
そのため当初の戦況はイラクが優位でしたが、隣国のシリアがイランを支援したため、戦争は長期化していきます。
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1982年にはシリア経由のパイプラインが止められ、イラクは石油の輸出が出来なくなりました。
同年6月にはイラクの侵攻で奪われていたほぼ全土の領土を奪還し、逆にイラク国内への攻勢を開始します。
イラン勝利もあり得ると考えたイラク側は休戦を持ち掛けますが、ただホメイニ師がフセイン政権打倒に固執したために、休戦には至りませんでした。
また同じ年にシリアの占領下にあったレバノンにイスラエルが侵攻し、レバノン内戦が再燃したため、欧米の目はレバノンの方に向くようになっていきます。
そしてソ連もアフガニスタン侵攻で手間取ったため、世界の注目はイランイラク戦争から離れていきました。
アメリカ軍が撤退すると、再びイランイラク戦争は激化していきます。
イラク軍による化学兵器や毒ガスの使用で、シーア派に多数の犠牲者を出しました。
こうして戦争に対する国際的非難が高まっていく中、イラクはアメリカと国交を回復しアメリカからの援助は公式な物となります。
1987年に、イランはイラクからの独立を目指すクルド人に反乱を起こすように仕向け、イラク軍の弱体化を狙いましたが、鎮圧のためにイラクはなんとクルド人に化学兵器を使用したのでした。
このことがわかるとイラン軍の士気は低下していきます。
そして1989年6月イラン革命の指導者ホメイニ師が死去すると、翌1990年にはイランイラク間で国交が回復したのでした。
同年6月にはイラクの侵攻で奪われていたほぼ全土の領土を奪還し、逆にイラク国内への攻勢を開始します。
イラン勝利もあり得ると考えたイラク側は休戦を持ち掛けますが、ただホメイニ師がフセイン政権打倒に固執したために、休戦には至りませんでした。
また同じ年にシリアの占領下にあったレバノンにイスラエルが侵攻し、レバノン内戦が再燃したため、欧米の目はレバノンの方に向くようになっていきます。
そしてソ連もアフガニスタン侵攻で手間取ったため、世界の注目はイランイラク戦争から離れていきました。
アメリカ軍が撤退すると、再びイランイラク戦争は激化していきます。
イラク軍による化学兵器や毒ガスの使用で、シーア派に多数の犠牲者を出しました。
こうして戦争に対する国際的非難が高まっていく中、イラクはアメリカと国交を回復しアメリカからの援助は公式な物となります。
1987年に、イランはイラクからの独立を目指すクルド人に反乱を起こすように仕向け、イラク軍の弱体化を狙いましたが、鎮圧のためにイラクはなんとクルド人に化学兵器を使用したのでした。
このことがわかるとイラン軍の士気は低下していきます。
そして1989年6月イラン革命の指導者ホメイニ師が死去すると、翌1990年にはイランイラク間で国交が回復したのでした。
両国の被害
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両国の犠牲者は100万人とも言われ、甚大な被害を出しました。
また経済的な損失も大きく、クウェートに抱えたいた負債を帳消しにするため、クウェートに侵攻し湾岸戦争に繋がったのではないか?とも言われています。
お金を借りておいて、踏み倒すために侵攻したのであれば本当に理不尽ですが、戦争とはそもそも欲から始まる物ですから、特別ではないのかもしれません。
それにしても、イランイラク戦争が終結してすぐに始まった湾岸戦争では、イラクは欧米を相手に戦っています。
イランイラク戦争では、アメリカはイラクを支援していたということで、敵と味方とは紙一重なのでしょう。
また経済的な損失も大きく、クウェートに抱えたいた負債を帳消しにするため、クウェートに侵攻し湾岸戦争に繋がったのではないか?とも言われています。
お金を借りておいて、踏み倒すために侵攻したのであれば本当に理不尽ですが、戦争とはそもそも欲から始まる物ですから、特別ではないのかもしれません。
それにしても、イランイラク戦争が終結してすぐに始まった湾岸戦争では、イラクは欧米を相手に戦っています。
イランイラク戦争では、アメリカはイラクを支援していたということで、敵と味方とは紙一重なのでしょう。
イランイラク戦争と日本
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イランイラク戦争が長期化していた1985年に、日本のイラン在留邦人を助けてくれた国がありました。
両国の都市爆撃が続く中、3月17日にイラクのフセイン大統領は、イラン上空を飛ぶ航空機は全て爆撃すると宣言したのです。
猶予期限は48時間…。
日本人以外の外国人は、全て自国の航空会社や軍の救援機でイランから脱出していきました。
でも当時の日本は自衛隊が、海外に救援機を飛ばすことが出来ず、日本航空にチャーター機を依頼しました。
でも労働組合は、パイロットや乗務員の安全が保障できないため拒絶したのです。
在イラン大使館は、各国と交渉したものの自国民の救出に手一杯で希望者全員を乗せることは出来ないでいました。
土壇場で個人的な親交に望みを繋いだ、野村豊在イラン特命全権大使がイスメット・ビルセル在イラン・トルコ特命全権大使に救援を要請したところ、なんとトルコ政府が応じてくれたのです。
ターキッシュ・エアラインズの自国民救援のための最終便を2機に増やしたため、215名の在留邦人がそれに分乗してイランを脱出に成功しました。
タイムリミットの1時間15分前だったのです…。
ギリギリのところで救われた在留邦人。
隣接する自国民の救援よりも優先してくれたトルコは、1890年にエルトゥールル号遭難事件で日本から受けた恩義を返してくれたと言われています。
両国の都市爆撃が続く中、3月17日にイラクのフセイン大統領は、イラン上空を飛ぶ航空機は全て爆撃すると宣言したのです。
猶予期限は48時間…。
日本人以外の外国人は、全て自国の航空会社や軍の救援機でイランから脱出していきました。
でも当時の日本は自衛隊が、海外に救援機を飛ばすことが出来ず、日本航空にチャーター機を依頼しました。
でも労働組合は、パイロットや乗務員の安全が保障できないため拒絶したのです。
在イラン大使館は、各国と交渉したものの自国民の救出に手一杯で希望者全員を乗せることは出来ないでいました。
土壇場で個人的な親交に望みを繋いだ、野村豊在イラン特命全権大使がイスメット・ビルセル在イラン・トルコ特命全権大使に救援を要請したところ、なんとトルコ政府が応じてくれたのです。
ターキッシュ・エアラインズの自国民救援のための最終便を2機に増やしたため、215名の在留邦人がそれに分乗してイランを脱出に成功しました。
タイムリミットの1時間15分前だったのです…。
ギリギリのところで救われた在留邦人。
隣接する自国民の救援よりも優先してくれたトルコは、1890年にエルトゥールル号遭難事件で日本から受けた恩義を返してくれたと言われています。
トルコ機は自国が近隣に位置することから陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を最優先し、実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出した。このようなトルコ政府とトルコ航空の厚情の背景には、1890年(明治23年)日本に親善訪問した帰途、和歌山沖で遭難したフリゲートエルトゥールル号救助に際し日本から受けた恩義に報いるという意識もあったと言われている[27]。
2015年、日本・トルコ修好125周年を記念し、エルトゥールル号遭難事件とテヘラン邦人救出劇を描いた映画『海難1890』が日本・トルコ合作映画として製作された。
まとめ
今回は「1980年代・イライラ戦争と呼ばれたイラン・イラク戦争の原因や結果は?」についてご紹介しました。
イランもイラクも歴史が古く、優れた文化を持つ国です。そこに暮らす人々や優れた文化財のためにも平和を願わずにいられません。
イランもイラクも歴史が古く、優れた文化を持つ国です。そこに暮らす人々や優れた文化財のためにも平和を願わずにいられません。
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