力道山なら勝てる!アメリカに勝てる! 敗戦で傷ついた日本人に勇気を与えたヒーロー
2017年6月21日 更新

力道山なら勝てる!アメリカに勝てる! 敗戦で傷ついた日本人に勇気を与えたヒーロー

敗戦により荒廃し、占領された日本で、からだの大きな外人レスラーを叩きのめして、投げつけることで、鬱積とした日本人の感情を力道山は爆発させ勇気を与えた。

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リキスポーツパレス

リキスポーツパレス

街頭テレビでシャープ兄弟戦が写し出されてから3年後。
全国で5万台だったテレビは、100万台が普及した。
そしてプロレス中継が始まった。
視聴率は87%に達した。
1世帯が1ヶ月3万円で暮らしていた時代に、力道山の1試合のギャラは250万円だった。
力道山の故郷がある朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争のためにアメリカ軍が、様々なものを発注し日本は好景気だった。
力道山は、プロレスラー、プロモーターに加え、リキアパート、リキマンション、リキスポーツパレスを建設し実業家にもなった
リキスポーツパレスは、東京都渋谷区大和町76(現:道玄坂)にあった。
地上5階、地下1階。
1階はトレーニング場。
2階はリングが設置された試合場。
その他にもサウナ、レストラン、ボウリング場などがあった。
エディ・タンゼント

エディ・タンゼント

トレーニング場は、昼間はプロレスラーが使い17時からリキボクシングジムのボクサーが使った。
力道山の進出にボクシング界は拒否の空気が強かった。
力道山は、重量級のボクサーを育てたかった。
ボクシング界は、ボクシングのイメージダウンと興行を引っ掻き回されたくないという懸念があった。
全日本ボクシング協会の本田明会長は、東日本を取り仕切って睨みをきかせる大親分:住吉連合の阿部重作会長を仲介人にして力道山と手打ちを行った。
力道山はただのオーナーとして背後に回りあまり表に出ないことなどを約束した。
後にリキボクシングジムには、エディ・タンゼントがハワイから呼ばれ、藤猛という世界チャンピオンを輩出した。
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力道山の弟子のしごきはすごかった。
それはトレーニングだけでなく私生活にもおよび、ウィスキー1本を一気飲みさせ、飲めないと殴った。
そして自ら飲んでみせ、飲み干したコップをバリバリと嚊んで食べた。
弟子も仕方なく口の中を血だらけにしながらガラスを噛んで砕いて飲んだ。
酒場で会ったアメリカ人に
「ワシらはビクともしないぞ」
と野球の硬球を渡し、弟子の顔に向かって投げさせた。
大木金太郎は、力道山に呼ばれたら、棒をもっていった。
それは自分が叩かれるための棒だった。

馬場と猪木

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馬場正平は、プロ野球の巨人ジャイアンツに4年間在籍していたが、右肘を痛め退団。
再起を賭け、大洋でテストを受けるため明石市でのキャンプに参加。
しかし風呂場で転んで右肘の腱を断裂してしまい、野球人生を断たれた。
その後、出版社に就職を決めたが、力道山に誘われプロレス入りした。
203㎝、125㎏。
22歳だった。
 (1877654)

馬場のスカウトに成功した力道山は、彼を日本に残して、ブラジルへ旅立った。
そして3年前に移民し、サンパウロで中央青果市場で働く猪木寛至と出会った。
17歳の猪木は、192㎝、90㎏。
ブラジルの陸上選手権少年の部で砲丸投げと円盤投げで優勝していた。
猪木をホテルに呼んだ。
「裸になれ」
「背中をみせろ」
そして
「よし日本に行くぞ」
このたった三言で猪木はプロレスラーになった。
ブラジルから帰国した翌日、奇しくも馬場と猪木は、同日入門発表となった。
同時入門した2人を力道山は徹底的にしごいた。
【腕ひしぎ逆ブログ】 祝!! 闘魂五十年 (1880194)

馬場は、合宿所住まいを免除され、アパートからジムに通った。
猪木は、合宿所どころか力道山の家に住み込みになった。
馬場は純粋なプロレス練習生だったが、猪木は付き人だった。
猪木を含め、前座やそれ以前の者の給料は小遣い程度だった。
馬場だけは月給制で、それも巨人時代と同じ50000円だった。
2人は、苛烈なトレーニングを課された。
スクワットを毎日2000~3000回。
流れる汗がバケツをまいた水のように床にたまった。
気を抜けば、力道山に木刀を振り下ろされた。
練習が終わると馬場はアパートに引き上げた。
しかし猪木は力道山の付き人となった。
力道山が車で家に帰ってきたら飛び出して門を開けた。
車を磨き、靴を磨き、力道山が出かけるときは靴ベラを渡した。
試合が終わった力道山を足の指の間までタオルでふいた。
無理やり酒を飲まされた。
気持ち悪くなり吐いても、また飲まされた。
馬場はトレーニング以外で殴られることはなかったが、猪木は私生活でもことあることに殴られた。
猪木は、力道山を後ろから包丁で刺して、(お金がないので)海に飛び込んでブラジルに帰ることを夢想した。
入門5ヵ月後、同日入門の2人は、同日デビューした。
力道山はそれぞれの対戦相手に指示し、馬場は花を持たされ、猪木は手加減なしで痛めつけられた。
馬場が海外修業に出て成功しメインイベンターとなったとき、猪木は前座をつとめた後、力道山の汗を拭き、殴られた。
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力道山存命中に、馬場と猪木は16回対戦し、馬場が全勝した。
またその間、猪木が海外に出されなかった。

ヒーローの苦しみ

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40歳になっても力道山はリングに立ち続けた。
実業家として資金源はプロレスだったし、外人レスラーの高額なギャラや税金の支払い、自分が抱える20人以上のレスラーの給料などを年間の試合数は60~70試合で捻出しなくてはならなかった。
猪木と馬場はまだ2年目。
任せられる後継者はまだいなかった。
やがて睡眠薬をはじめいろいろな薬を常用し始め、次第にその量は増えていった。
力道山は同郷の幼馴染が経営する五反田の焼肉屋に訪れた。
他の者と一緒に行くときもあったが、決して故郷の話はしなかった。
1人で行くときは、夜中の2時に閉店間際だった。
誰にもみられたくなかったのだ。
そして故郷の話ばかりした。
多くの在日朝鮮人が自分の本名をで隠し、後ろ指をさされないように生きていた。
力道山はあまりにも有名だった。
出生を隠すために膨大なエネルギーを消費した。
日本中の尊敬と憧れの的だったヒーローは悩み苦しみ続けていた。

結婚した年に刺殺

田中敬子と力道山

田中敬子と力道山

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