初めて海を渡った侍はマッシー村上【村上雅則】
2019年6月18日 更新

初めて海を渡った侍はマッシー村上【村上雅則】

「ビッグフライ!ホームラン!オオタニさーん!」と連日お茶の間のスポーツニュースで大リーグで活躍している日本人大リーガーが報道されています。今では当たり前になっている日常ですが、1ドル360円のころの1960年代にたった一人で大リーグで活躍している日本人がいました。あなたは知っていますか?その名はマッシームラカミこと、村上雅則選手です。

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ナウ・ピッチング!ナンバー・テン・マサノリ・ムラカミ

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1964年9月1日東京オリンピック開催まであと1ヶ月と日本中が盛り上がりを見せているときに、一人の若者が「ナウ・ピッチング!ナンバー・テン・マサノリ・ムラカミ」と場内アナウンスでコールされ、ニューヨークメッツの本拠地シェアスタジアムのマウンドに向かいました。

その若者は、日本のプロ野球で読売ジャイアンツが、まだV9のV1もしていない1964年に、サンフランシスコジャイアンツのユニフォームに袖を通した村上雅則投手その人でした。「ムラカミマサノリ」の「マサノリ」が発音しづらくて「マッシー」が愛称になりました。

村上雅則投手とは

村上雅則(むらかみまさのり)
愛称:マッシームラカミ
1944年5月6日生まれ
183cm72kg
左投げ左打ち
ポジション:投手

少年時代から高校時代

1944年山梨で生まれ、厳格な父のもと医者になるように厳しく育てられた村上雅則は、運命なのかソフトボールをやるようになる。しかし、父には言えずグラブも無く素手でやるほどでした。(のちにグラブは買ってもらった)

そんな村上雅則は、中学時代は父親の命令で柔道部に入部。しかし3ヶ月で退部。内緒で野球部に入部しました。父にはすぐバレて、勉強と両立することで許された経緯を持っています。

野球経験もわずか1年ちょっとの村上雅則少年は、なんと東京の名門法政二高に入学しました。この時点で父の夢であった息子を医者にする夢は消えました。村上雅則に待ち受けていたのは、シゴキとも言われる厳しい練習でした。同級生の約200人が入部し、ほとんど実績もない雅則少年は毎日必死についていき、最後は30名に残ったのでした。厳格な父に育てられた経験が活きた証と言えるでしょう。

そんな法政二高野球部ですが、1学年上の先輩にのちに赤い手袋でおなじみのジャイアンツのトップバッター柴田勲がいました。柴田勲擁する法政二高は1960年夏、1961年春と甲子園大会で優勝し、村上雅則も1961年の春は甲子園に出場しました。しかし骨折や食中毒などで、その後の成績はよくありませんでした。

アメリカ留学

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1962年当時はドラフト制度は無く、高校在学中に球団の監督やスカウトが直接入団を交渉する時代でした。そんな中、南海ホークス(親会社は大阪に本社を置く大阪と和歌山を結ぶ鉄道会社南海電鉄)の鶴岡一人監督が、野球留学をさせるからという条件で、勧誘にきました。

当時南海ホークスは若手選手を本場アメリカに野球留学をさせるという画期的なことをしていました。大学進学を決めていたが、野球留学が決め手で入団を承諾しました。

フレズノへ派遣

村上雅則が入団して2年目の1964年に、2人の新入団選手と3人で、ついに海を渡りました。留学先は名門サンフランシスコジャイアンツの1A(シングルエー)のフレズノに派遣されました。メジャーリーグの下に、マイナーリーグ3A、2A、1Aと支配下球団があり、それぞれが独立採算で運営しています。日本で言うと4軍に該当する。

この時の契約がのちに問題となるのだが、ジャイアンツ側はもしメジャー昇格者が出たら、1万ドルの金銭トレードができると条件提示しました。南海側はメジャーに昇格できるはずないと、OKと承諾しました。

当初は6月頃には南海に戻るはずでしたが、南海ホークスは野村克也や杉浦忠、スタンカなどのスター選手が活躍していて、戻っても戦力にならないので、そのままフレズノに残りました。この決断がのちに歴史的快挙を生むとは誰も予想していませんでした。

サンフランシスコジャイアンツへ昇格

フレズノでは789回を投げるクローザーを任され、村上雅則の好投で8月には首位を独走し、中旬には優勝も確実と言われていました。メジャーリーグでは9月1日になるとベンチ入り選手が、25名から40名になります。スタッフがフレズノからも選手が昇格されるかもと囁く場面が増えました。とは言えチームにはホームラン王と打点王、最多勝投手もいるので、呼ばれてその辺の選手だろうと村上雅則は思っていました。

8月29日フレズノの監督から「マッシー、君が昇格だよ」と告げられ、8月31日には対戦相手ニューヨークメッツの本拠地ニューヨークへ飛び立ちました。9月1日に初めてメジャーのユニフォーム、それもサンフランシスコジャイアンツのユニフォームを着ました。しかしアンダーシャツはフレズノのままで、カラーがライバルドジャースブルーだったために、注意され慌てて袖を切ったと言うエピソードも残しています。

他にもエピソードはあり、9月1日に契約書にサインをする段階で全く英語がわからないため、頑なに拒否していました。なんとか試合開始15分前にサインをしました。渡米前に契約書には十分注意しなさいと教えを守ったためです。メジャーリーグの契約書を頑なに拒否した日本人選手は後にも先にも村上雅則だけだったでしょう。

メジャー初勝利

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冒頭でもご紹介したように、9月1日に昇格していきなり初登板。8回裏の登板を任されました。試合は4対0で負けていたので、初登板は投げても1イニングでした。ブルペンからマウンドに向かう村上雅則は、緊張をほぐすために、「上を向いて歩こう(アメリカではスキヤキソング)」を歌っていました。村上雅則の目に4万人の大観衆と自分を照らすカクテル光線はどのように映ったのでしょう。想像するだけでトリハダがたちます。

初登板は三振、ヒット、三振、ショートゴロと打ち取り、メジャー初登板を見事失点ゼロで抑えました。

初勝利の場面はそれからほぼ1ヶ月後の9月29日の対コルト'45s(のちのヒューストンアストロズ)戦の同点の9回表に登板しました。チームが11回裏にサヨナラ勝ちをしてメジャー初勝利をあげました。その後多くの日本人選手が夢と希望を持って海を渡りましたが、1勝もあげられず、帰国した選手がいる中で、歴史的快挙を成し遂げました。

メジャー昇格の成績は8試合に登板し1勝1セーブで防御率は1.80と素晴らしい1年目を終えました。

二重契約問題

SFジャイアンツと契約し、南海の反対を押し切って、そのまま渡米するかと思われた村上だが、1月29日に大阪入り。1月31日から南海の自主トレに参加し、翌2月1日、南海とあらためて契約書を交わした。

 帰国時、羽田空港で記者の質問に英語で答え、「日本語を忘れたのか」と一喝された村上。その後も「アメリカでやりたい」と繰り返していたが、この契約の後は、
「南海でプレーすることに決めました。向こうがどう言おうと、監督さんが話をつけてくれると思います」と淡々と語っていた。気持ちは完全にメジャーだったが、周囲の反対に押し切られたというところか。
 南海・新山社長は
「村上選手は南海の選手である。サンフランシスコ・ジャイアンツとの契約は無効だ」
 と強気に話した。
 が、これはいくらなんでも無理がある。特にアメリカでは契約は絶対だ。

 SFジャイアンツは大激怒。すでに来季のシーズンチケットの前売りの際、村上の名前を出し、在留邦人から人気を呼んでいただけになおさらだったようだ。さらに「このようなやり方で約束を反故にするとはおかしいではないか」と米コミッショナー、フリック氏からの抗議文が南海に届く騒ぎとなった。
 結局、すべては日米のコミッショナー裁定で決まる、となったようだ。
村上雅則を語る上で避けて通れないのが二重契約問題です。メジャーのシーズンを終えて、南海ホークスからの音沙汰も無いまま、村上雅則は世話人のアドバイスもあり、サンフランシスコジャイアンツと来シーズンの契約をしました。

その後帰国した村上雅則は、南海ホークスとも契約してしまい二重契約問題に発展。日米両コミッショナーを巻き込んで、決定が出るまで試合に出場はできませんでした。5月になってようやく裁決がくだされ、再渡米の許しが出ました。
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