日本を代表するプロゴルファー青木功
あおき いさお。1942年8月31日生まれ。 千葉県我孫子市出身のプロゴルファー。
身長180cm。利き手は右。
日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。
身長180cm。利き手は右。
日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。
≪国内外での主な成績≫
[優勝回数]
通算85勝 <国内シニア9勝・海外シニア9勝・海外グランドシニア3勝>
[初優勝]
日本男子: 関東プロ (1971年)
米国男子: ハワイアン・オープン (1983年)
[賞金ランク最高位]
日本男子: 1位 (5度)
米国男子: 34位 (1983)
通算85勝 <国内シニア9勝・海外シニア9勝・海外グランドシニア3勝>
[初優勝]
日本男子: 関東プロ (1971年)
米国男子: ハワイアン・オープン (1983年)
[賞金ランク最高位]
日本男子: 1位 (5度)
米国男子: 34位 (1983)
青木功の華麗なる来歴
中学卒業後、東京都民ゴルフ場にキャディとして就職。その後、我孫子GCなどで腕を磨き、1964年にプロ入り。71年の『関東プロ』で初優勝を飾った。持ち球をフックからフェードに変えた73年に5勝と大活躍。当時は波の大きいゴルフだったが徐々に粘りのゴルフに転換し、76年には1勝ながら初の賞金王を手にした。
78年からは4年連続賞金王。同時に海外でも活躍し始めた。78年に英国開催の『ワールドマッチプレー』で優勝し、80年の『全米オープン』ではジャック・ニクラウスと争って2位。同年の『全英オープン』3日目には今もメジャータイ記録である63をマークした。
青木功 VS ジャック・二クラウス (80’全米オープン)
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1981年、正式な米国レギュラーツアーのライセンスを取得。マスターズ「パー3コンテスト」で二度目の優勝。
1982年、米国レギュラーツアーの賞金ランキング122位。日本人初のシード権を獲得。
その後、1983年にハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。ヨーロピアンツアー「ヨーロッパオープン」優勝した。
1989年に豪州ツアー「コカ・コーラクラシック」で優勝を果たし、世界四大ツアー (日米欧豪) 優勝を達成した。
1992年、米シニアツアー (現在の名称は「チャンピオンズツアー」) に主戦場を移し、同年の「ネーションワイド選手権」にて初優勝。
1994年から1997年にかけて、日本シニアオープンゴルフ選手権競技4連覇を達成。
また、1997年に青木功ジュニアクラブ発足させ、ジュニアの育成にも力を注いでいる。
1982年、米国レギュラーツアーの賞金ランキング122位。日本人初のシード権を獲得。
その後、1983年にハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。ヨーロピアンツアー「ヨーロッパオープン」優勝した。
1989年に豪州ツアー「コカ・コーラクラシック」で優勝を果たし、世界四大ツアー (日米欧豪) 優勝を達成した。
1992年、米シニアツアー (現在の名称は「チャンピオンズツアー」) に主戦場を移し、同年の「ネーションワイド選手権」にて初優勝。
1994年から1997年にかけて、日本シニアオープンゴルフ選手権競技4連覇を達成。
また、1997年に青木功ジュニアクラブ発足させ、ジュニアの育成にも力を注いでいる。
アメリカのゴルフ界に強烈なインパクトを残した!
ハワイアン・オープン優勝は、最終日・最終ホールでピンまでの距離128ヤードのショットでチップインイーグルを決めて、2位に1打差の勝利であった。
1打差でリードしたままホールアウトしたジャック・レナーがスコアカードを提出しているさなかの奇跡の逆転であった。同ショットは米国にて、80年代を代表する印象に残るショットの一つに選定されており、このショットで使用したパワービルト社製のPWピッチング・ウェッジは、世界ゴルフ殿堂の施設内に展示されている。
なお、128ヤードは勝利の翌日青木が歩測して確認した数字であり、翌日同じ場所から同じクラブで何度打ってもバンカーにつかまり、グリーンに届かなかったという。
青木功PGAツアー大逆転初勝利 2/2
歴史的なシーン!
ジャック・レナーの落胆する顔が印象的。
ジャック・レナーの落胆する顔が印象的。
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帝王ジャック・ニクラスに絶賛された青木功
当時帝王と呼ばれていたジャックに、「青木のスイングはアレでいいのか」と尋ねたのです。するとジャックは「アレでいいのなら、ゴルフの教科書はいらない」と答えたのです。それを耳にした私は、「誰にでも当てはまる教科書ってないはず。皆さんには奇異に見えても、自分にとってはオーソドックスなスイングです」と言い、胸を張ったのです。
多くのゴルファーがそうですが、憧れの選手をお手本にし過ぎ、自分のゴルフを見失ってしまうのです。お手本に忠実になる前に自分のよさを再認識し、その個性を磨くことが先だと思うのです。
80年の全米オープンが終わってしばらくして、ジャックは記者に「青木のゴルフの感想は」と聞かれると、「100ヤード以内の青木は世界一」と言ってくれたそうです。
青木功 Baltusrol Golf Club '94
1時間18分33秒~ ジャック・ニクラスが青木との戦いを振り返るシーン。
90年代に入り、年齢を重ねても青木の技術をリスペクトしていることが伝わるインタビュー。
90年代に入り、年齢を重ねても青木の技術をリスペクトしていることが伝わるインタビュー。
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ジャンボ尾崎との確執!?良きライバルから敵に!
90年5月、そんな2人の関係が急展開を迎える。
「尾崎が勝利した大会のゲスト解説を務めた青木が、『ジャンボ、おめでとう』と声をかけたところ、『そんなもん強いもんが勝つのは当たり前だ』とぶっきらぼうに言い放ったのです。青木は顔を紅潮させ、『それじゃあ、次の試合(第14回三菱ギャラン)でどっちが強いか決着をつけよう』と“果たし状”を叩きつけた」(前出・宮崎氏)
こうして日本屈指の超難コース、ゴールデンバレーゴルフ倶楽部(兵庫県西脇市)で2人は相まみえ、激突する。宮崎氏が続ける。
「難コースをねじ伏せようと言わんばかりの豪快なショットで攻めのゴルフを貫く尾崎。対して青木はコースに逆らうのではなく、ゲームの流れに沿った世界仕込みのしたたかなゴルフを展開。2人のプレーは、まさに対極そのものでした」
最終的には刻みのゴルフでミスを最小限に食い止めた青木が1オーバーで優勝。尾崎は3日目に崩れて4オーバーで2位タイに終わった。
「試合後、祝福の輪に包まれる青木を尻目に、尾崎は『コースを造るアホにプレーするアホ。同じアホなら刻まな損々』『こんなチマチマしたコース、やってられない』と吐き捨て物議を醸した」(前出・宮崎氏)
※アサ芸プラス「ジャンボ尾崎と青木功 「40年確執の果てに電撃和解」の裏真相」より引用。
青木功 プロ50周年祝賀会で、ジャンボ尾崎節炸裂!永遠のライバルがまさかの発表、俺のライバルは青木功じゃない!
時を経て、青木功とジャンボ尾崎が壇上で毒舌を交えながら、お互いを認め合うほほえましいシーン。
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