日本政府が邦人215を見殺しに
皆さんは、1980年から1988年にかけてイランとイラクの間で行われた戦争を覚えていますか?この時危険な状態となったイランから、各国の人たちは早急に国外に脱出をしたのですが、救援機を手配できない日本は、遂に邦人の救援を断念。取り残された邦人215人が、命の危機に襲われたのでした。この時、自国民より優先して日本人のために救援機を派遣してくれたのがトルコだったのです。
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刻々と緊迫化していくイラン・イラク戦争の最中、イラクのフセイン大統領が、今後48時間以降にイラン上空を飛行する航空機は、全て撃墜すると発表したのです。世界各国が自国民のために救援機を派遣する中、215人の日本人はなかなか来ない救援機を待ったままイランに取り残されてしまったのです。
自衛隊機を海外に出せない日本政府は、民間機に救援機の依頼をしますが難しく、結局は邦人の救出をしないことを決定します。まさに215人もの自国民を見殺しにしたのです。そんな絶望的な事態の中で、なんとトルコ政府が日本人の救出に救援機を派遣したのです。いったい何故、トルコ政府がそんなことをしたのでしょうか。
自衛隊機を海外に出せない日本政府は、民間機に救援機の依頼をしますが難しく、結局は邦人の救出をしないことを決定します。まさに215人もの自国民を見殺しにしたのです。そんな絶望的な事態の中で、なんとトルコ政府が日本人の救出に救援機を派遣したのです。いったい何故、トルコ政府がそんなことをしたのでしょうか。
始まりはエルトゥールル号の海難事故から
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始まりは、明治20年にまで遡ります。小松宮彰仁親王殿下がオスマン・トルコを訪問した返礼として、フリゲート艦エルトゥールル号に乗船した親善使節団が日本に向かうことになったのです。明治23年6月7日に横浜港に到着したエルトゥールル号は、明治天皇への謁見など両国の修好を行い、同年9月15日に帰国のため横浜港を出港します。
エルトゥールル号は建造後26年も経つ木造船でもあり、日本側は出発前の修理を進めましたが、帰途の遅れを無くすため予定通りに出港。しかし翌日の9月16日、和歌山県串本町沖を航海中に台風に襲われ、強烈な高波と強風のため座礁してしまったのです。破損したところから船内に海水が流れ込み、機関の爆発を誘因、乗員587名が亡くなり、生存者69名という大事故になったのでした。
エルトゥールル号は建造後26年も経つ木造船でもあり、日本側は出発前の修理を進めましたが、帰途の遅れを無くすため予定通りに出港。しかし翌日の9月16日、和歌山県串本町沖を航海中に台風に襲われ、強烈な高波と強風のため座礁してしまったのです。破損したところから船内に海水が流れ込み、機関の爆発を誘因、乗員587名が亡くなり、生存者69名という大事故になったのでした。
村民総出による救出と献身的な手当
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爆発を起こして沈没したエルトゥールル号。この時の爆発音は、大島村にも達したそうです。それで村人は事故を知り、村民総出で乗組員の救出にあたるのです。漆黒の海に投げ出された乗組員たちは、ぼーっと見える樫野崎灯台の光だけを目指して必死で泳ぎ着き、崖を登って灯台の職員に助けを求めたのです。
最初は驚いていた灯台の職員も、国賓として訪日していたエルトゥールル号の乗組員だとわかり、全村民をあげての大救出劇の幕が開きます。全村民は、家にある全てのものを持ち寄り、献身的な救助活動をしました。大島は、村が3つだけの小さな離島で物資も不十分でした。更に間の悪いことに、台風続きで漁もできず日々の食料にも困っていた矢先だったのです。それでも大島の人たちは、備蓄していた米・卵・サツマイモなどだけでなく、非常用に飼っていた鶏すらも持ちより、遭難者の救護を行ったのでした。
最初は驚いていた灯台の職員も、国賓として訪日していたエルトゥールル号の乗組員だとわかり、全村民をあげての大救出劇の幕が開きます。全村民は、家にある全てのものを持ち寄り、献身的な救助活動をしました。大島は、村が3つだけの小さな離島で物資も不十分でした。更に間の悪いことに、台風続きで漁もできず日々の食料にも困っていた矢先だったのです。それでも大島の人たちは、備蓄していた米・卵・サツマイモなどだけでなく、非常用に飼っていた鶏すらも持ちより、遭難者の救護を行ったのでした。
帰国を援助
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遭難のことが日本政府にも伝わり、なんとか生存者を無事に神戸に搬送します。報告を聞いた明治天皇は、政府に全ての援助を行うよう指示。そして各新聞が大きなニュースとして報道して、日本中から義捐金や弔慰金も寄せられたのでした。
大勢の乗組員が亡くなった中でなんとか生還できた69名の生存者は、神戸で治療を受けた後、2隻の日本海軍の船に分乗して帰国の途についたのです。そして翌明治24年1月2日には無事帰国を果たし、イスタンブールに入港したのでした。その時、トルコ国民の皆さんの心からの感謝の気持ちに、日本船が迎えられたのは言うまでもありません。
大勢の乗組員が亡くなった中でなんとか生還できた69名の生存者は、神戸で治療を受けた後、2隻の日本海軍の船に分乗して帰国の途についたのです。そして翌明治24年1月2日には無事帰国を果たし、イスタンブールに入港したのでした。その時、トルコ国民の皆さんの心からの感謝の気持ちに、日本船が迎えられたのは言うまでもありません。
まさに奇跡の救出劇
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話は戻って、イラン・イラク戦争。今から48時間後にイランの上空を飛行する航空機は無差別に攻撃するというフセイン大統領の発表により、滞在中の日本人は大急ぎでテヘラン空港に向かいます。ところが、どの飛行機も満席で搭乗できない状態で、日本からの援助機を待つのみとなっていました。
世界の国々は救助機を派遣し、次々と自国民救出の救出をしていきます。しかし当時の中曽根内閣は、航空機の安全が確保できないとして邦人の救助を否定したのです。まさに残った215人は母国から見捨てた状態になってしまったのでした。空港にいた日本人の皆さんは、きっと絶望の淵に立っていたことでしょう。しかしその時、トルコから派遣されたトルコ航空機が彼らの前に現れたのです。そして、215人全員を乗せて国外に脱出します。無差別攻撃が始まる僅か1時間前の救出劇でした。まさに感動的な救出劇となったのです。
世界の国々は救助機を派遣し、次々と自国民救出の救出をしていきます。しかし当時の中曽根内閣は、航空機の安全が確保できないとして邦人の救助を否定したのです。まさに残った215人は母国から見捨てた状態になってしまったのでした。空港にいた日本人の皆さんは、きっと絶望の淵に立っていたことでしょう。しかしその時、トルコから派遣されたトルコ航空機が彼らの前に現れたのです。そして、215人全員を乗せて国外に脱出します。無差別攻撃が始まる僅か1時間前の救出劇でした。まさに感動的な救出劇となったのです。
時空を経たエルトゥールル号の恩返し
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実は、日本人の皆さんを救出しているその時、脱出ができていないトルコ人の皆さんも大勢いたのです。これは、自国が近隣にあるため陸路での脱出も可能な自国民より日本人救出を最優先とし、救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路で自動車に分乗して脱出をしたそうです。これはいくら感謝をしてもしきれるものではありませんよね。
では何故トルコの航空機が日本人を救助してくれたのか?日本政府もマスコミも理解ができなかったようです。それがわかったのが駐日トルコ大使が言った言葉でした。「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と。エルトゥールル号のことはトルコ人なら誰もが知っている事実で、日本人が乗組員に行った救助活動のことは、トルコ人なら今でも感謝をしているとか。そのために途方に暮れる日本人の皆さんを助けるために、トルコの航空機が向かったのは当然のことだったというのです。
今の日本人には、希薄になってしまった感謝を知る気持ち。まさに知らぬは日本人ばかりなり、少しは見習わないといけませんね。
では何故トルコの航空機が日本人を救助してくれたのか?日本政府もマスコミも理解ができなかったようです。それがわかったのが駐日トルコ大使が言った言葉でした。「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と。エルトゥールル号のことはトルコ人なら誰もが知っている事実で、日本人が乗組員に行った救助活動のことは、トルコ人なら今でも感謝をしているとか。そのために途方に暮れる日本人の皆さんを助けるために、トルコの航空機が向かったのは当然のことだったというのです。
今の日本人には、希薄になってしまった感謝を知る気持ち。まさに知らぬは日本人ばかりなり、少しは見習わないといけませんね。
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