力道山なら勝てる!アメリカに勝てる! 敗戦で傷ついた日本人に勇気を与えたヒーロー
2017年6月21日 更新

力道山なら勝てる!アメリカに勝てる! 敗戦で傷ついた日本人に勇気を与えたヒーロー

敗戦により荒廃し、占領された日本で、からだの大きな外人レスラーを叩きのめして、投げつけることで、鬱積とした日本人の感情を力道山は爆発させ勇気を与えた。

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1963年6月5日、力道山は田中敬子と結婚した。
田中敬子は、日本航空のスチュワーデス。
その父、勝五郎は、神奈川県警の警視で、警察署長だった。
結婚式の招待客は3000人。
総費用5000万円。
2日後、新婚旅行に出発。
1ヵ月かけてヨーロッパからアメリカを回った。
旅先で服や靴で気に入ったものがあると1ダースくらいをまとめて買った。
帰国後はリキ・アパートで暮らした。
皿洗い機、乾燥機、温蔵機などが揃っていた。
ニューラテンクォーター

ニューラテンクォーター

1963年12月8日、相撲協会の理事で元横綱、前田山である高砂親方が力道山と面会した。
用件は大相撲のアメリカ巡業について相談だった。
力道山にとって、相撲協会の幹部が頭を下げているのは快事だった。
上機嫌で料亭に親方達を招待して飲んだ。
その後のTBSのラジオ番組「朝丘雪路ショー」にゲスト出演したが、酔っ払って上機嫌で冗談をいい、大声で歌う力道山をみて、番組の制作者は収録を見送った。
TBSをあとにした力道山は、側近と共に赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」に向かった。
ニューラテンクォーターはアメリカ人:テッド・ルウインの経営だった。
ルウインは、かつてフィリピンのマニラで「リベラルクラブ」という賭博場を経営していた国際賭博の大ボスで、戦後、モーリス・リプトンという札つきの子分を連れて日本に貴金属商と称して来日した。
ルウインは銀座の「マンダリン・クラブ」などを本拠に、モナコさながらの国際賭博を開帳し芸能人などを集めて派手にやっていたが、警視庁の手入れを受けマニラに逃げ、しばらくしてから再び来日し赤坂でナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」を経営した。
「ニュー・ラテン・クォーター」の他、麻布仲町の「ゴールデン・ゲート」など都内数ヶ所のアメリカ人経営のナイトクラブで国際賭博を開きあくどい稼ぎをあげていた。
他に怪しげなアメリカ人が集まる場所として、立川のキャバレー「ゴールデン・ドラゴン」、横浜桜木町の「エメラルド・クラブ」などがあり、こうした場所で香港から密輸されてくるアメリカ製のピストルや小銃などが、右翼団体や暴力団に流れた。
力道山は「ニュー・ラテン・クォーター」によく出入りした。
気分がいいときはドアボーイに1万円札を与えたりしていたが、テーブルをひっくり返したり、ケンカをふっかけたり、マフィアにつながるような外人を2、3人まとめてやってしまったこともあった。
毎年のように12月の暮れも押し迫る頃になると<力道山また暴れる>という見出しが記事が躍った。
この日もアメリカからやってきた黒人のバンドに向かって
「Negro Go Home.(黒人はウチに帰れ)
SonOf A Bitch(くそったれ野郎)」
と大声で怒鳴った。
そして直美というホステスと踊り、肩を抱いてトイレに向かった。
 (1880203)

小林楠男が率いる大日本興行(現:住吉一家小林会)組員だった24歳の村田勝志がホステスを2人連れてニューラテンクォーターに来たのは22時40分。
23時10分、村田勝志がトイレに行くと力道山が直美と立ち話していた。
村田勝志は力道山の後ろを通り抜けトイレの手洗いに入った。
するといきなり後ろから襟首をつかまれた。
「足を踏んだぞ」
「踏んだ覚えはない。」
2人は口論となった。
「この野郎!ブッ殺すぞ」
「殺せるもんなら殺してみろ!
原っぱの真ん中じゃあるまいし、あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかってしょうがねえだろう」
村田はそういって懐に手をやった。
それをみて力道山はいった。
「わかった。
仲直りしよう。」
「冗談じゃない。
人前でブッ殺すとまでいわれて、はいそうですかといったんじゃ俺も飯が食えない。
俺の顔が立つようにしろ。」
「なんだとこの野郎!」
力道山は村田の顎を拳で突いた。
村田は吹き飛んで壁に激突しうつぶせに倒れた。
力道山は村田の上に馬乗りになり村田の頭部を両手で無茶苦茶に殴った。
後ろから頭を殴りつけられている村田はベルトのナイフを握り、上半身を捻って力道山の左下腹部を刺した。
ナイフの刃は根元まで刺さった。
ドイツのゾーリング社製の錆びた登山ナイフだった。
力道山は飛ぶように後ろに下がり立ち上がり、手で腹を押さえて身構えた。
村田は力道山の脇をすり抜け走って逃げた。
力道山は服をめくって傷口をみた。
そして周囲の心配をよそに席に戻った。
そして突然ステージに走り出し、歌手のマイクを奪いとり吠えた。
「皆さん気をつけてください。
この店には殺し屋がいます。
早く帰ったほうがいいですよ。」
支離滅裂なことを叫んでからマイクを投げ捨てた。
刺されてから15分後、車に乗り、山王病院に向かった。
側近たちは、赤坂にある有名な外科病院:前田外科を勧めたが力道山は嫌がった。
山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは親しい医者のいたからだった。
力道山は山王病院につくと暴れた。
手あたり次第、投げてひっくり返した。
側近はひとまず力道山を家に連れ戻った。
村田勝志は、家に帰り、自首するために洗面用具などを用意していたが、親分である小林楠男に連れられ力道山の家に向かった。
力道山の家の周辺は、すでに力道山と関係の深い東声会の男たちが集まっていた。
小林楠男はインターホンで謝罪の意を告げ、力道山が逆上するのを防ぐため、自分だけ力道山の家に入った。
村田勝志は6、7人の東声会の面々に取り囲まれた。
丸太で殴られ、牛刀で頬を切られた。
村田は謝りに来ている身なので我慢していた。
しかし一緒に来ていた友人に手を出されたのをみて力道山を刺した登山ナイフを相手の腹に刺した。
そして木刀で周囲の明かりを叩き割り、ナイフを振りかざし威嚇した。
そこに警官が到着し、小林楠男と東声会の親分も出てきた。
2人の親分は、とりあえずこの場はおさめようといい、村田は警官にナイフと木刀を渡し、逮捕された。
村田に刺された東声会男は死ななかった。
山王病院

山王病院

力道山は再び山王病院に行った。
診察の結果、緊急手術が必要と判断されたが山王病院には力道山の傷を手術できる執刀医がいなかった。
12月9日、深夜、聖路加病院の外科医長に執刀を要請し力道山の手術が行われた。
小腸が4ヵ所切れていたが、手術は成功し命に別条は無いものと思われた。
12月15日、力道山の腹がふくらみ、痛み始めた。
回傷口をみた院長が腹膜炎で腸閉塞を起こしているのを発見。
再び聖路加病院の外科医長が呼ばれ午後2時30分再手術が始まった。
これも成功したと報告されたが、21時頃から力道山は危篤状態に陥り、22時35分に死亡した。
力道山はうめくように指を3本出して、こと切れてしまった。
この3本の指で何を伝えたかったのかは、今も謎のままである。
力道山を刺した村田勝志は、1審で12年、2審で8年、最高裁で懲役7年の刑が下され、キッチリ7年間、刑に服した。
出所後、村田組の組長として都内に事務所を構えた。
力道山の命日の翌日、人目を避け力道山の眠る大田区の寺に参っていたという。

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事件から30年後の1993年、岐阜大学医学部教授である土肥修司の著書『麻酔と蘇生』が出版された。
これには力道山の死因についても書かれている。
<力道山の死は出血でもショックでも何でもなく、単に運び込まれた病院で麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった
・・・・・・
問題は、筋弛緩薬を使用したために外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかった(人工呼吸をしなかった)ことによる無酸素状態が死亡の原因であった。>
筋弛緩薬とは、人工呼吸のためのチューブを体内に入れる(気管内挿管)時、その作業をやりやすくするために体の筋肉を柔らかくする麻酔薬の一種である。
全身麻酔を必要とする手術の場合、筋弛緩薬を投与し、筋肉が緩んだ直後にチューブを体内に入れ人工呼吸を行うのが一般的なやり方だという。
土肥教授によれば、力道山は筋弛緩薬によって筋肉が緩んだが、太い首が災いし、気道が広がらずチューブの挿入に失敗したという。
土肥教授は留学先のアメリカで、力道山の手術について知る当時の医学生から事情を聞き、後に専門医として調査した結果を発表した。
 (1880209)

2002年、力道山の孫娘の朴明哲が北朝鮮の女子重量挙げの監督として釜山アジア大会に参加した。
へジョンは力道山の長女:金英淑と北朝鮮選手団を引率しているパク・ミョンチョル北朝鮮体育指導委員長の四女。
高校では体操選手、その後重量挙げ指導者になった。
一方、村田勝志の愛娘:篠原光は、格闘家として活躍した。
篠原光

篠原光

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