伊良部秀輝の通算成績
1988-96 ロッテ
243試合 59勝59敗11セーブ 1061奪三振
1997-99 ニューヨーク・ヤンキース
74試合 29勝20敗 315奪三振
2000-01 モントリオール・エクスポズ
14試合 2勝7敗 60奪三振
2002 テキサス・レンジャーズ
38試合 3勝8敗16セーブ 30奪三振
2003-2004 阪神
30試合 13勝10敗 171奪三振
NPB 11年 273試合 72勝69敗11セーブ 1282奪三振 防御率3.55
MLB 6年 126試合 34勝35敗16セーブ 405奪三振 防御率5.15
最多勝利 1回(1994年)
最多奪三振 2回(1994年、95年)
最優秀防御率 2回(1995年、96年)
243試合 59勝59敗11セーブ 1061奪三振
1997-99 ニューヨーク・ヤンキース
74試合 29勝20敗 315奪三振
2000-01 モントリオール・エクスポズ
14試合 2勝7敗 60奪三振
2002 テキサス・レンジャーズ
38試合 3勝8敗16セーブ 30奪三振
2003-2004 阪神
30試合 13勝10敗 171奪三振
NPB 11年 273試合 72勝69敗11セーブ 1282奪三振 防御率3.55
MLB 6年 126試合 34勝35敗16セーブ 405奪三振 防御率5.15
最多勝利 1回(1994年)
最多奪三振 2回(1994年、95年)
最優秀防御率 2回(1995年、96年)
高校時代
沖縄県コザ市(現沖縄市)で、父親は在日米軍兵士のアメリカ人、母親は日本人のハーフとして生まれる。父親は帰国し、兵庫県の尼崎市で育った。高校は香川県の尽誠学園高校に進学し、1986年、87年の夏の甲子園に出場。
尽誠学園に進学した伊良部の素質は光っていた。大河は「長身だがバランスが良く、強く柔らかい、理想の体をしていた」と話す。一方で指導に当たった投手コーチの太田高義(68)は入部当初の伊良部を「コントロールが悪い」と見ていた。やや下がった位置で腕を振っていた伊良部に、太田は遠投を命じた。「腕を縦に振ってボールの回転をきれいにしないと、遠投ではまっすぐ投げられない。1年の時はほとんど遠投だけだった」と話す。
via www.47news.jp
1987年の第69回選手権大会では、尽誠学園(香川)の伊良部秀輝の剛球が甲子園を沸かせた。のちにプロ野球のロッテ、米大リーグのヤンキースなどで活躍し、球界屈指の投手に成長する右腕は、大会注目のスラッガーをねじ伏せ、尽誠学園に甲子園初勝利をもたらした。
1987 伊良部秀輝 甲子園 夏 - YouTube
via www.youtube.com
ドラフト直前、朝日新聞は伊良部のことをこう書いている。
〈伊良部(尽誠学園)は将来性では一番かもしれない。現在は140・台前半の球速だが、阪急の藤井編成部長は「下半身を鍛え込めば、もっと速くなる」と太鼓判。「むらっ気の多い点が気になる」と危ぶむ声もあるが、それを割り引いても魅力ある素材〉(八七年十一月十五日)
「むらっ気の多い」伊良部の性格は広く知られていた。尽誠学園に凄い投手がいると、ほぼ全球団の関係者が見に来ている。中でも熱心だった日本ハムは、球団常務で元監督の大沢啓二が尽誠学園まで足を運んでいた。
大沢が尽誠学園のグラウンドに着いた時、伊良部はすでにその日のピッチング練習を終えていた。大沢がわざわざ来たのだと、監督の大河はマイクを使って「伊良部、投げや」とブルペンに呼びかけた。
「アンチャン、悪いね」
大沢の言葉に伊良部は軽く会釈し、ピッチングを始めた。しかし―全く力を入れない、軽いものだった。
しばらくすると、伊良部は大沢の顔を見て「もういいですか?」と呟いた。彼にしてみれば、もう練習は終わっている。どうして投げなければならないのだという気持ちだったのだ。
「よっしゃ、このピッチャー、五千万でもらった」
大沢は大声で笑い飛ばしたが、高校生になめられたと腹の中は煮えくりかえっていた。日本ハムは伊良部の指名を見送ることにした。
ロッテ時代
入団2年目に西武の清原和博との対戦時に156km/hをマークするなど当時から球速はめっぽう速かったが、コントロールが悪くカウントを悪くしては失投を痛打されるなど入団後数年は試練の時が続いた。起用法も先発・リリーフなど一定ではなかった。
via matome.naver.jp
1993年5月3日の西武戦で清原との対戦時に158km/hをマーク[4]。以後、清原和博との対決は「平成の名勝負」とうたわれ、シーズン後半から投球のコツを掴み7連勝を記録した。起用法もローテーション投手として固定されるようになった。また日本ハムファイターズ監督の大沢啓二がマスコミ相手に「幕張の浜で伊良部クラゲに刺された、イテテテ…」と言ったことから「伊良部クラゲ」の異名がつく。しかし伊良部本人は、真夏以降にしか活躍できないというマイナスの意味から、伊良部クラゲと呼ばれることを非常に嫌っていた。
1994 伊良部秀輝 1 剛速球 試合終盤はこれぞ圧巻 - YouTube
via www.youtube.com
1994年、オールスターゲームに初選出され、シーズンも最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得[5]。
1995年、新監督に就任したボビー・バレンタイン指揮の下小宮山悟、エリック・ヒルマンとともに先発投手陣三本柱として、チームの2位躍進に貢献。最優秀防御率と2年連続の最多奪三振のタイトルを獲得した[6]。また4試合連続2ケタ奪三振も2年連続で記録している。
1996年は2年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得[7]。
メジャーリーグ時代
当時FA権を取得していなかった伊良部の保有権は所属球団のロッテが持っていた。ロッテはサンディエゴ・パドレスの2選手と、その伊良部の保有権をトレード。しかし伊良部はパドレス入団を拒否し、代理人の団野村とともにニューヨーク・ヤンキース入りを画策。日米球界を巻き込む大騒動に発展した。この問題を契機に、日本から米国への選手移籍に関するルールが議論され、誕生したのがポスティング制度である。
実際には生き別れとなった父親を見つけるには、メジャー屈指の名門チームであるヤンキースでプレーするのが最善と考えていたためだが、伊良部本人はこのことを最後までかたくなに否定し続け、また、自身の父親が米国人であることは知らなかったと虚偽の発言までしていた[8][9] [10]。