試合や練習だけでなく、私生活の面からも選手育成を行う巨人軍。
若手選手が生活した多摩川寮で、「鬼寮長」と呼ばれた武宮敏明をご存知ですか?
実は巨人の選手としても活躍した人物でした!
若手選手が生活した多摩川寮で、「鬼寮長」と呼ばれた武宮敏明をご存知ですか?
実は巨人の選手としても活躍した人物でした!
1940~50年代に巨人の正捕手だった武宮敏明
右投右打、ポジションは捕手。背番号は12番。
1921年11月25日生まれ。熊本県出身。
熊本工業から満鉄倶楽部、熊本鉄道管理局、九州産業交通を経て1947年、読売ジャイアンツに入団。
1940年代から1950年代にかけて正捕手として活躍。
川上哲治の親友として知られる。
1952年、現役引退。
via www.giants.jp
入団の翌1948年から正捕手となりました。
その年の10月3日対阪神戦でランナーの藤村富美男から体当たりを受け、脳震盪を起こします。
ランナーが捕手に体当たりをかけたのは日本のプロ野球ではこれが第1号と言われていて、武宮はその最初の捕手となりました。
その年の10月3日対阪神戦でランナーの藤村富美男から体当たりを受け、脳震盪を起こします。
ランナーが捕手に体当たりをかけたのは日本のプロ野球ではこれが第1号と言われていて、武宮はその最初の捕手となりました。
1953年から寮長となった!
1953年に二軍監督、コーチに就任。同時に川崎市中原区新丸子に所在していた巨人の合宿所「多摩川寮」寮長となった。
規則に大変厳しく、午後10時の門限やその他規則を破った選手には容赦なく鉄拳制裁を加えていた。
ただし、新人や若手に対する優しさと指導力は内外から高い評価を受けており、彼の元で育った寮生たちはジャイアンツの主力として活躍し、「V9」達成など巨人史に功績を残していくこととなった。
1973年から2年間寮長職を離れ、名目上コーチ兼務だったが、前川八郎の後任としてスカウト部長を務めていた。
その間に湯口事件が起きる。育成現場を離れていたため、湯口敏彦と直接関わる事が少なく、詳しい経緯を直ちに把握できなかったという。
後年、自著「巨人軍底力の秘密 鬼寮長の選手教育」で、「スピード、球威とも新浦とは比較にならないほど素晴らしく、巨人史上最高の左腕になるはずの逸材だった」と湯口の才能を評価し、その死を惜しんだ。
同時に「生真面目すぎて相手の性格に合わせる指導をせず、常に湯口を緊張状態においていた二軍監督と繊細な湯口との取り合わせは最悪だった」と、当時の二軍監督・中尾碩志を批判しており、球団側に落ち度があることを認めていた。
「湯口事件」とは?
湯口事件は、巨人にドラフト1位の投手として入団した湯口敏彦が、1973年3月22日に急死したことをきっかけに、監督の川上哲治はもとより、球団全体へのバッシングに発展した事件です。
練習や試合中に体罰や過度な精神的ストレスが与えられ、うつ病を患ってしまった湯口。
それから入退院を繰り返し、1973年に病院のベッドで死亡しているのが見つかりました。
死因は心臓麻痺との発表でしたが、うつ病とはいえ、身体は元気だった湯口の死因に好奇の目が向けられ、自殺ではないかと雑誌などによるバッシングが相次ぎました。
練習や試合中に体罰や過度な精神的ストレスが与えられ、うつ病を患ってしまった湯口。
それから入退院を繰り返し、1973年に病院のベッドで死亡しているのが見つかりました。
死因は心臓麻痺との発表でしたが、うつ病とはいえ、身体は元気だった湯口の死因に好奇の目が向けられ、自殺ではないかと雑誌などによるバッシングが相次ぎました。
湯口敏彦 - YouTube
via www.youtube.com
1975年からはコーチ・スカウト職を退き1982年まで寮長職に専念する。
その後は編成担当などを務めた。
合宿所が新丸子から川崎市のよみうりランド近傍に移転した後も河埜和正、定岡正二、西本聖、篠塚利夫(現:篠塚和典)、原辰徳、駒田徳広、吉村禎章などといった新人選手を厳しく指導して行った。
寮長を引退する際、多摩川グラウンド横で営業していたおでん屋(グランド小池商店)に惜別の句を自筆で送っており、現在でも店舗に掲示している。
「グランドに(おでん屋に)通い続けて30年 いつの間にやら頭真白」
武宮寮長のエピソード
あるとき、寮生の1人が門限の午後10時になっても帰ってこなかった。武宮寮長は全寮生を玄関に集め、その寮生が帰ってくるまで正座させたという。
また、朝は必ず部屋の窓を開け、布団をたたんでから散歩に行くよう徹底させた。その間に各部屋をチェックして回り、片付いてなければ外出禁止を課した。
厳しさの中にはユーモアもあり、寮生が全員でシャワーを浴びていたときに、シャンプーを流しているところに、また上からシャンプーをかけるような子供っぽいところがあったという。
馬場正平(後のプロレスラー・ジャイアント馬場)が巨人軍に入団した時、馬場の背丈の大きさに驚き、「二人部屋ではきついだろうから」ということで馬場にのみ個室を与えたという。
多くの選手を見る中で「コイツは将来はいい指導者になるな」と思う選手もいて、特に西武ライオンズで名将として、後に名を馳せた森昌彦(現:祇晶)については「将来は球界を背負う指導者になるな」と早くからその辣腕ぶりを見抜いていた。
「悪太郎」こと堀内恒夫との対決
武宮は一度寮長を退いていましたが、悪太郎の異名を持つ堀内恒夫の入団により、再度寮長の職に就きます。「手に負えない悪太郎に対抗するには、鬼の寮長・武宮しかいない」という理由からでした。
悪太郎vs鬼の寮長の対決は伝説になっています。
門限破りの常習犯の堀内に対し、一貫して厳しい指導を行いました。
ある日、朝6時に帰ってきた堀内を、武宮は竹刀でバシバシと叩きます。
寮長部屋のマイクスイッチが切られていなかった為、その激しい音が寮中に響き渡ったそうです。
しかし、堀内も負けじと風呂場に隠れたり、知恵を絞って門限を破り、朝帰りを繰り返したそうです。
悪太郎vs鬼の寮長の対決は伝説になっています。
門限破りの常習犯の堀内に対し、一貫して厳しい指導を行いました。
ある日、朝6時に帰ってきた堀内を、武宮は竹刀でバシバシと叩きます。
寮長部屋のマイクスイッチが切られていなかった為、その激しい音が寮中に響き渡ったそうです。
しかし、堀内も負けじと風呂場に隠れたり、知恵を絞って門限を破り、朝帰りを繰り返したそうです。