2021年3月8日 更新
【若尾文子】性典女優と呼ばれた若い頃!死別した夫・黒川紀章との馴れ初めなども紹介!
最近はソフトバンクのテレビCMで話題となった大女優・若尾文子さん。今回の記事では、そんな彼女に注目して、性典女優と呼ばれた過去や死別した夫・黒川紀章さんのことなども振り返っていきたいと思います。現在の活動ぶりについても調査していますので、ぜひ記事をご覧になってくださいね。
マルチな活躍ぶりを見せた若尾文子さん
若尾文子さんの経歴
1933年、若尾家に5人兄姉の末っ子として生を受けた若尾文子さん。当時は戦時中だったため、宮崎県仙台市に一家で疎開して幼少期を過ごしました。若尾文子さんが15歳のころ、疎開先で母・兄が他界してしまい、その後は姉が若尾文子さんの母親代わりになって育ててくれたといいます。
疎開先から東京に帰ってきた若尾家。母親代わりとなって若尾文子さんの面倒をみてくれていた姉の旦那さんは、大映のニューフェイスの募集広告を見るや、若尾文子さんの写真を勝手に送って応募してしまいます。
すると見事に合格し、1951年、大映に入社することになります。
”性典女優”のイメージを返上し、世間から高い評価を獲得。可憐な存在でありながらも、激しい情念を内に秘めた女性を表現する演技ぶりから、日本映画を代表する正統派女優としても名前が挙がるようになりました。
1971年、大映が倒産すると、若尾文子さんは映画を離れてテレビドラマや舞台に活躍の場をシフトしています。1988年、NHK放送の大河ドラマ『武田信玄』では主人公の母親役とナレーションを務め、「今宵はここまでに致しとうござりまする」のセリフで流行語大賞を獲得しています。
2007年には共生新党の公認候補として、比例区から出馬するも落選してしまいました。
若尾文子さんにまつわるエピソード
”性典女優”のトラウマ
以下は、若尾文子さんのことを紹介した記事からの抜粋です。
映画「十代の性典」に出演されると、映画は大ヒットを記録し、若尾さんは、たちまち人気を博します。
ただ、「十代の性典」は、当時の時代背景から、教育関係者や新聞・雑誌から激しいバッシングを受け、若尾さんも、「性典女優」と酷評されてしまいます。
そのことがトラウマとなったのか、以降、長きにわたり、若尾さんの前では、「性典」の2文字はNGワードとなり、インタビューなどでもタブー扱いされたそうで、
そのためか、「十代の性典」は、ビデオ化もVTR化もされないうえ、「名画座」などでも上映されることがなく、若尾さんが他界しない限り、スクリーンで見ることはできないのでは、とまで噂されたのでした。
(ただ、2010年には、ミニシアターで上映されたそうで、若尾さんも、長い年月を経て、ようやく受け入れられるようになったのかもしれませんね。)
ちなみに現在ではDVDなど商品化されていますので、代表作品の項目でご紹介させていただきます。
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(旧姓:若尾)
生年月日:1933年11月8日
出身地 :東京都豊島区
職業 :女優
活動期間:1951年~