佐山聡が虎のマスクをかぶるまで
2022年6月20日 更新

佐山聡が虎のマスクをかぶるまで

佐山聡は、山口県に生まれ、子供の頃からアントニオ猪木を崇拝し「プロレスこそ真の格闘技」「プロレスこそ最強の格闘技」と信じ、プロレスラーになることを決めた。

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佐山聡の父、文雄は東京生まれ。
文雄の兄(佐山聡の叔父)は、京都大学に首席で入学したが、在学中に肺結核で他界。
神田神保町で歯科医をしていた父(佐山聡の祖父)も亡くなると文雄は5歳下の弟、武雄と2人で満州へ移住。
それまで不自由なく生活していた兄弟は親戚にたらい回しにされ、文雄は厄介者扱いされながら満州の中学を通常より5年も遅れて卒業した。
満州鉄道に入社した年、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したものの、文雄は経理の仕事を続けた。
しかし終戦数ヵ月前、満州を支配していた関東軍が18~45歳の日本人男子20万人を招集。
文雄も
「各自、包丁やビール瓶など武器となるものを携行すべし」
と書かれた招集令状を受け取った。
ソ連軍の侵攻が始まると役人、軍人、鉄道関係の上層部とその家族がいち早く脱出。
多くの民間人は取り残され、つぎはぎのようになった関東軍は並木を倒してバリケードをつくり、市街地の石畳をはがして壕を掘った。
文雄は爆薬の入った箱を渡され、戦車が来たら飛び出して体当たりして自爆するよう命じられ、1人で蛸壺に入った。
1945年8月15日、日本では玉音放送が流れたが、関東軍は
「生きて虜囚の辱めを受けず」
と抵抗を続けた。
やがて停戦命令が出ると戦車に遭遇せず命拾いした文雄は捕虜としてハバロフスクの収容所に連行された。
-30℃の中、炭坑や土木建設など重労働をさせされ、食事は、1日にパン1個とスープ3杯。
肺炎や栄養失調で倒れる者が続出したが、文雄は生き抜き、2年後、引き揚げ船で京都の舞鶴へ。
そして 関門海峡と瀬戸内海に面した山口県下関市長府の神戸製鉄に入社した。
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文雄が日本に帰った1年後、1948年、24歳のカール・ゴッチがロンドンオリンピックのフリースタイル、グレコローマンスタイル、両スタイルの87kg級ベルギー代表として出場し、共に予選落ちした。
後に佐山聡の師となるカール・ゴッチは、ベルギー生まれのドイツ育ち。
10代でレスリングを開始し、第2次大戦中はナチス政権下のドイツの軍需工場で左手小指の大部分を失う事故に遭い、終戦直前には11ヵ月間、強制収容所に入れられたが、終戦し解放されると再びレスリングに打ち込んだ。
オリンピックから2年後の1950年にはプロレスデビューを果たし、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦した。
レスリングの起源は紀元前。
古代の人々はレスリングを神と科学の芸術とみなし、実施者には文武両道が求め、数千年後の現在、アマチュアレスリングは

・つかむ場所に制限がなく全身を攻めることができるフリースタイル
・下半身を攻めてはいけないグレコローマンスタイル

という2つのスタイルで競技を行っている。
一方、プロフェッショナルレスリングは、1830年頃、フランスのサーカスや見世物小屋でレスラーが
「オレを倒したら50フランやる」
といって戦ったのが始まりといわれ、それが広まってレスリングだけの興業も行われるようになった。
試合は賭博の対象にもなり、プロレスラーは賞金稼ぎ。
彼らは真剣勝負を行ったため、100年以上、プロレスは誇り高き格闘技だった。
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プロレスラーになって1年、イギリスのビリー・ライレージムを訪れたカール・ゴッチは、最初のスパーリングで1分もたたないうちに関節技を極めらて負けてしまった。
レスリングは基本的に相手を投げたり、倒したり、押さえつける競技。
しかし元イギリスミドル級チャンピオン、ビリー・ライレーが率いるジムで行われていたのは、
「Catch As Catch Can(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」
と呼ばれるレスリング。
それは
「つかまえられるものならつかまえてみろ」
「やれるものならやってみろ」
というような意味だが、投げやフォールに加え、相手を戦闘不能にするサブミッション(関節技)があるレスリングだった。
例えば通常のレスリングでは相手にバックをとられると、投げられるのを防ぐために亀になったり、うつ伏せに長くなって寝ることがあるが、関節技があるとそうはいかない。
道場生がそんな体勢をとればビリー・ライレーは、
「この腰抜けが!」
とケツを蹴り、
「動け」
「立て」
と指示。
防戦一方になるのではなく、エスケープしたり、切り返しを試みることを求めた。
またビリー・ライレー・ジムでは、関節を極めるためにあらゆる技術を駆使した。
その蛇のからみつくような攻撃的ファイトスタイルから
「Snake Pit(蛇の穴)」
と呼ばれ、恐れられていた。
道場には厳しさ、真剣さ、熱さがあり、道場生のモチベーションは高かった。
カール・ゴッチは、この道場に数年間通い続けた。
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1956年4月、中学2年生の猪木寛至、後のアントニオ猪木がブラジルに移住した。
11人兄弟の9番目として生まれたとき、神奈川県横浜市鶴見区の生家は石炭問屋を営む110坪もあるお屋敷だった。
しかし第2次大戦後、エネルギー需要が手間がかかる石炭から石油へと移行すると猪木家は徐々に苦しみ始めた。
小学校で1番体が大きく力も強かった猪木は、力道山をみて
「プロレスラーになりたい」
と憧れた。
中学生になると最初にバスケットボール部に入ったが、上級生にボールをぶつけられて仕返しにブッ飛ばしてしまい、すぐに退部。
5歳上の兄、快守がやっていた陸上競技の砲丸を持った瞬間、
「これだ!」
と思い、以降、学校には砲丸を投げるために通っているようなものだった。
「当時は横浜の鶴見から富士山がみえた。
富士山まで投げるぞっとそんな気持ちで練習していた。
でも近くにボトっと落ちちゃう」
こうして砲丸投げに熱中し始めた矢先、中2の4月、一家でブラジルに移住することになった。
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ブラジルでは着いた翌日の朝の5時からラッパの音で起こされ、17時まで働かされた。
「最初はコーヒー園で、その後が綿花、そして落花生の畑で働きました。
季節によっても違いますが、午前5時に起きて日が暮れるまで働きました。
家に帰ってシャワーを浴び、食事を済ませてから寝るだけです。
1週間のうち日曜日だけが休みですが、その日もコーヒー園の中を片道2時間ほどかけて市場まで買い出し。
そんな生活でした。
ご飯はいっぱい食べましたね。
丼飯5杯とか米櫃が空になるくらい食べました。
それと豆ですね。
フェジョアーダという豆とモツを煮込んだような料理」
ある日、ブラジルでも陸上競技を続けていて快守が砲丸を買ってきて、久しぶりに投げてみると日本で投げたときより倍くらい飛んだ。
猪木は重労働によって鍛えられていることを実感。
再び砲丸投げにハマり、仕事の合間に投げるようになった。
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アントニオ猪木がブラジルに移住した翌年、1957年1月27日、文雄が43歳のとき、佐山聡が誕生した。
1958年10月、1年半のコーヒー農園との労働契約が終えた猪木は、昼間はサンパウロの高校に通って砲丸投げの練習を、夜は青果市場で客が買ったものをトラックに載せる「かつぎ屋」の仕事をするようになった。
そして1959年、砲丸投げでブラジルの全国大会で優勝。
このとき日本プロレスがサンパウロ興業に来ており、力道山は新聞で猪木の活躍を知って興味を持った。
青果市場長は日本プロレスの招聘委員をしていて、それを知ると猪木をホテルに連れていった。
力道山はいきなり、
「裸になれ」
といい、その肉体に納得すると
「よし、日本へ行くぞ」
猪木の家族には
「3年でモノにしてみます」
といい日本につれて帰った。
帰国した猪木は、日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングと力道山の付き人の仕事が始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、スクワットによって流した汗が水溜りとなり、季節によっては湯気となって道場に漂った。
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
という力道山は、なにかあれば容赦なく竹刀を飛ばした。
そして朝から夜まで付き人としてついてくる猪木をまるで目の仇のように厳しく育てた。
リングシューズを履かせながら
「違う」
と蹴飛ばしたり、普通の靴も
「履かせ方が悪い」
といって殴ったり、飼い犬を番犬として教育するための実験台にしたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり
「声を出すなよ」
といってアイスピックで刺したり、素人に殴らせたりした。
猪木は本気で殺意を覚えたという。
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1960年、アントニオ猪木がブラジルから日本に帰った翌年、オリジナルホールド「ジャーマン・スープレックス」でヨーロッパのトップレスラーとなったカール・ゴッチがアメリカへ進出。
カールゴッチにとってレスリングは誇りであり、偉大な格闘技であり、キング・オブ・スポーツだったが、アメリカのプロレスは完全なショービジネスだった。
必要なのは地味な寝技や本当の強さではなく、巨大な肉体を持つプロレスラーによる派手なアクションやパフォーマンス。
仕事として試合をするプロレスラーは、客に
「死んでしまうのではないか」
と思わせるような技を繰り出しつつ、実はできるだけできるだけダメージを与えないというのが理想的。
最強のレスラーがチャンピオンになると信じ、 常に素手でいかに効率良く人を殺せるかを考え、トレーニングと練習を怠らないゴッチは弱いレスラーに嫌悪感を抱いた。
相手に花を持たせようなど微塵も考えず、妥協も派手さもないゴッチのファイトスタイルはプロモーターから
「独り善がり」
「プロレスを理解していない」
と嫌われ、一方でファンは、その実力を
「真のプロレスラーでありシューター」
と評価され、アメリカでの評価は賛否両論だった。
ちなみに「シュート(Shoot)」とは真剣勝負を意味し、その反対は「ワーク(Work)」
共にプロレス界独特のスラングである。
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1961年5月、来日できなくなったレスラーの代役としてカール・ゴッチが初来日し、日本プロレスのリングでジャーマン・スープレックスを決めた。
日本人は初めてみる「原爆固め」の美しさと迫力に驚いた。
その後、ゴッチはアメリカへ戻り、NWA世界ヘビー級チャンピオン「鉄人」ルー・テーズに挑戦したが、タイトルマッチで9戦5敗4分、ノンタイトルマッチでも7戦7分と1度も勝たせてもらえなかった。
6回目のタイトルマッチではテーズにバックドロップをしかけられて、その腕をとってわき固め(関節技)にいこうとして体重をあずけ、テーズが肋骨を骨折。
テーズが戦線を離脱したため、興行的に大きな損害を被ったプロモーターから恨まれた。
テーズは、
「本当に恐ろしい男」
「私を最も苦しめた挑戦者」
とその実力を認めたが、結局、ゴッチは「無冠の帝王」で終わった。
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カール。ゴッチが初来日して3年後、小2の佐山聡は9歳上の兄、彰に連れられて近くの神社で行われていた柔道道場に入った。
2人は異母兄弟で、彰は先妻の子供、佐山聡は先妻の妹、みえ子の子供。
彰が、
「聡」
と呼ぶと、みえ子が
「聡ちゃんといいなさい!」
と怒ることもあった。
そういった家庭の事情から文雄は、佐山聡を母親(佐山聡の祖母)に預けることにした。
こうして佐山聡は、同じ下関市ながら瀬戸内海側の長府から日本海に面した綾羅木に引越し。
大自然の中、短パンにランニングで真っ黒になって遊び回る一方、明治生まれで非常に礼儀に厳しい祖母から、正座の仕方から切腹のやり方まで教わった。
「大きくなったら」
という題の小学校の作文では
「ぼくは大きくなったらけいさつになりたいです。
パトロールカーのうんてんしゅになりたいです。
りっぱなけいさつになって、とうとうおしまいに、けいしそうかんになりたいです。
そしてたくさんのどろぼうをつかまえようとおもいます」
と書いた。
小2で警視総監を志した佐山聡は、小4でキックボクサー、沢村忠に遭遇。
部屋の照明のヒモを蹴るようになった。
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1967年11月、カール・ゴッチが再来日し、日本プロレスのコーチに就任。
東京、恵比寿に住み、渋谷のリキ・スポーツパレス(力道山が建てた総合スポーツレジャービル)で若手を徹底的に鍛えた。
ゴッチはすさまじいパワーとレスリング、関節技の技術、そしてさまざまなトレーニングメソッドを持っていて
「プロレスの神様」
と呼ばれた。
このときアントニオ猪木は24歳。
力道山が死去した3年後、東京プロレスを旗揚げしたものの3ヵ月で倒産し、日本プロレスに戻ってジャイアント馬場とタッグを組んでいた。
ゴッチは稀有な身体能力を持つアントニオ猪木を熱心に指導。
レスリングの技術だけでなく
「君たち日本人の手で、本物のプロフェッショナル・レスリングを取り戻してほしい」
とその精神を教え、それを猪木は熱心に聞いた。
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