マルチな活躍ぶりを見せた若尾文子さん
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若尾文子さんの経歴
1933年、若尾家に5人兄姉の末っ子として生を受けた若尾文子さん。当時は戦時中だったため、宮崎県仙台市に一家で疎開して幼少期を過ごしました。若尾文子さんが15歳のころ、疎開先で母・兄が他界してしまい、その後は姉が若尾文子さんの母親代わりになって育ててくれたといいます。
幼少期の若尾文子さんは体が弱くて読書が好きだったそうですが、終戦するとアメリカの映画が日本国内でも上映されるようになり、若尾文子さんはその魅力に夢中になったみたいです。こうした幼少期の経験が、後に女優として活躍する若尾文子さんの土壌を形成したのかもしれませんね。
疎開先から東京に帰ってきた若尾家。母親代わりとなって若尾文子さんの面倒をみてくれていた姉の旦那さんは、大映のニューフェイスの募集広告を見るや、若尾文子さんの写真を勝手に送って応募してしまいます。
すると見事に合格し、1951年、大映に入社することになります。
すると見事に合格し、1951年、大映に入社することになります。
翌年1952年、映画『死の街を逃れて』にて女優デビュー。1953年に出演した映画『十代の性典』はたちまちヒットし、若尾文子さんの知名度は一気に上がるものの、その過激な内容から”性典女優”と呼ばれるようになってしまいました。
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”性典女優”のイメージを返上し、世間から高い評価を獲得。可憐な存在でありながらも、激しい情念を内に秘めた女性を表現する演技ぶりから、日本映画を代表する正統派女優としても名前が挙がるようになりました。
映画雑誌の化粧品広告(「キスミー香水」)に登場の #若尾文子 さん(画像1)。当時、大映所属。「清楚」を画に描いたような美しさです♪ pic.twitter.com/Doa3T8kL7H
— 昭和レインボー (@ShowaRainbow) February 19, 2021
それ以降は大映の看板女優として活躍され、出演された映画は260作品を裕に超えています。1960年代には各映画賞を総なめにするほどの勢いがあり、戦後の時代を代表する女優といえるでしょう。
1971年、大映が倒産すると、若尾文子さんは映画を離れてテレビドラマや舞台に活躍の場をシフトしています。1988年、NHK放送の大河ドラマ『武田信玄』では主人公の母親役とナレーションを務め、「今宵はここまでに致しとうござりまする」のセリフで流行語大賞を獲得しています。
2007年には共生新党の公認候補として、比例区から出馬するも落選してしまいました。
2000年、映画雑誌『キネマ旬報』から発表された20世紀の映画スターでは、女優編で8位にランクイン。2014年発表のオールタイムベストにおいては、日本映画女優の2位に輝き、その功績を称えられています。
若尾文子さんにまつわるエピソード
”性典女優”のトラウマ
以下は、若尾文子さんのことを紹介した記事からの抜粋です。
映画「十代の性典」に出演されると、映画は大ヒットを記録し、若尾さんは、たちまち人気を博します。
ただ、「十代の性典」は、当時の時代背景から、教育関係者や新聞・雑誌から激しいバッシングを受け、若尾さんも、「性典女優」と酷評されてしまいます。
そのことがトラウマとなったのか、以降、長きにわたり、若尾さんの前では、「性典」の2文字はNGワードとなり、インタビューなどでもタブー扱いされたそうで、
そのためか、「十代の性典」は、ビデオ化もVTR化もされないうえ、「名画座」などでも上映されることがなく、若尾さんが他界しない限り、スクリーンで見ることはできないのでは、とまで噂されたのでした。
(ただ、2010年には、ミニシアターで上映されたそうで、若尾さんも、長い年月を経て、ようやく受け入れられるようになったのかもしれませんね。)
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ちなみに現在ではDVDなど商品化されていますので、代表作品の項目でご紹介させていただきます。
(旧姓:若尾)
生年月日:1933年11月8日
出身地 :東京都豊島区
職業 :女優
活動期間:1951年~